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オンライン大学が答えだ
大学には暗黙の了解が存在する。一般的な教授達は、「君たちが多くを学んでいないことは別に気に留めない」と思い、学生達も「俺たちが学んでないことは別に気にしない」と思い、そして教授達が本当は教え方を知らないことを知っているが、そのことを口にしないことで合意している。その結果、学生達が四年間教室に座ってさえいれば、教授達は彼らに学位を与えてしまうんだ。何とも、馬鹿げたシステムだ。本当に教えたいと思っている教授達には非常にフラストレーションの溜まる状況だ。[1]
この刺激的な一節は、筆者が放送大学の講義用に収録したインタビューで、最も影響力のあるインストラクショナル・デザイン(ID)研究者の一人ロジャー・シャンク氏が指摘した米国の大学の現状である。
決してわが国のことを述べているのではないが、「日本には当てはまらない」と胸を張って言えない現実が悲しい。いや、今後の(あるいはすでに始動した)大学関係者の決意と創意工夫によって改革が進み、「そういえば、大学が四年間の夏休みだと揶揄されていた時代もありましたねぇ」と懐かしく振り返る時がそう遠くない将来に来るのだろうか。
シャンク氏の答えは、「オンライン大学がこの状況を打開する鍵を握る」というものだ。
世界経済の時代に雇用者が求めるのは真剣に学んで何かを身につけた者であり、学位があっても仕事ができない者ではない、と指摘する。バブルの崩壊と経済不況のあおりを受けて、即戦力の人材を求める企業が増え、いきおい大学卒業時に何ができるかが問われる重みは増すばかりだ。大学の現状を変えることに腐心するよりも、オルタナティブをネット上に作っていくのが早道だと考え、シャンク氏は引退前の最後の仕事としてネットで学べる科学技術アカデミーを国際展開するプロジェクトに取り組んでいる[2]。
筆者の属する熊本大学がオンライン大学院でeラーニングの専門家育成に着手して丸三年が経過した。オルタナティブとして恵まれた環境で新しい試みを始めた成果は、着実に積み重なりつつある。昨年度は完成したばかりの博士前期課程のカリキュラム改革に着手し、シャンク氏の提唱する“ストーリー中心型カリキュラム”に移行した。今後も高等教育・企業内教育で活躍できる教育専門家の輩出に注力し、IDの最前線といえる教育改革を続けていきたい。
バーチャル・ハイスクールの動き
米国では、すでに有力な選択肢となったオンライン大学に加えて、ここ数年間のオンライン高校の動きが目覚しい。バーチャル・ハイスクールと呼ばれる教育形態であり、私学はもとより米国各州の公立高校としても展開している。いわゆるホームスクーリングの延長線上に位置づけた遠隔教育の選択肢でもあり、あるいは既存の地元高校に通いながらオンラインでならば履修できる科目を追加して学ぶパターンもある。選択科目の幅を一気に広げる効果はもとより、時間割上の調整作業を不要にしたり、全体としての運営経費を節約したり、あるいは教員向けのFDセミナーもオンラインで展開したりと、様々なネットワークの利便性を活かしたオルタナティブである。
例えば、アラビア語を学びたい米国の高校生のことを考えてみよう。地元の高校にはその授業はないが、オンラインなら受講できる。何もないよりは「マシ」なので教育の質に対する期待値は低いが、アラビア語を学ぶチャンスがあるだけで喜ばれるだろう。そのように開始されたオンライン教育は質を高め、やがて教室学習と同じ(あるいはそれを上回る)レベルに到達し、教室での学習を駆逐するライバルとなり教育に革命をもたらす。これがクリステンセンの解く「破壊的イノベーション」の普及プロセスである[3]。
「破壊的イノベーションを成功させるには、公立学校が自ら教えたいと望んでいる課程を狙わないことが肝要だ。むしろ、公立学校が教える必要性を感じているが、教えずにすんでよかったと安堵するような課程に焦点を当てるべきなのだ。(クリステンセン、2008、p107)」
この指摘をわが国の大学にあてはめれば、アラビア語ではなく、高校までの基礎教科の復習になるのだろうか。それとも学士力や社会人基礎力対応の新種のカリキュラム、はたまた就職に直結するトレーニングや社会人向け公開講座あたりを狙うということになるのかもしれない。ニッチを狙って他力本願で何かをはじめ、そこからノウハウを得て自校独自のプログラムを展開する。やがて加盟校同士が互いに協力し合って、協会全体としてのスケールメリットを活かした展開につなげる。そう考えればワクワク楽しい取り組みになるのかも知れない。
