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特集・連載

高校進路指導室の扉―新しい高大連携・接続に向けて―

現在から将来への課題
面接指導および高大接続の方法

蒲田女子高等学校  島崎市誠

【コロナ禍での進路指導取り組みと課題】

 本校では学校推薦型選抜、総合型選抜で進学する生徒が多い。その準備として、自分の意見を明確な文章で書けるようにすることを第一にしている。それが面接の土台になるからである。それを念頭に置いて、今年卒業した生徒たちがまだ2年生の時に、将来に向けての準備として、授業で小論文・企画書などの初歩的な練習を行ったりした。もちろん第1学年のころから進路については生徒に情報を伝えてきた。そのうえで3年生になる前から志望理由書を書いてもらう予定でいたのだが、昨年2月28日から休校命令が出され、そのまま4月7日の緊急事態宣言発令により予定がすべて崩れてしまった。結果として、時間短縮ながら学校再開の6月頃には、教員も生徒も第一歩から始めねばならなかった。
 また志望理由書に強い根拠を与えてくれるはずのオープンキャンパスが、ズームなどを利用したものもあったが実質上開催されなかった。これについては、志望理由書がしっかり書けないままでオープンキャンパスに行くことは好ましくなかったので、結果的には良かったと思っている。なぜならオープンキャンパスをする側はいろいろにアピールをしてくるが、自分の志望が漫然とした状況で行ったなら、それに流されてしまうのは避けられないからである。批判的に訪問先の学校を見ることも難しいだろう。
 さて、志望理由書と面接を一対のものと考えれば、面接練習が志望理由書を磨き上げる糧となる。その意味もかねてであるが、面接会場ではさまざまな観点で質問されることを想定して、最終面接担当の校長を含め、最低教員6名以上の面接を受けることを義務付けた。その際には、次のこともかならず伝えた。すなわち、面接練習というと面接のための対策と思うのは当然だが、それ以上に大切なことは、他者に話すことで自分の考えを他者の目を通して理解する機会を得られるということである。そして面接練習をすることは自分の本当の気持や考えを理解することであり、言いたくないことは言わなくても良いが、本当のことを話さないと意味がないのだと。最初の面接では志望理由書を見ながら答えても良いことにして、中身がない時は志望理由書をその場で訂正したり、メモを取らせて後で書き直しをさせることもあった。生徒も大変だったが、夕方遅くまで、生徒に面接練習をする先生方も大変であった。しかし、その甲斐もあって、100%とはいかないが、生徒たちは概ね希望するところに進むことができた。
 課題としては、コロナ禍で面接練習の時間が制約され、落ち着いて練習する時間が少なかったことと、その場でゆっくり書き直しさせる余裕がなかったことなどあげられる。この課題は、コロナ禍により引き出されたことであるが、効率を良くすることにもつながるので、より効果的な練習方法を検討している。

【高大連携・接続、入試改革】

 大学進学率の向上と少子化を背景に、大学・高校双方で、高大連携・接続という言葉が声高に叫ばれている。それは高度な授業・講義を高大で有機的につなげていこうという文部科学省の意図とは関係ないようだ。さて、その高大連携・接続を推し進める文部科学省は、ICTなどの著しい進歩によって大きく変化している世界の趨勢に、明治維新以来の世界に追いつき追い越せを前提にした学力観では日本は対応できないと脅かしてくる。だとすれば改革の必要性については、誰も反対などできない。学力観の変化に合わせて、評価の視点・方法も変わっていくだろうし、最終的には、大学入試改革が出てくるのもうなずける。新指導要領のなかではすでに始まっていることがらでもある。しかしそれでも、これらの動きそのものについて、筆者は性急に過ぎるというようなレベルではなく、現状認識のところで誤っているように思えてしかたがないのである。
 例えば、「探究」という科目である。従来の授業では身につかないとされる、自分から疑問を見つけ、それを調べ、どう解決していくか、という力を身につけることが期待されている。その趣旨はよく分かる。しかし違和感がある。なぜかといえば、「探求」の前提がまず自ら疑問を見つけることにあるからだ。疑問が出てくるには、ふつう2種類の原因がある。何も知らないことから起こる疑問、あれこれ知っているからこそ出てくる疑問の2つである。両者は疑問の質がまるで違う。まだ基本も出来ていない生徒に「探求」をさせることは、例えば、理科の確認実験をなんとかこなしている生徒に、その実験方法に疑問をもって、よりよい方法を考えよというのによく似ている。ほとんど無い物ねだりのようだ。知識のない者が新しい現実に的確な理解と対処ができるのだろうか。筆者はそれほど「探求」について楽観的には考えられない。
 翻って共通テストを見ると、このテスト自体の存在理由が問われなければならないだろう。「探究」することが自分の視点からの問題を大切にするというのであれば、あれほど大掛かりな共通のテストは生徒の多様性をつぶすという事にならないだろうか。もし基本を揃えておく必要があるからだというなら、記述式などにこだわる理由が明らかでない。極論を言えば大学入学希望者にとっての基本を出せばよいのであって、それが何であるかは常に議論されなければな らないが、基本をマスターしていることを前提条件として、その通過者が次の多様性を重んじる本試験を受けるのであれば了解もできる。実際に「高等学校基礎学力テスト(仮称)」等に見られるような動きも見えていたが、現在はあまり表には出なくなった。
 文科省の方針に筆者も賛同である。しかし具体的道筋として、先ずは「探究」より先に、「探求」に必要な「基本」について考えてもらいたい。例えば英語の四技能などより、正確に日本語で考えられることを優先すべきだ。それは来年から導入される論理国語という科目とは関係ない。論理国語を論理日本語といえば了解されるように、言語のある部分を取り上げて、そこを強化する意図が見える。そういうことと別に、生活する拠点が日本であれば、まず日本語を正確に書けて、話せるようにすることである。日本語もあまり書けず、英語のほうが得意であるならば、その生徒はどこで生きて働いているのであろうか。グローバルというのは無国籍の意味ではあるまい。
 奨学金も含めて、原則的には本人が希望すれば、ほとんどの高校生は大学に行ける仕組みができている。ところが学校外学習時間がゼロの生徒が4割となっている。皮肉なことだが大学に行く意味が強く問われている。しかも、従来の学力では世界との競争に対応できない。このあたりが現在の最重要問題の一つではなかろうか。生徒たちの学習意欲を引き出し、基礎学力を育成することがなによりの急務ではないか。「探求」の導入や評価方法の変更はそのことと矛盾しない。高大連携・接続の問題は、問題の所在に気が付きながら無視しているのか、本当に見えていないところにあるのではなかろうか。