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高等教育の明日 われら大学人

<90>大学教授で宮内庁式部職楽部指揮者
武蔵野音大教授 北原幸男さん

オーケストラにオペラ、邦楽もこなす
日本を代表する指揮者 即位祝う新曲「令和」で指揮

日本を代表する指揮者で、大学教授、宮内庁の式部職楽部指揮者、アマチュアオーケストラも指揮...八面六臂の活躍である。武蔵野音楽大学教授の北原幸男さんは、先の「祝賀御列の儀」パレードでは、天皇皇后両陛下が宮殿を出発する際、自身が作曲した即位を祝う新曲「令和」を指揮した。桐朋学園大学で学び、「世界のオザワ」小澤征爾や尾高忠明、秋山和慶らに師事した。海外ではヨーロッパを中心にイスラエル・中米・北欧など約40のオーケストラ・歌劇場で指揮。国内ではNHK交響楽団など主要オーケストラに客演(自分の所属していない団体に招かれて出演)、オペラの指揮もする。尺八を父の都山流尺八奏者の北原篁山に師事、邦楽もこなす。宮内庁式部職楽部指揮者(洋楽)には、2008年に就任。天皇皇后両陛下主催の世界各国の国賓を招いての宮中晩餐会・午餐会で指揮してきた。北原さんに、多彩な音楽人生を尋ねた。

