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アルカディア学報

No.153

特別連載 高等教育改革―国大と私大との関係をめぐって―6―

私学高等教育研究所主幹 喜多村 和之

 大学改革は古くて新しい問題である。エリック・アシュビーの表現を借りれば、過去800年の歴史の中で、大学史は自治や学部制や学位授与権といった伝統を頑固に守りながら、他方で緩慢に環境の変化に適応していくという、「持続」と「適応」の交替と調整を繰り返してきた。同時に大学の歴史は「変化の圧力に抵抗してその生命力を失うことによって、あるいはあまりにも安易に変化に屈従してその本質を失うことによって」自己の存続の危機に立たされた事例にも事欠かなかったのである。つまり大学はあまりに時代の環境や社会の要請に背を向け続けていては存続できないが、あまりに時代に迎合しすぎて大学の本質である学問の自由や自治の精神や制度を喪失することによって自らを滅ぼすことになるという、二重性格的宿命を担わされている制度だともいえよう。
 大学の改革が順調に進められてきた訳ではないのは今も昔も同じで、世間はしばしばそのあまりにも緩慢なる、変化の遅さに苛立つのを常としてきた。その一つの理由は大学の意思決定は教授会の合意に基づいて行なわれ、それはしばしば「会して議せず、議して決せず、決して行わず」と揶揄されるように、迅速かつ柔軟な意思決定に達することが困難な性格のためでもあろう。学問は効率的に結論に達することは困難なので、そうした思考や習慣が、迅速な決定を不可欠とする場面にも継承されているのかもしれない。自治を基本とする成員が自己の利益を阻害するような改革に合意することはありえず、合意が成立するのは教授会の自治権が拡張される場合のみだとは、前出のシェルスキーの観察であった。
 そこで「抵抗勢力」を突破できない代替として行われるのが、イノベーションという変革手段である。これは、抵抗の強い現状には手を触れずに、更地の上に新しい学部・学科やセンター等の革新的試みを外に作っていく方式であり、筑波大学に始まる新構想大学群の創設とか、既成の学部の外に新キャンパスや新学部を作っていくことがこれに当たり、次第に既成の部分に影響を及ぼそうとする戦略である。
 この方式は外目には派手に映るし、確かに新構想と新鮮な教授団で発足できるが、いわば長崎の出島のように、その部分だけが革新的だが、大学の中核部分にはインパクトが及ばないままであることが多いという問題がある。今でいえば小泉内閣の「構造改革特区」は、全国一律に「改革」を及ぼすことの「抵抗」に対する突破口として、とりあえず部分に「革新」や「試行」を実現し、いわば蟻の一穴主義で全体に革新を及ぼしていこうとする手法にあたる。その成否は、果たして部分が全体ないし中核部分の改革に繋がる可能性があるか否かにある。
 日本の大学は21世紀の現在、批判の十字砲火にさらされていると言っても過言ではない。例えば大学の質の国際的位置が極めて低いということが、国際競争力調査のランキングやマスメディアなどによって、あまり根拠の明確でない評価結果を使って増幅されて報道され、大学バッシングに利用されている。その結果、大学の競争力を強化するために、競争的資金を注入し、やみくもに未熟な評価システムを導入することが図られている。その背景には、財政難の現代で経済の再興に大学を「知の拠点」として活性化させようとする市場原理主義に則る勢力がある。
 市場原理主義者の主張は、日本の大学が「低迷」しているのは、ひとえに競争原理が働いていないからであり、例えばアメリカの大学のように大学間の競争が導入されれば、日本の大学も国際競争力のある大学に活性化されるというものである。そのためには競争を駆り立て、成果に応じて報償を行う評価測定システムが不可欠となる。そこで自己点検・評価という、身内による「生ぬるい評価方式」だけではなく、第三者による公明で客観的で透明性のある第三者評価が導入されなければならないとする。そこで政府は研究の競争資金として「21世紀COEプログラム」とか、教育の「刺激策」として「特色ある大学教育支援プログラム」といった官製競争政策を採用している。
 しかし、これらの派手な競争的資金による刺激政策が、はたして大学の日常の教育・研究の基本的質を高めることになるか否か、また一部の大学のみを強化しえても高等教育全体の質の底上げに繋がるかどうかは極めて疑問である。競争原理が健全に機能するためにはそれなりの条件が不可欠と考えるからである。
 日本の高等教育にも現在、幾多の国際的潮流とでも言うべき外圧が押し寄せてきてきている。高等教育の制度や規模が青年層の多数者を受け入れるマス段階から、年齢や時間を超えて万人の機会としてのユニバーサル(万人型)段階へと進行するにつれて、その過程で制度や機能には幾多の構造変化が生じてくる。このような大きなマクロの転換期には、各大学は自校の状況に応じてミクロの対応を図らなければならない。
 具体的には、各大学は、年齢や関心に応じた多彩な入学者の受け入れ、入学選抜、進学動機、学習形態、学力水準等々の多様化に直面して、入学制度や学生募集方式、新入生教育、教養教育、高大連携、補習教育、カリキュラムの再編、学部学科の新設・改編等に取り組まざるを得なくなる。誰もが大学生となれる時代には、大学教員にも教授法や教員研修(FD)が必要になる。また教育に力点をおくには、学習者とのフィードバックが不可欠となり、学生による授業評価や学生の成績評価の方法が探求されなければならなくなろう。
 また、これに費やされる経費も大きくなれば、その費用を誰が負担し、その受益者は誰か、はたして高等教育は社会に貢献しているのかという問いが出てくるのは当然である。授業料、入学金を含めた議論や係争も、今後ますます大きな問題となってくる。とりわけ高額の学費がかかる専門職大学院ではこうした議論がさかんになることは必至であろう。

 付記
 本稿は2003年7月~10月の筆者の入院中に執筆したため、最近の資料参照等に不十分な点があるかと恐れます。読者諸賢の御海容を懇願する次第です。今回、編集部のご厚意により、『都市問題研究』通巻六三五号に掲載された旧稿に加筆し改訂しました。この改訂原稿を本紙に掲載することを、許可して下さいました「都市問題研究会」に感謝の念をもって再掲させていただきました。(2004年3月)
(おわり)