“ネット世代”の教育システム
欧米で急速な展開を見せているオンライン教育がわが国の大学にどのように、そしてどの程度浸透していくのか、今後の展開が楽しみなところである。お国の事情は様々であり、欧米流が必ずしもわが国に適しているとは限らない。しかし、他方で共通点もある。それはネット世代が大学にやってくる、ということである。「今の子どもたちには、私たちの世代を教えるために設計された古い教育システムは機能しない(p39)」と指摘したのは、デジタル移民(デジタル以前に生まれてデジタル世界に移り住んだ人)がデジタルネイティブ(生まれながらのデジタル世代)を教育しているから様々な矛盾が起きていると主張するプレンスキーである[4]。
プレンスキーは、デジタル移民が知っているゲーム(テレビゲーム)とそこから大きく進化した今日のゲームはまったく異なるものであり、「今日のゲーム世界の機能や方法は、学習者中心型の教育環境の優れたモデルとなる(p122)」という。常に期待を裏切る高レベルのカリキュラムが提供され続け、一方的な説明は最小限に抑えられ、もっと学びたいと思わせることを目指してあらゆる工夫がされているのがゲームの世界だ。
「ゲーム世代の要求に応えるカリキュラムを提供できるところが生き残る」といったら言い過ぎだろうか。いや、二〇〇二年に無料リリースして以来九〇〇万人以上のユーザが使い、アメリカ陸軍のことを遊びながら学んできたという「アメリカズ・アーミー」の入隊勧誘・入隊前教育プログラムとしての成功を見ると、その影響力の大きさは無視できるものではないと思えてくる。楽しくて夢中になれて、知らない間に多くのことが学べて、もっと学びたくなる。まさにIDが目指す効果・効率・魅力の三つがゲームの世界ではデザインされているのであり、ゲームの世界から学べることは少なくない。「大学の授業がゲームのようになったらいいんだけどなぁ」と夢想しているネット世代の願いに耳を傾けるか否か。新しい発想が必要であることだけは確かだろう。
進化するIDと大学教育への貢献
IDがもっとも重宝されてきた企業内教育では、インターネット社会の到来に伴って人材育成に対する考え方も変化し、「トレーニングからラーニング」、「ジャストインケースからジャストインタイムへ」などの潮流がある。できるだけ教育以外の選択肢を採用し、人材を育成する方向へ進んでいる。研修担当者(インストラクター)も、仕事のできる人を育てる技術者という意味の「パフォーマンステクノロジスト」へとその職責を広げている。
ひるがえって大学では、教育以外の選択肢を採用するという方向はとりにくい。教育をしないわけにはいかない。しっかり教育する方向へ着実に「大学の教育力」を高めていくことが求められている。もちろん、旧態依然とした今までのやり方を変えないでよいわけではない。むしろ、時代の変化に伴い開けてきた可能性、増えてきた危険性、変わってきた世代などを見据えて、一方的に情報を流すだけで教えたつもりにならない教育、あとは学生の責任だと見放さずに結果を出させる教育、単位を付与するだけでなく本当の実力をつけさせて卒業時には胸を張って送り出せる教育を実現するための改革の具体化が今、必要なのだ。
教育の質への関心が寄せられることは大いにありがたい。“より良い教育”とは効果的で効率的で魅力的なものだと捉えて、その実現に資する研究成果を蓄積してきたIDの重要性が認められ、大学教育の質向上に役に立てる機会が増えるだろうと思うからである。時代の要請とともにIDそのものも変化を遂げている。様々な事例に学びつつ、役に立つ研究知見を今後も届けていきたいと願っている。
[1]鈴木克明「eラーニングにおける学習者中心設計とIDの今後(第8章)」野嶋・鈴木・吉田(編著)『人間情報科学とeラーニング』放送大学教育振興会、2006、p129
[2]VISTA(Virtual International Science & Technology Academy) http://www.engines4ed.org/about/vista.cfm
[3]クリステンセン他「教育×破壊的イノベーション:教育現場を抜本的に改革する」(櫻井祐子訳2008)、翔泳社
[4]プレンスキー「テレビゲーム教育論」(藤本徹訳2007)、東京電機大学出版局