特集・連載
高校進路指導室の扉―新しい高大連携・接続に向けて―
英語教育で大切にしたいこと
―変化する大学入試にどう向き合うべきか(下)
鹿児島県立鶴丸高等学校教諭 大倉 秀心
前稿では鹿児島県公立高校の学校の枠を超えた横の繋がりを大切にした特徴的な進路指導について述べた。本稿ではいち英語教師として日々変化する日本の英語教育について近年感じていることを述べてみたい。
英語教育の中で、何を取り入れ、何を捨て、何を守るべきかということに関しては、自分が一七年前に英語教育を学びにイギリスに留学した際、たいへんお世話になった大学の先生の言葉が忘れられない。
Don't throw the babyout with the bathwater.(風呂水と一緒に赤ん坊まで捨ててはいけない)
これは当時コミュニケーション活動重視に舵を切った日本の英語教育に対する強烈な批判であった。「大切なものを無用なものと一緒に捨ててはいけない、細事にこだわり大事を逸してはいけない」という意味のことわざだ。
先生によると、英文でレポートを提出させれば、ひと目でその頃までの日本人学生のものはわかったという。つまり、文法的な誤りが他国の学生に比べ格段に少なく、論理的に書けているというのであった。また、読解力に関しても他国の学生に比べ正確な把握ができているということだった。確かに、議論をさせると日本人学生は初めのうちは無言で、何を考えているのかわからないことが多いのだが、それはそれで別の力であり、正確な文法力や読解・作文力を土台にして、「聞き・話す」訓練を積み上げていけばいい、しっかりとした文法・読解・作文力は他国の生徒が真似できない日本人学生の長所だと言われていた。これらは日本のそれまでの文法・訳読指導の賜で誇るべきものだったのだろう。
「今の日本の英語教育は、英語によるコミュニケーション活動に拘りすぎるあまり、文法・訳読指導を無用なもの(bathwater)として捨てようとして、正確な文法・読解・作文力という大切なもの(baby)まで一緒に捨てようとしているのではないですか?」という先生の問いかけであったのである。
あれから17年経ってしまった。日本人学生の英語によるコミュニケーション能力は向上したのだろうか。また、他国の学生に差をつけていた正確な文法・読解・作文力は維持できているのだろうか。日々、目の前で教えている生徒達を見て、どちらの問いにも自信を持って首を縦に振ることができないのが残念でならない。この一件で、外国人の先生のほうが意外と日本の英語教育に対して、冷静にその長所短所を分析できているという印象を受けた。このことが、流行に闇雲に乗ってしまうことは危ないという自分の英語教育に対するスタンスを作ってくれたことは間違いないと思っている。それだけでも自分にとっては有意義な留学であった。
大学入試や卒業認定におけるTOEFL等の外部検定試験の活用についても不安がつきまとう。生徒達に対する経済的負担ばかりでなく、外部検定試験の重要性が増せば増すほど、生徒の英語学習の仕方に影響が出てくるだろう。それらの検定試験で高得点をとることを英語学習の目的とする生徒が増えてくることは容易に予想できる。試験時間内にかなりの情報量を処理することが求められる検定試験を意識した学習には、じっくりと文法を学んだり、一文一文英文を味わうような時間は除外されてしまうかもしれない。
高校で英語を教えている者として、私は次のことを自分なりに大切にしている。
- 英語と日本語の構造的違いに敏感になり、基本的英語を使えるようになるのと同時に、自分の母国語である日本語に愛着と誇りを持ち大切にすること。
- 言語の違いにとどまらず、日本とその他の国々の生活様式、文化、習慣の違いにも着目し、かつそれを理解し、多様性を受け入れる姿勢を持つこと。
- 世界に存在する多様性を認めると同時に、日本人として自分の中にしっかりとした軸を持ち、堂々と外国の人たちにその態度を表明できること。
英語を教えることを通して、このような姿勢を生徒達に身につけさせたいと思っている。そして大学進学後あるいは社会に出た後で英語が必要になった者は、各自の必要に応じて高校時代までの基礎力(文法・読解・作文力)の上に、「聞き・話す」ことを猛勉強して英語をマスターすればよいと思う。その基礎力を身につけるためには、単語を辞書で引きながら地道に進めていく「文法・訳読」を基本とした地味な学習を完全に捨て去るべきではないと思っている。それにプラスして「聞き・話す」指導をどう盛り込むのかが工夫のしどころなのだと思う。
辞書さえあればある程度難解な文章も読解することができ、また自分の言いたいことを正確に書くことができる状態に高校卒業時にしておいてやれば、「聞き・話す」レベルまで持っていくのはその後の本人の努力にもよるのではないか。その状態で外部検定試験を受けさせれば、そこそこの点数は出るのではないかと思うが甘いだろうか。英語も学校教育の中の教科として教えるのであれば、ただグローバル社会を生き抜くツールとして身につけるべきものとしてではなく、学習を通して教養や人格を高めるものにしてほしいものだ。そう考えると、検定試験のようなものが英語教育のコアな部分にあまりにも入り込むことはちょっと違和感を覚える。また、検定試験で高得点を取ることだけに関心の高かった人が、将来英語教師となるようなことも素直に喜べない気がする。
本校では生徒に課す定期考査や実力考査の試験問題作りは入念に行われる。しなやかな心を持った生徒達にどんな内容の英文を読ませるか、また英語を通してどんなことを考えてもらいたいかという観点で問題検討はスタッフ全員で行われる。試験の約1か月前から作成に入るのでほぼ1年中問題作成に追われている感じである。
題材は過去に大学入試やセンター試験、業者の模擬試験や問題集などで使われた文章を使うことはできない。従って、作成担当者は常に洋書や英字新聞、雑誌などを読み、題材を探さなければならない。検討途中で題材がボツになることもしばしばあるので、予備題材まで準備するにはかなりの読書量を要すが、これも生徒に少しでもいいものを読ませるためなので我々も耐えなければならない。しかし、これによって教員ひとり一人の英語力も向上するのだと思えば、やり甲斐もあるのである。
センター試験も含め、近年の英語の大学入試は、内容自体はそれほど難解ではないが、量が増えている印象を受ける。大量の情報をどれだけ高速処理できるかが試されているような感じだ。頭の中のコンピュータが素早く正確に作動して情報を処理できるか。それができる人が英語力があると評価される。何となく味気ないものになってしまった。あくまでも私の印象ではあるが、一昔前の大学入試の英文には高校生が読んで感動するような、人生の教訓を学べる味わい深いものが様々な大学で出題されていたような気がする。生徒の入試対策にはそのような過去問を選び解かせたものだが、近年はそのような英文が少なくなってきたような気がする。残念である。
昔あった素晴らしいものは継続しつつ、時代に合わせて取り入れるべきものとそうでないものをしっかりと見極め、変えるべきところは変えていく。そういう姿勢が日本の英語教育に携わる者には必要になってくると思う。
Don't throw the babyout with the bathwater.
この言葉を一生忘れずに英語教育に携わっていきたい。(おわり)