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特集・連載

地方私大からの政策提言

「地方私大の役割は教育にあり(上)」

ノースアジア大学理事長・学長  小泉 健

 私は、昭和50年代に東北地方で国家公務員をしていた。仙台から秋田に赴任した翌年の昭和57年頃だと思うが、当時、秋田県知事であった秋田経済大学の小畑勇二郎理事長と親しくなり、小畑さんから「役人なんか辞めて大学に来ないか」というようなお誘いがあった。それが縁で、新設の法学部で講義をすることになり、法学部の教授、研究所長、法人の役員等を経て、平成18年から理事長をしている。もともとは刑法や刑事訴訟法が専門なのだが、途中で民法に転じ、民法の講義をして今日に至る。
 学校法人ノースアジア大学は、ノースアジア大学、秋田看護福祉大学、そして秋田栄養短期大学という三つの大学、それに附属の高等学校、幼稚園が二園、全部で六つの学校と、一つの保育園を有している。
 この稿を進めるにあたっては、1990年頃にさかのぼって話を進めなければならない。この頃、日本ではバブルが崩壊した。それは、不動産価格が暴落し、株価も大暴落するという長い不況の始まりだった。金融機関は、追討ちをかけるように貸付の総量規制を行ったのである。どちらが先かという問題があるが、二重三重に、国全体が景気低迷の中に下降していった。
 この頃から、文科省の大学行政が大きく変わってきたのである。この時期は18歳人口がはっきりと激減していくというような、大学の大きな問題が現実的に見えてきた時期である。
 文科省が何故大学に対する方針を変えたのかという点であるが、一つには、補助金や経費の負担が耐えられなくなってきているということが背景にあったと思われる。また、日本では大学の国際間競争力が全くなくなってしまっているということであった。
 その当時の世界の大学ランキング一覧表では、ベスト30にアメリカの大学が実に21校(70%)も入っている。次がイギリスで4校、カナダが2校、スイスが1校。日本は、たった1校で、東京大学が30位に入っているだけだ。アメリカが上位を独占しているわけだが、東大を除けばほとんどが私立大学である。アメリカでは文科省がない、国立大学がない。つまり、国が何もやらない方が大学が良くなり、競争力が出てくる。もちろん研究もそうである。ノーベル賞級の研究者がたくさん出ているのは、アメリカの私立大学だ。アメリカでは、日本と違って非常に規制が緩く、簡単に大学を作ることができるという特色がある。自由に競争させて、その存亡は市場に選択させるというのである。もちろんアメリカにも補完するための州立大学があるが、州立大学は税金でやっている大学で、入学のハードルが非常に低く設定されている。
 歴史的にみれば、国立大学、国営放送、国鉄など、行政中心にスタートした国は、基本的に後進国である。日本は、江戸時代の士農工商の時代から明治になって、この百数十年間で文化や教育をヨーロッパの先進国まで追いつかなければならなかった。そのための教育が、江戸時代からの商人や農民や職人にできるかというと、できない。やはり日本のように後進国では国がやらなければならなかったのである。
 国が大学をやっていては大学がだめになることは明らかである。どんなことをしても税金で賄われるから、勤めている教員たちは皆サラリーマンになっていく。弁護士だってプロ野球選手だって何だってそうだが、能力や成果が評価される職業は、成果が出なければ当然やめてもらうことになる。日本の大学の場合は、一度入ってしまうと、あとはエスカレーターに乗ったように、講師から准教授、准教授から教授と上がっていく。よく、大学の教員を一度やったらやめられないと言われるが、論文を書かない教員、講義ができない教員、何をやっているのかさっぱりよくわからない教員も出てくるのである。特に昇格がなくなった教授に問題が多い。講義をしている日本語だってよく分からない教員もいる。学生は正直なもので、そういう教員の講義は誰も履修しない。私の知っている問題の教員であるが、通年で4コマだけ講義を持っていて、その中の1コマだけ3人くらいが履修していたが、あとは全滅で、誰も履修届をださないのである。アメリカの大学であれば、そういう教員は次の年には辞めてもらうことになるはずだ。アメリカの社会は、企業でも退職金がない、賞与がない、定年がない。そういう能力主義の社会に支えられて、現代国家アメリカの大学が出来上がっている。文科省は、そのような競争社会を作らなければならないと考えたものと思われる。
 その後、大学設置基準を緩和し、日本でもある程度自由に大学を作れるようにした。そこにはアメリカ型大学が念頭にあったのだと思う。その結果、1990年頃には500前後であった大学が、その後の短期間に782大学にまで増え、その増加率は50パーセントをはるかに超えるようになった。明治初年から百年余にわたってできた大学がほぼ500であったことを考えると、驚愕すべき規制緩和であったというほかない。株式会社でも大学を作ることができる。サイバー大学も可能になった。その存亡は市場に任せられる。そうであったはずなのに、極めて例外的なケースの問題の大学が出ると、文科省は慌てふためき、右に大きく振れた振り子を、また左側に反転しようとする。規制が厳しくなったのである。そして、その延長線上にあるのが、第三者評価のスタートである。
(つづく)

こいずみ けん

検事・弁護士を経て、平成9年常任理事、平成11年教授、平成15年法政研究所長・常務理事、平成18年理事長・学長