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アルカディア学報

No.120

大学政策転換への疑問―どうなる?「グランドデザイン」

帝京科学大学長 瀧澤 博三

〈大学市場化の急展開〉
 大学の「冬の時代」とは、凍てついた動きのない時代ではなく、冬というイメージからはほど遠い激しい戦国時代であるらしい。大学市場という縮小するパイをめぐってそのシェアー争いのゲームに参加するプレーヤーは、多様化し増える一方である。
 最初は公立大学の新設ブームと短期大学の4年制への転換であった。短大の経営が困難だからといって4年制になっても、これは一時しのぎにしかならないことが目に見えていながら、基準に合致すれば淡々と認可を続ける行政の姿勢に戸惑いを覚えたが、いずれにせよ結果として、大学の数は増え続けている。大学の全入時代到来を予告して世間に衝撃を与えた大学審議会の平成9年の答申「高等教育の将来構想」以降を見ても、私立大学の数は、平成10年13校、11年13校、12年22校、13年18校、14年16校、15年14校と増えつづけ、公立大学も同じ期間に19校増えている。
 二番手は国立大学の法人化である。来年4月に予定されている法人化の制度設計はできたようだが、その運営の実態がどのようになるのか、われわれにとっては未知数が多い。しかし、独立の経営体として相応の自律性を持ち自己責任を負うとされる以上、経営の基盤となる学生数の確保には、これまでと違って強い関心を持つであろうから、私学にとってシェアー争いの強力な相手になるであろうことは想像に難くない。
 三番手として、全く予期しなかった手ごわい相手が現れそうな気配がある。株式会社の大学への参入である。当面はいわゆる構造改革特区に限定した問題であるが、この構造改革特区の考え方は、特区での成功例が全国的な規制改革へと波及していくことを期待しているわけだから、将来、株式会社立大学が全国化する可能性は高いと思わなければいけないのだろう。新しいビジネスを起こし経済を活性化させようとの特区の考えに基づくものだけに、株式会社立大学は消費者サービスに徹した行動様式を取り、大学のサービス産業化のトップを切って大学の市場競争を本格化させるに違いない。
 このような大学市場への新規参入ラッシュに加えて、これまで高等教育行政の柱として重要な役割を担ってきた高等教育計画の考え方が、いわゆる工業(場)等制限制度の廃止とともに払拭され、大学の量的規模や地域的配置の調整ということは行政の仕事ではないと考えられるようになったらしい。設置等が自由化され、大学市場の多様な担い手が揃うことによって大学の市場化が急展開する環境が整ったわけである。

〈大学政策における「調整」の役割〉
 大変古い話になるが、中央教育審議会の46答申が高等教育計画策定の必要性を謳って以来、数次にわたって高等教育計画が策定され、政策の柱として位置付けられてきた。高等教育機関の量的規模と全国的な配置に政策的な調整を試みたこれらの計画は、その意図どおりの実現を見なかった面もある。特に平成4年をピークとする18歳人口の急増急減期を超えるに際しては一定の規模の想定をすることが困難となり、「計画」という用語も放棄することとなった。それに加えて、政府の構造改革の流れに沿って設置認可等の事前規制は漸次緩和されてきたが、それでも大学審議会においては平成9年の答申「高等教育の将来構想」でも、同10年の答申「21世紀の大学像」においても、進学率の急激な変化(上昇)を避け、高等教育全体の質の維持向上を図るため、大学等の新増設の認可は抑制的に対応するという方針を示していた。このように高等教育計画は、「計画」というより柔らかい「調整」へと変化してきたが、それでも行政によるこのような設置等の調整の努力は大筋において大きな役割を果たしてきたし、その役割は国民にも支持されてきたと思うのである。

〈「調整」か「自由と自己責任」か〉
 今回、学校教育法の改正と併せて諸規則等の改正が行われ、学部の設置も一部認可を要しないようになるなど設置等の規制緩和が一段と進められることになった。この一連の改正についての文部科学省の説明から理解されるところでは、認可手続き等の問題以外にもう一つ重要なことが含まれているようである。それは、医・歯など若干の分野を除いて、大学の量的規模や地域配置についての調整は今後一切考えないということである。その反面を言えば、大学教育の供給過剰による大学の淘汰は自己責任の問題であり、行政は関与しないという姿勢を示したことになる。
 規制改革を徹底して行けば、結果については自己責任という考えに到達することは極めて論理的である。しかし、これまで大学政策の柱とされてきた規模・配置の調整がなぜ今不要になったのか、規制緩和の理念と大学政策の考え方はどのように調整されたのか、かみ合った議論がどのように行われたのか、その辺のことは国民に説明されたのだろうか。
 大学経営への参入の自由化を進めれば、大学が活性化するというプラスの部分もあるだろう。しかし反面で供給過剰による資源の浪費、一部での教育の劣化、学生・保護者の不安・動揺などマイナス面が予想されることは今更言うまでもないことである。マイナスの不安があるからこそ努力と競争があり、活性化と質の向上があるのだという説明で納得する人がいるのだろうか。日本経済の再生は国民の一番の関心事である。そのための規制改革の声は当然大きくなる。大学政策の論理はこの経済・財政の論理とかみ合っておらず、声の大きさに圧倒されているだけとしか思えない。

〈政策転換への疑問〉
 大学政策を大転換し、大学の規模・配置の調整という課題をすっぽりと切り捨てるというのであれば、その前にまず、これまでの政策の十分な評価が必要だろう。高等教育計画の政策にどのような成功と失敗があったか、行政による設置等の調整がどのようなメリットを生み、反面でどのようなデメリットを生んだかが明らかにされなければならない。その上で、今後の大学政策にどういう形の調整の役割が求められるか、あるいは行政による調整という事前規制の機能は廃止すべきか、そして後者の選択をした場合には自由な競争と自己責任の原則の下で、どのような大学の全体像が想定されるのかを説明してほしいと思う。構造改革の論理だけで大学政策の転換を図るとすれば、それは時流に流されただけのムード的な選択だと考えざるをえない。
 大学市場の長期的な縮小傾向が続く中での市場参入の自由化に、特に私学の中では不安が大きい。国立大学の法人化によるシェアー競争の激化の予想もあって、私学側からは、国・公・私を含めた高等教育の全体像(グランドデザイン)を描き、公正な競争条件を構築するよう公財政支出を含む教育費負担のあり方を示すべきだという声が大きくなっていることは当然のことである。
 昨年は中央教育審議会でも高等教育のグランドデザインについて検討していると聞いていたが、今年3月に出された同審議会の答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画のあり方について」の中で「参考」として示されている「計画に盛り込むことが考えられる具体的政策目標の例」を見ると、現在の大学政策の主たる関心事は「国際的競争力のある拠点的な大学づくり」にあり、将来の大学の全体像をどのように捉えようとしているのかは全く窺い知ることができない。8割を占める私学を含めた全体像はすでに政策の視野から抜け落ちているかのようである。全体像を決めるのは市場であると割り切った結果なのだろうか。