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アルカディア学報

No.123

二者択一論を超えて―高等教育研究者の役割

東京大学大学総合教育研究センター  小林 雅之

 大学改革論議に限ったことではないが、改革論に必ずあらわれるのは、外国のモデル探しである。この場合、モデルとなる外国の高等教育システムや改革はきわめて単純化されて議論がなされる。いわくアメリカではアクレディテーションが有効に機能している、しかるに日本では、といった「出羽守」の議論である。単純な舶来崇拝は論外としても、依然として外国モデルの紹介にあたって誤解や曲解としか思えないものも多い。ここではいくつかの例をあげたい。その上で、あれかこれかの単純化した二者択一論ではなく、巧みな組み合わせが重要なことを強調したい。

《事例1 上からと下からのアクレディテーション》
 第三者評価機関について、アメリカでは、政府がアクレディテーション団体を認証しているという説明が文部科学省の審議会などでもなされている。その証拠として、アメリカの法律などが示され、一見、アクレディテーション団体が、連邦政府、つまり上からのコントロールを受けており、これと同等のものを創設することがわが国の認証評価機関システムであると説明されているようである。
 しかし、実際には、1952年のGIビルで、奨学金の給付を受ける資格として、アクレディテーションを受けた高等教育機関の学生であるとされたのが、政府とアクレディテーションの結びつきのはじまりである。アクレディテーションそのものは、それ以前から続けられていた。つまり、連邦政府は奨学金の受給資格をもつ高等教育機関を直接審査するかわりに、アクレディテーションを利用してこれを行ったのである。しかし、地域別や専門分野別にアクレディテーション団体は数多く存在しているから、連邦奨学金の受給資格を与えるにふさわしいアクレディテーションを実施している団体を認証した。認証は、上から、つまり連邦政府からアクレディテーション団体、そして大学へとコントロールを及ぼすためではない。
 これは、もともと政府からの干渉を嫌い、自発性と自律性を強調するアメリカの高等教育機関の風土による。いわば、下からの評価の土壌があるのであり、自発性(ボランタリー性)こそがアクレディテーションの核心なのである。しかし、これも二者択一的に捉えてはならない。実際に高等教育機関のアクレディテーションは、連邦政府によるものと各アクレディテーション団体によるものと別立てである。しかし、連邦政府の認証を受けたアクレディテーション団体によるアクレディテーションを受ければ、連邦政府のアクレディテーションも受けたことになり連邦奨学金の受給資格を得ることができる。連邦奨学金の受給資格を得ることは、高等教育機関にとってきわめて重要な意味を持つことは言うまでもない。このため、ほとんどの高等教育機関は、認証アクレディテーション団体によるアクレディテーションを獲得することにきわめて積極的になったのである。このように、アメリカではアクレディテーションに対して強力なインセンティブがあることも忘れてはならないのである。いわば、上からとか下からではなく、両者の組み合わせが肝要なのだ。

《事例2 国公立と私立》
 高等教育改革の中で国立大学の法人化が大きな焦点となっているが、一部では以前から国立大学の民営化論が主張されている。しかし、ここでも単純な国公立対私立の図式は誤りであることを強調したい。主要国の中で、高等教育機関がすべて私立である国は存在しない。逆に国公立が大多数を占める国は多いが、中国のように、私立セクターが急成長している。
 これは、国公立セクターと私立セクターには、それぞれ果たす役割に相違があるためである。国公立セクターは、主として市場に委ねては達成できない基礎科学の発展やその人材養成、あるいは地域さらには低所得層への教育機会の提供といった役割を果たしてきた。これに対して、私立セクターは、市場を媒介として、国民の強い教育需要に応えるとともに、新しい教育需要や人材需要に積極的にチャレンジするという役割を果たしてきた。両者が、このように異なる役割を果たすことで、社会全体の高等教育システムがうまく機能するのであり、これをどちらかに一元化するのは、きわめて無謀な試みといわなければならない。ここでも単純な二者択一はあり得ない選択なのだ。
 さらにいえば、アメリカの公立大学の多くは、理事会によるガバナンスを行っており、その点では、日本の私立大学に近いといえる。また、逆にイギリスの大学は、ガバナンスの点では私立大学であるが、財政的には大幅に国に依存している。ここでも国公立か私立かではなく、両者の組み合わせが重要なのだ。

《事例3 教育費と資源配分》
 近年、大学に対する公的補助について一律補助から競争的資源配分へのシフトが強調されている。しかし、競争はあくまで公正でなければ競争自体が成り立たない。競争の条件を等しくするようなインフラの整備がなければ、不平等はむしろ拡大し競争の正当性が疑問視されよう。この意味で、競争条件を等しくするような、最低限の一律補助は必ず必要であり、二者択一ではあり得ない。欧米でも基盤の部分にはそれなりの公的補助がなされており、完全に競争的な資源配分方式はとられていない。
 また、教育費を公費負担とするか私費負担するかではなく、第三の方式を探ること、つまり資金調達の多元化も二者択一的思考からの新しい方向性を示しているといえよう。教育費の完全な公的負担も私的負担もあり得ない。両者のバランスが重要なのである。
 これは、公的補助を機関補助にするか個人補助(奨学金)にするかについてもいえる。さらに奨学金についてもニードベース(奨学)かメリットベース(育英)かについてもいえるし、ローンか給付奨学金かの議論も同様だ。両者を巧みに組み合わせることに各国とも知恵を絞っているのに、わが国は二者択一的な議論が多すぎる。

《二者択一論からの脱却》
 これら以外にも、二者択一的な議論は枚挙にいとまがない。これは自分の主張に都合のいい事例を探して、つまみ食い的に証拠とすることが多いからであろう。外国のモデル探しを曲解と言ったのはこのためである。
 教育システムは、歴史的な経緯や果たすべき役割・機能の必要性から、複雑化しかつ急速に変化している。法人化や大学評価の問題に見られるように複雑で情報過多の時代にわれわれは生きている。ここでは、すべてのことに熟知したスペシャリストにはなれない。それだからこそ単純な二者択一的な解答を求める風潮がはびこっている。まともな研究者なら、高等教育は複雑で例外が多く、単純な一般化はできず二者択一でないことは承知している。しかし、そのため、研究者の主張は、黒か白かという単純さをもたず、「ああいえばこう、こういえばああ」というように受け取られやすい。これには本質的な問題と些細な問題を区別できず、議論を単純化できない研究者自身にも責任がある。そもそも複雑なことを熟知しているのが専門家の証なのだから、ある主張に対して、「いやかの国ではそれは違う」といった例外を持ち出すことが専門家らしく見えたりする。これは「専門家」の出羽守だろう。大学改革論議の中で,研究者は二者択一を乗り越えた、しかし分かりやすい主張をしていくことが求められているのである。