 小さいころから音楽の中で育った。1957年、東京・中野区に生まれた。小学4年の時、杉並区に移った。父は著名な尺八奏者だがフルートも演奏、母も琴を弾いていた。3歳からピアノに親しんだ。
 地元の小学校に入ると桐朋学園の「子どものための音楽教室」に通った。「週1回、ピアノとソルフェージュ(西洋音楽の学習において楽譜を読むことを中心とした基礎訓練)を教わりました」
 中学は、桐朋中学・高校(東京都国立市)に進む。桐朋学園の桐朋女子高校(男女共学)には音楽科があるが、普通科に進んだ。「普通科に行ったのは、将来、新聞記者になりたかったからなんです」。ただ、ピアノとコントラバスのレッスンは続けた。
 中学では、水泳部、高校では水球部で活躍した。「指揮者は肉体労働でもあるんです。水泳で体を鍛えたおかげか、演奏会をキャンセルしたことはありません。(音楽は?)高校時代、友人とバンドを組んでハードロックやプログレを演奏、女子高の文化祭に出たこともあります」
 指揮者を意識したのは?「小学校の時、父に連れられてコンサートを聴きに行って、かっこいいと指揮者に憧れました。ただ、プロの指揮者になるのは大変難しい世界ですから...」
 桐朋学園大学音楽学部演奏学科に進む。80年、同学科卒業、82年、同研究科を修了。「大学の6年間はコントラバスをやっていました。オーケストラで練習し、演奏会にも出ました。演奏家にとって良い指揮者はどうあるべきか、を見ることができました」
 大学3年の時、小澤征爾のクラスに入ることができた。「小澤先生からは、最初は怒られてばかりいましたが、絶えず『お前には才能がある』と励ましてくれました。桐朋学園が(指揮者になる)チャンスを与えてくれたと思っています」
 卒業後、84年、オーストリア・インスブルック・チロル音楽院指揮科で学ぶ。85年、プラハの春国際音楽コンクールで指揮部門で3位に入賞。「85年から7年間、インスブルック・チロル歌劇場・同管弦楽団専任指揮者になりました」
 チロル歌劇場時代の上司、W・ピーチニク氏からオペラについて様々なことを学んだ。「オペラを指揮するためには知識と教養、そして小道具の裏方さんに至るまで、関わる全ての人たちの心を一つに束ねることが必要になることなどを教わりました」
 海外生活が続いた。92年から96年までドイツのアーヘン市立歌劇場首席指揮者、同音楽総監督を務める。「30代半ばの音楽総監督に抵抗があると思いましたが、みんな伝統は大事だが再創造、今までのものにとらわれないという気概があり、東洋の若者を育ててやるという感じで暖かかった」
ヨーロッパにいる時、小澤征爾の"カバン持ち"をして世界中を回った。「まだ若い私を錚々たる音楽家に紹介してくれました。小澤先生は、気配りの人であり、努力家です。朝4時には起きて、演奏活動前、自分ひとりで音楽と向き合う時間を作っていました」
 音楽総監督退任後も、99年までイタリア・フィレンツェ近郊に住んでヨーロッパを中心に演奏活動を行った。「イタリア語を覚え、子どもも生まれ、人口500人位の街に住み、ここで自分が変わったと思いました」
 どのように変わったのか?「それまでは、キャリア、指揮者として上昇志向がありました。そのためには、犠牲もやむを得ないと思っていました」
 17年間という長い海外生活に別れを告げて日本に帰国。洋楽の本場で得たものは?「自分をきちんと主張していくことが大事なことを学びました。(指揮者としては?)演奏者には、いろんな民族がいるし、母国語でない言語が飛び交います。どうやって意思疎通を図るか、それは他者を理解して共同作業を行うという姿勢だと思います」
 2003年、武蔵野音楽大学講師に就任。「父は東京藝大で教え、『教えることで学ぶ』という教育ライフワークを持っていました。人に教えるということは自分も学ぶことなのです。時には妥協しないで厳しく指導もしますが、私も教えてもらったことを次の世代に伝えたいと思いました」
 04年に助教授、07年に教授に就任する。講義は、指揮とオーケストラを教えている。今の学生は、先生の時代と比べてどうですか?「素直で、性格もいい学生が多い。時に、待ちの姿勢がみえる。自分から自発的に向かってきてほしい。また、音楽大学で学び、音楽に就かない学生もいるが、音大で培ったコミュニケーションやチームワークなど人間力で社会に認められるよう頑張ってほしい」
 海外だけでなく国内での活動も活発だ。N響、東京都交響楽団、新日本フィルなど多くのオーケストラに客演。オペラでも、びわ湖ホール・新国立劇場・関西二期会等で指揮をしている。地域との音楽活動も積極的に行っている。
 自宅のある埼玉・富士見市の文化芸術アドバイザーを務める。「2008年から市内の中学校や高校の吹奏楽部の生徒たちと一緒に『富士見市学校吹奏楽祭』の合同演奏で指揮をしていたのが縁で、引き受けました。地域の子どもたちに本物の音楽を聞かせてやりたい」
 最近、社会貢献について考えるようになったという。16年から新潟県音楽コンクール審査委員長を務める他、多くの合唱コンクールの審査員も務めている。「音楽や文化は人間の世界にうるおいを与えてくれます」宮内庁の式部職楽部指揮者に選ばれたのは、なぜ?「父が尺八の御前演奏をしたことがあり、私が洋楽だけでなく邦楽、尺八もやっているということからかもしれません。二度とない栄誉なので学長にも相談してお引き受けしました」
 09年には御成婚50年御即位20年記念洋楽演奏会の指揮者を務めた。「楽曲演奏の指揮のほか、宮内庁の方と相談して選曲のお手伝いもします。来賓の方のお国柄に合わせたり、日本伝統の雅楽のような曲目も選びます」
 12月19日、東京芸術劇場で、北原白秋詩、信時潔曲による交声曲『海道東征』を指揮する。「1940年に皇紀2600年を祝賀する皇紀2600年奉祝曲として作られた、白秋晩年の大作、信時の代表作で、多くの方に聴いてほしい」。12月には年末『第九』で渋谷と横須賀で指揮、師走は指揮者をも走らせる。
 最後に、これからの音楽活動を聞いた。「時代は変わりますが、音楽、オーケストラの魅力を通して社会に貢献していきたい。私が海外等で経験したものに触れてもらい、それが世の中の役に立ち、人々に元気や勇気を届けることが出来たら幸せだと思っています」。長身でロマンスグレーの長髪が似合う眉目秀麗の指揮者は、主張はフォルテッシモ、口調はピアニッシモで結んだ。

 きたはら・ゆきお

 1957年、都山流尺八奏者二代目北原篁山の長男として東京に生まれる。桐朋学園大学音楽学部演奏学科卒業後、NHK交響楽団指揮研究員に。85年、プラハの春国際音楽コンクール第3位入賞、インスブルック・チロル歌劇場専任指揮者、ドイツ・アーヘン市立歌劇場音楽総監督などを歴任。N響「ショスタコーヴィチ:交響曲第11番」、東京都交響楽団「ショスタコーヴィチ:交響曲第5番」他多数のCDをリリース。グローバル音楽奨励賞、下總皖一音楽賞受賞。武蔵野音楽大学教授、宮内庁式部職楽部洋楽指揮者、日本指揮者協会常任幹事。11年から埼玉県富士見市文化芸術アドバイザー。趣味は水族館めぐりなど。