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<71>オリンピック金メダリスト 日本体育大学学長に就任 具志堅幸司さん

スポーツ文化の可能性に挑む
スポーツ・身体・生命がキーワード  2020東京五輪後を見据える

オリンピック金メダリストの学長である。具志堅幸司さんは、本年4月から日本体育大学(松浪健四郎理事長、東京都世田谷区)学長を務める。体操の名門、大阪・清風高から日体大に進み、ロサンゼルス五輪では個人総合とつり輪の2個の金を含む5個のメダルを獲得。平行棒の演技は現在でも体操の技「グシケン」の名前が残っている。現役引退後、体操発祥の地、ドイツに留学。帰国後、2008年北京五輪で男子代表監督を務めるなど後進の指導にあたった。日体大教授、同副学長を経て12代目の学長に就任、金メダリストが就任するのは初めて。大学在学中に大ケガを負い、スポーツ選手生命が絶たれてもおかしくない中、体操に向き合い世界一になった努力の人でもある。そんな具志堅さんに自らの歩み、学長の恍惚と不安、これからを聞いた。
具志堅さんは、1956年、4人兄妹の末っ子として大阪市大正区に生まれた。小学校の頃は、まだ、自宅周辺は自然豊かだった。「トンボやバッタ、メダカを取ったり真っ暗になるまで遊んだ。やんちゃで無謀なところがあり、怪我ばかりしていました」
地元の平尾小学校2年生のとき、車から振り落とされて頭蓋骨骨折の大ケガを負い、半年間入院した。「両親は、勉強しなさいとは言わなかった。他人に迷惑かけてはいけない、と口を酸っぱく言われました」
体操を始めたきっかけは,小学校6年生のときにメキシコオリンピックの体操競技で、加藤澤男選手の演技をテレビで見てから。「日本は強かったし、加藤選手がカッコよかった。母親に体操をやりたいと懇願した」
大正中央中学校に入ると、すぐに体操部に入部した。「週3回は、中学校で練習して、あとの3日は地元の高校体操部に出げいこに行きました。全中(全国中学校体操競技選手権大会)には出場できず、ブロック大会の個人総合で小差で負けて2位でした」
「大阪で一番体操の強い高校へ行きたい」と清風高校に進んだ。清風高校体操部は、監物永三、鹿島丈博、池谷幸雄、西川大輔といった五輪メダリストを輩出している体操の名門・伝統校として知られる。
中学校の体操競技は、床運動、鉄棒、跳び箱の3種目だったが、高校では、吊り輪、あん馬が加わった。本格的に体操に取り組む。中学と比べ、競技の数が増えたうえ、練習量が違った。 「放課後の三時から夜八時まで練習で、夏休みは体育館に寝袋持ち込んで合宿でした。辞めたいと思ったこと?練習を休みたいとは思ったことはあったが、やめたいと思ったことはなかった」
高校2年からインターハイに出場する。「静岡のインターハイでは、個人総合で4位、団体で2位。そのあと、『インターハイで優勝』を合言葉に猛練習を行い、3年のときの北九州のインターハイでは、団体、個人とも優勝しました」
大学進学では、「オリンピックや日の丸を頭に描いていたので、名門の日体大しか頭になかった。高校の顧問の先生の母校でもあったし、何より、清風高校と同じように体操の五輪メダリストを数多く輩出していた」
日本体育大では、大学2年生までは順風満帆だった。ところが、3年、4年次に大きなケガに見舞われた。3年のとき、吊り輪の練習中に着地に失敗、腓骨と左足じん帯を損傷、手術して3ヶ月間入院した。
「医者からは『もう体操は無理』と言われたが、病室で筋力を強くしようとトレーニングを始めた。自転車の丸いチューブをベッドの端にくくりつけて、筋トレをやった。3ヶ月間の入院で筋肉が付き、十字懸垂など吊り輪が得意になった」
大学4年になって、床運動の練習中に左アキレス腱を断裂、再び3ヶ月入院。「もう体操はやめよう、と思った。自分はオリンピックとは縁のない選手かと涙が止まらなかった。そんなとき、体操の仲間や恩師から励ましの声が届き、もう1回挑戦しようという気持ちになった」
2度目の入院では、筋トレとともにイメージトレーニングを始めた。「自分の演技を、イメージの中で、『映像化する力』をつけることができた」
筋トレで体操の技術力、イメトレで精神力が一層磨かれ、日本の代表的選手となった。1978年に日本体育大学を卒業。80年のモスクワオリンピック日本代表に選ばれたが、日本はボイコットしたため不参加となった。
「モスクワに向けて1年1年目標を立てて練習してきたので残念で悔しかった。4年後まで体が持つかどうか、心配になった。また、平和のありがたさを身をもって知り、五輪は国際平和に貢献していることを改めて噛みしめました」
そして、84年のロサンゼルスオリンピックで金、銀、銅メダル獲得。「一番高い台に立って、諦めなくてよかった、体操を続けてよかったと思った。同時に、支えてくれたみんなに感謝の気持ちで一杯になった」
イメトレも役立った。「競技場に向かうバスの中で、バスから降りる、会場に入る、演技のはじめから終了まで、表彰台で感激の涙を流すまでがイメージできたので、『必ず勝てる』と確信して演技に臨めました」
「ハルチ、ウムチ、ツヅチ」、ロス五輪では、唱えていた呪文のような言葉が話題になった。「母校である清風高校の桑原昭吉先生が授けてくれた言葉で、『内なる充実』という意味があり、金メダル獲得につながりました」
翌年の世界選手権で選手を引退。現役引退後、西ドイツに留学。中世の面影残る学生の街、チュービン大学で学ぶかたわら、現地の選手の指導も行った。

