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高めよ 深めよ 大学広報力
〈20〉高めよ 深めよ 大学広報力
京都産業大 "益川効果"で志願者増 普段の「広報姿勢」が生きる
こうやって変革した(17)
教授がノーベル賞受賞
本題に入る前に、益川教授のノーベル賞受賞が大学にどれほどの効果を与えたかを入試の志願者数からみてみたい。
京都産業大の〇九年度一般入試(前期日程)の志願者数(一月二十六日現在)は、最近一〇年間で最多となった。益川教授のノーベル賞効果で増加は予想されていたが、「効果は予想以上。全体的に増えたのは、益川教授の人柄による大学のイメージアップも影響したのでは…」(同大学入学センター)としている。
同センターによると、志願者数は〇〇年度以降、二万人を割り込んでいたが、〇九年度は二万一〇一二人(前年度一万六〇二七人)と一・三倍に増加。中でも益川教授が教える理学部物理科学科は六五八人(同二七六人)と約二・四倍。
工学部六四八人(同四三二人)、コンピュータ理工学部一一三一人(同七二三人)と理系は大幅に増加。文系にも波及効果があり、経営学部も四四九一人(同四二二七人)となるなど、全学部で増えた。
京都産業大学は一九六五年、京都市北区上賀茂本山に経済学部・理学部の二学部体制で開学。九七年に法学部・経営学部・外国語学部を増設、開設三年目で総合大学となった。開学時からアーノルド・J・トインビー、ハーマン・カーンら世界の碩学を招聘し、講演会を開催していることでも知られる。
益川教授は、一九六二年、名古屋大学理学部を卒業。九〇年、京都大学理学部教授、〇三年、京大名誉教授、〇三年四月から京都産業大理学部教授となった。
さて、益川教授のノーベル賞受賞とその後を時系列で整理すると―。
〇八年十月七日 スウェーデン王立科学アカデミーから益川教授にノーベル物理学賞受賞の連絡。学内で二度の記者会見。ウェブサイトがオープン。
十月八日 一夜明けて益川教授が記者会見。
十月十六日 益川教授が学内で「科学へのロマン」と題する講演。
十二月七日 スウェーデン王立科学アカデミーで授賞式と記者会見。
十二月八日 「ノーベルレクチャー2008」で益川教授が講演。
〇九年一月二十五日 ノーベル賞受賞を記念する大学の祝賀会。益川教授を塾頭とする研究・教育機関「京都産業大学益川塾」の設立と、定年のない「終身教授」とする―ことが発表された。
益川教授のノーベル賞受賞に伴う同大広報の対応はどうだったのか。
七日午後七時ごろ、受賞が伝わると、同七時一〇分から一二号館の教室で記者会見。約五〇人の報道陣がつめていた。午後八時からの二度目の記者会見では一〇〇人近くにふくれあがった。同大広報室長の井上正樹が語る。
「益川教授はうちの大学に来られたときからノーベル賞候補にノミネートされていました。この時期は毎年、受賞に備えて対策本部を設けて益川先生も報道陣も学内で待機していました。今回、それが現実になったわけです」
二度の会見のあと、新聞・テレビ各社の個別取材があり、全てが終ったのは翌八日未明だった。
「六人いる広報担当のほか二〇人の職員が対応。個別会見は一社五分にしてもらい、順番と社名を掲示しました。大きな混乱はなく、ホッとしています。(食事は?)先生にはお弁当を、職員にはおにぎりを用意しました。先生は食べませんでした。広報は食べる暇がありませんでした」(井上)
八日朝、学内では、受賞を知らせる新聞各社の号外、大学作成のパンフが配られた。「理学部の学生は益川教授の受賞はいずれあると思っていたようです。しかし、他の学部の学生は全く知らなかったようで、驚くと同時にたいへん喜んでいました」と広報担当の宮川由樹子が語る。
宮川は、十二月七日のスウェーデンでの授賞式など現地での取材対応のため、もう一人の職員とともに益川教授に一〇日間同行した。宮川が現地の様子を話す。
「益川先生のスケジュールはノーベル財団が押さえているので、記者対応は財団を通さないとできないなど隔靴掻痒でした。でも、特派員や東京から来た記者など初めての方とも出会え、人脈が広がるなど、いい経験になりました」
井上は「これまで取材を断るということはありませんでした。今回は、益川先生の日程が詰まってしまい、断ることも出てきて心苦しい場面もありました」と気配りをみせた。
“益川効果”を広告換算すると、どのくらいになるのか。「広告代理店の方が言うには、授賞発表の一週間で一〇億円、あとは計測不能、とのことでした」と井上は屈託なく話した。
益川教授の話が終わろうとしたときだった。「取材対応がスムーズにできたのは、六月に起きた学生の不祥事の対応があったからなんです」。井上が話し出した。同大学生によるイタリア・フィレンツェの世界遺産の大聖堂への落書きだった。
こちらは知らなかった、というより、すっかり忘れていた。このように、大学の不祥事を広報自ら語るのは、あまりないことである。
落書きは、マスコミからの連絡でわかった。同大は、ただちに現地に問い合わせて事実を確認。すぐ、学生への処分と大聖堂へのお詫びの文書を出すことを決め、記者会見を行った。「大学には説明責任がある」と学長、学生部長が会見に臨んだ。
「すぐに記者会見をしたこと、学長が学生を処分して、謝罪文を書かせ大聖堂のあるカトリック教会に届ける、と述べたことがマスコミに好感を持たれたようです。三日間で収束しました」
この不祥事対応がノーベル賞対応にも役立ったという。そこで、日常の広報室の活動を聞いた。
入試広報は別にあり、メディア対応がメイン。プレスリリースは年間八〇から九〇近く出しているという。同大の運動部では、野球、ラグビー、女子駅伝などが全国レベルで頑張っている。
「学生に元気を与えてくれる運動部の活躍は期待しています。でも、強い競技は一般紙やスポーツ紙などでも取り上げてくれます。広報では、縄跳びとか、ユニークな学生のスポーツを取材するように心掛けています」(宮川)
取材は、本部棟にある広報室の隣の記者室で行われた。記者用のデスクが二つ、小さなソファーがあるこじんまりとした部屋。「広報室ができた四年前に記者室を設けました。マスコミに対する接し方はゼロからのスタートでしたが、ようやく、少し形ができたかな、と思っています」(井上)
井上の悩みは「ノーベル賞は別として、京都発の大学ニュースが東京で報道されるケースが少ない」ことだという。ちなみに、鳥取大学と共同研究する「鳥インフルエンザウイルス」の研究などは全国ニュースになるそうだ。
最後に、井上に広報面の“益川効果”を尋ねた。「東京の文科省担当の記者や様々なメディアの人と会え、そして、いろんな話を聞けたのは、今後の広報活動に役立つものと確信しています」
井上が言いたかったことには、こういうこともあるかもしれない。「普段、きちんとやっていれば、大きな案件が突然起きてもスムーズに対応ができる」。また、不祥事を自ら語ったのは、それだけ広報に対する問題意識が高かったからではなかったのか。
このことは、大学広報だけでなく大学の運営全体にもいえるのではないだろうか。大学広報のあり方について、京都産業大の広報はいろんなことを教えてくれた。