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アルカディア学報

No.148

特別連載 高等教育改革―国大と私大との関係をめぐって―1―

私学高等教育研究所主幹 喜多村 和之

 2004年は大学改革が本番を迎える年とみられる。この際、これまでの高等教育改革の経緯と背景について、特に私学との関係を中心としてまとめ、振り返ってみることが必要であろう。以下にその一端を連載していきたい。

《「大学改革」の時代の再来》
 ここ10年余、「改革」という言葉を聞かない日はない。最近の歴代内閣で「改革」を旗印にしなかった政権はなく、現小泉政権下でも「聖域なき構造改革」の名の下に、経済や財政をはじめとするあらゆる制度・慣行とともに、高等教育も重大な「改革」のターゲットにされてきた。
 今日と似たような大規模な「大学改革ブーム」は1960年代末から70年代初頭にかけてみられた。そのときには大学という制度の内部から、具体的には学生や若手教員の中から、現代における大学そのものの意味や社会的な存在意義を問う動きが出てきたのである。この大学そのものを問い直す運動は、いわゆる「学生反乱」や「学園紛争」の全国的波及、パリやバークレイやニューヨークをも包摂する国際的な広がりで展開された。しかし、この「学生反乱」が何を意味し、どのように「総括」されるべきかという課題は未だに解明されていない。このとき多くの人は、初めて地球規模での「情報化社会」の到来を実感したのである。当時の世論やマスメディアは「大学問題」を「社会問題」ととらえ、連日大学批判とその解決策としての「大学改革」の必要性を強調した。世論の批判におされて、殆ど全ての大学は一斉に改革委員会を設置し、改革案の審議に着手した。そしてマスメディアから「紙吹雪の改革案」と称されるような無数の改革文書が書かれた。政府も大学の紛争を処理するための大学立法に踏み切らざるを得なくなり、大学の紛争解消のための臨時措置法も成立した。ところがこの大学立法の効果によってか、学園紛争のほとぼりが冷めかけると、今度はジャーナリズムもアカデミズムも一斉に「大学問題」から他に関心を移し(例えば「公害問題」など)、再び長きにわたる大学に対する無為と無関心が支配的な元の状況に戻ってしまった。当時のマスコミは、急速に大学改革への関心と実行への意欲が失われた状況について、一向に実現されない「大学改革」に対して、「大学改革とかけて何と解く。薄皮饅頭と解く。こころは餡(案)ばかり」とか、大学改革は「自分が座っている座布団をもちあげようとするようなものだ」などと揶揄したものであった。
 あれから半世紀近く経って行なわれようとしている高等教育改革は、70年代の改革運動とは規模と性格を大幅に異にしており、地殻変動とでもいうべき構造変動の様相を帯びている。なぜなら、21世紀の高等教育改革は、70年代に先送りされ、あるいは解決しえなかった古くて新しい問題が再び提起されているが、しかし大学側は改革の主導権を政治・政府や産業界に掌握されるままに、いわば「外圧」に翻弄されている側面が強いからだ。そして、このような外圧に対して、大学側の反応はきわめて緩慢で、部分的な抵抗にとどまり、世論を味方にひきよせたり、政府案を覆せるような有力な対案を提示することもできず、大学は事実上学外勢力の意のままに動かされているのが実態とみざるを得ない。
 例えば、国立大学法人法の成立によって、戦後以来、否、明治以来といってよい、司馬遼太郎風に言えば「この国の大学のかたち」が揺るがされようとしている。ドイツの社会学者H・シェルスキーは、歴史上、大学が大学制度全体の変革や個別大学自らを自律的な改革に成功したことは滅多になく、大学制度の全面的な変革が実現されるのは外部の力によってのみであり、その時は大学制度の基盤となっている時代の政治と精神や価値の体系の動揺に起因していると指摘した(H・シェルスキー『大学の孤独と自由』)。すなわち、大学改革は、大学内部からの自発的な「自己改革」であるというよりは、外部社会の構造変化に連動した外圧による反応(レスポンス)の一環として生起するわけである。この意味では、今回の大学・高等教育の「改革」も、基本的には高等教育界からの自主的、自律的な自己改革ではなく、まさに学外者たる政府が提案し、推進したものであり、これを政治が法律によって正当化した結果であった。
 それでは「改革」とはどういうことであろうか。ここで「改革」とは、既成の制度や慣行や人間の意識などを批判ないし否定し、これを意図的にあるいは或る方向にむけて変革する試みだとすれば、あらゆる「改革」は既得権益や伝統を守ろうとする「保守」勢力と、これを破壊し、新たな方向を推進しようとする「改革」勢力との対立抗争を生み出さざるを得ないような構造を必然的にもっているといえる。またそのような「抵抗」を引き起こさせるような変革でなければ「改革」の名に値しないともいえよう。

《この国の「大学のかたち」の変革》
 21世紀初頭の日本の「大学改革」においては、まず明治以来国家によって設置され、庇護されてきた、最も安定的な制度とみなされてきた国立大学が、従来の広義の行政機関としての設置形態を根底から覆されるような「法人化」が政府によって推進され、2003年7月には国立大学法人法がきわどい票差で成立した。いわば、明治以来の「大学のかたち」に初めてメスが入れられたのである。そればかりではなく、これまで絶対安泰と思われてきた国立大学の縮小や統廃合までが決定された。国立大学の縮小は多分に財政難の渦中にある世論対策の面があるが、それにしてもこの「改革」の意味の一つは、これまで絶対安泰と思われてきた「親方日の丸」の制度ですら財政の限界に直面して、「自立性」と「経営効率化」の名の下に、法人化という「擬似私学化」の形態を取らざるを得なくなったということであろう。ただし、国立大学を広義の行政機関から政府からの独立性をもった法人に変革しようとする動きには長い系譜があり、帝国大学成立直後から学内からの運動として起こり、今日にまで継承されてきた古くて新しい歴史的課題であったことは認識しておくべきである。従って、法人化の問題を単に橋本内閣の行政改革以後に始まったとする短視的な政治的視点のみから捉える見方ではこの問題の本質を理解することは出来ない。(拙著『大学の変革と政策』玉川大学出版部、2000年)
 民営化論者の首相を擁する小泉政権下で、文部科学省はまず、何を措いても国立大学の「民営化」を阻止しようとした。同時に「国立大学」の「国営」という設置形態を死守し、運営交付金という名の公費を実質的に投入し続ける根拠を2003年に成立した国立大学法人法によって確定することにようやく成功した、とみることもできる。尤も既成の制度・慣行の変革に対する国立大学関係者からの反対運動も強く、政府担当者からしてみるとこれはせっかく法人化という形で国営大学を守ったのに、これに反対するのは「親のこころ子知らず」ということになるのかも知れない。しかし、政官一致した強力な政治力に対抗するには、外部勢力の提案に適確に代替できるだけの、大学論を踏まえた代案を持たなければとうてい反対不可能であった。不幸にして国立大学の側からの議論は、単に国立大学という狭い枠のなかで、法人化に伴うテクニカルな利害得失に関する短視的な賛否両論のレベルにとどまり、21世紀の日本の高等教育システムにおける新しい国立大学論のありかたを創造しようとするものではなかった。法人化が多くの国立大学関係者にとって望ましくない結果に終わったとしたら、その敗因の最大の原因は、これからの国立大学像を国民の支持を得られるようなかたちで提示できなかった国立大学関係者の怠慢と国立大学論の不在にあったと言わざるを得ない。
(つづく)