ドイツ留学後、コーチに

「ベルリンの壁の崩れた年に帰国しました。現地の安全に配慮した設備や環境にも目が開かれました。2年間ドイツで学んで自信をつけ,これから若い人を指導しようという気持ちになり,本格的にコーチの仕事を始めました」
コーチ時代、NHK杯体操の解説を行っていた際の和むエピソード。具志堅さんのあとを継いだ水島宏一選手がつり輪で失敗した際、「水島君、こんなこと言ってごめんなさいね。パワーが不足しているんですよ」と直接語りかけた。
大学学長になった経緯は?「学長選挙に出るべきと声をかけられました。体操しか知らず、学長の任に耐えられるか不安もありましたが、周りが応援するからと背中を押してくれました。他に立候補者はなく信任投票の形でした」
学長に選ばれたとき、「もう後戻りできない、前へ進むだけだ」と思った。学長就任の決意を語った。
「今年4月から従来の体育学部に加え4学部になり、来年度からスポーツマネジメント学部を設置、5学部体制になります。単科大学から身体に纏わる文化と科学の総合大学になります。教員の意識を変え、教育研究の質的充実という内なる改革を最優先に進めたい」
入学してくる学生も多様化する。「アスリートだけでなく、あらゆる分野や職域で活躍できる人材、さらに高度専門職業人の養成も求められます。『體育富強之基』という建学の精神に基づく日体大らしさを改めて問いかけたい。その意味から全学部の学生を対象に教養科目を中心とした全学共通カリキュラムを編成したい」
2020年の東京オリンピック・パラリンピックまで、あと3年。日体大は、これまでのオリンピックで日本が獲得したメダルの4分の1にあたる128個の金・銀・銅メダルを獲得。2020年には、70人の出場を目標に掲げている。
「これまでのオリンピックでの日体大の歴史と伝統は、世界に誇っていいと思う。2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、新たな歴史のターニングポイントとして、その先を見据えた様々な取り組みを積極的に展開していきたい」と述べ、こう結んだ。

世界に向け飛躍したい

「本学に課せられた新たな使命は、スポーツ文化のさらなる可能性を創造し、これまでにない世界を描いていくことだと考えています。これからもスポーツ・身体・生命をキーワードに、身体に纏わる文化と科学の総合大学として、世界に向けて大きく飛躍したい」。すっかり、学長の顔だった。

ぐしけん こうじ

1956年、大阪生まれ。ロサンゼルスオリンピック体操金メダリスト。大阪の清風高で力をつけ、日本体育大在学中にアキレス腱断裂などケガを負ったが、努力でそれを克服。1981年、世界選手権個人総合3位。83年の同大会で2位。84年のロス五輪で個人総合とつり輪で2個の金メダルを獲得。85年に引退。
日本体育大女子短大助教授などを経て、2005年、日本体育大学教授。17年4月から同大学長。09年、日本体操協会理事。05年、紫綬褒章を受章。著書に『突破!突破!限界への挑戦―努力する才能と信じる心』(講談社、1985年)など。