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アルカディア学報

No.142

特色ある大学教育支援プログラムへの提案
「教育のための科研費制度」の新設を

私学高等教育研究所主幹 喜多村 和之

 すでに旧聞に属するが、9月に文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム」の審査結果が発表された(本紙9月24日付に詳報)。これによると5テーマ80件が採択されたという。これに先立って行われた大学に対する研究用の競争的資金「21世紀COEプログラム」の教育版ともいうべきもので、競争的資金を研究のみならず教育にも導入しようという試みである。これまで資金といえばもっぱら研究資金偏重であったが、最近ようやく、教育重視や「学生本位の大学」への方向が強調されるようになってきたことは、年来からの筆者の主張と重なるもので喜ばしいことである。
 教員の研究志向から教育重視への転換が叫ばれても、資金の流れが研究重視であれば、実態を変えることは難しい。そういう現状を改革するうえでもこの「教育支援プログラム」は評価できる面がある。
 この政府による競争的資金の導入はおしなべて、ジャーナリズムには積極的に評価されてきた。中にはこの施策ほど大学に強力な衝撃を与えたものはないなどと、手放しの好評で、有力紙の多くは紙面全面をつぶして派手に報道するものも少なくなかった。確かに大学内では、新しい研究プロジェクトの設定のために、多くの論議をよび、学内組織の改編が行われたり、これまで稀にみるような学内競争意識を生み出させたという意味では、大学側に大きな衝撃をもたらした。たとえば競争力を強くするために、実質的には競争的資金なるカネを獲得するには、どういうテーマや研究組織の編成が審査に通りやすいかという作戦や戦術のために多くのスタッフや教職員が申請書作りに没頭し、学内がそれで大騒ぎになったところも少なくない。
 この一種の「騒動」は、かつてこれまた政府主導で主要国立大学や一部の私学まで巻き込んで行われた大学院重点化政策を彷彿とさせる。これはもともと国立大学の大学院部局化によって予算を増やそうとする国立大学強化策であった。この動きに乗り遅れまいとした国立大学では、全学を巻き込んだ大学院大学昇格運動が展開された。文科省は私学の大学院強化までは意図していたわけではなかったが、これに煽られた一部の私学は、乗り遅れないために、大学院強化策に資金を投入した。しかし、大学院強化策に国から資金も人員も援助されない私学の多くは、結果的には国立中心の「大学院重点政策」に踊らされ、多大の投資を余儀なくされるという空騒ぎに終わったのである。
 最近の文科省の、国立大学しか視野に入れていない国立大学法人化政策、私学の経営をまったく配慮にいれない法科大学院制度の創設政策をみても、文科省は国立大学のみを重視して、私学に対しては関心もなく配慮も払わない伝統的な官中心的態度は一向に昔から変わっていないと言わざるをえない。従って、このような官主導のプロジェクトによって学内で盛んに議論が行われるようになったからといって、そのことがそのまま大学の教育・研究の質の向上をうながすことになるわけではない。むしろそんな表面的な動きで、改革が進行しているなどと積極的に評価するのは、日常の教育・研究の機能について無知な外部者の浅薄な見方にすぎないのではなかろうか。
 むろん教育とか研究の質が競争原理の導入によって刺激を受けて向上することがまったくないとは言えないだろう。しかし、大学同士で競争さえさせればそれだけで教育・研究の質の向上につながるわけではない。むしろ研究も教育も基本的には個人的で孤独な営みであって、競争原理によって活性化する場合もあれば、条件が整わなければかえって競争がその本質を損なう場合も大いに有り得るのである。
 しかもこのプロジェクトが政府の主導により設計され、資金というニンジンがつけられているとき、質を高めるための競争は容易に資金獲得や威信の上下を争う性急で短視的な競争に堕する危険も有り得るし、さらに危険なことは、政府の大学への影響力をこれまで以上に強化する副作用すらもたらす。要するに大学は政治やカネに翻弄される危険がますます高まっているのである。
 文科省の意図は別にしても、いったん政府がそのような事業を開始し、申請を募れば、大学としては申請を考えざるを得ない。申請しなければ教育や研究に不熱心と見られる恐れがあるし、申請したらしたで採択されなければ世間的に威信が低いと評価されることになる。マスメディアや受験産業は待ち構えて大学のランキングの上下に利用する。どちらにしても大学はこのプロジェクトの編成のために学内・学部内で多大な精力を尽くしたにもかかわらず得るものはあまりないという結果にもなり得るのである。
 そこで、最後に私はささやかな提案をしたい。
 第一にこのプロジェクトは全学的ないし部局ベースの共同の下での大型プロジェクトを対象としており、日常的に行われている個人ベースの教育・研究が排除されてしまう。大型プロジェクトは理工系の巨大な共同研究には向いているかもしれないが、文系の学問分野ではかならずしも一般的とはいえない。繰り返すが、文系の教育も研究も基本的には個人の孤独な創意と想像力から出発する。共同研究もこれに参加する個人の力量が揃っていなくては実践不可能である。個人ベースの研究や個人による授業を一切対象としないプロジェクトは、大学教育に係わっている者からすれば現場感覚を無視したものと言わざるを得ない。
 次に、このプロジェクトが教育のための研究費や改善経費を支給するためであれば、むしろ、これまで研究のための補助に限られてきた科学研究費補助金(科研費)制度を、教育の改善のためにも申請できる、いわば「教育のための科研費」として新設してもらえないだろうか、ということである。そうなれば、教育の研究や改善のために個人、共同で多彩で柔軟な申請が出てくるのではないだろうか。世には学生を愛し、教育のためにさまざまな創意工夫をこらし、たとえば学生と研修や実習のために身銭を切って営々と教育改善にいそしんでいる教員も少なからず存在するのである。そういう隠れた優秀教師たちに役立つようなプロジェクトであってほしいと筆者は希望する。
 筆者が現場の教師としていつも望んでいるのは、かならずしも大型の「独創的で派手なテーマのカネのかかるプロジェクト」を編成することではなく、日常の自分の授業を少しでも向上・改善するのに必要なごくわずかな経費の援助でも得られたら、といったささやかな希望である。
 例えば授業内容にふさわしい講師を何回か招請する費用とか、休暇中にゼミの学生諸君と実習や国内・国外に研修に出かける際の旅費を何割か補助してもらえれば、教員や学生諸君も随分助かる、といったことである。
 こんなささやかな提案は目立たないし、とうてい文科省がわざわざ設定するほどのプロジェクトにもならないのだろう。だが、現場ではその程度の経費すらままならないでいるのが現実なのである。教育の改善には派手で、巨額にわたる経費は必ずしも必須ではない。
 言うまでもなく文科省は研究のためには科学研究費補助金(科研費)という制度を長いこと運用してきた。この制度自体、補助金の配分が特定の国立大学に偏重していること、審査の制度、方法にも国立偏重という問題点はあるが(竹内淳『私学高等教育研究所シリーズ』7号、2001年10月参照)、これは研究のための補助金としては研究の発展に大いに貢献してきた制度である。何度か支給された経験からも裨益を受けてきた者の立場からすれば、ぜひ研究のためだけでなく、教育の改善・向上のために柔軟かつ多様に申請できる「教育科研費」の制度を考えていただきたいと切望するものである。