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高等教育の明日 われら大学人

<88>音楽評論家として評論活動
展開する尚美学園大副学長 冨澤一誠さん

「青春生きざま論」でエール
東大を中退歌手めざすが 「大人の音楽」普及に尽力

 ジャパニーズ・ポップス専門の音楽評論家として広く評論活動を展開。尚美学園大学(久保公人学長、埼玉県川越市)副学長の冨澤一誠さんは、音楽評論家と大学副学長という2つの顔を持つ。長野県須坂市生まれで、地元の小中学校から県立長野高校に進み、東京大学文科Ⅲ類に入学するが2か月で中退。その後、歌手をめざし歌謡学校に通うが挫折、作詞家をめざすが、これも断念。71年、音楽誌への投稿を機に音楽評論活動に専念。フォークソングブームで音楽評論家として地位を固めた。音楽コンサートやアルバムをプロデュースしたり、ラジオやテレビなどのパーソナリティーも務めている。音楽評論家として現在、『Age Free Music』(大人の音楽)の普及に努める。大学人としては、尚美ミュージックカレッジ専門学校客員教授から尚美学園大学理事を経て副学長に。追い求めているテーマは「青春生きざま論」で、学生=若者達にエールを送り続けている。

 1951年、長野県須坂市に生まれる。3人兄弟の末っ子。「父親は自由業という感じで、孟宗竹の竹器(ちくき)を作っていましたが、母も支えていました。父の商売が竹だったので家訓は『たけのこは食べていけない』でした」
 地元の井上小学校、墨坂中学校で学ぶ。須坂市は、りんごの産地で千曲川が流れる。冬は積雪30もあった。「千曲川で釣りをしたり、小さな川で泳いだり、冬はスキーを楽しんだり、自然のなかで過ごしました」
 中学では、バスケットボールや陸上競技で活躍した。「バスケット部では、センターとして県大会で優勝、学内マラソン大会でも優勝しました。勉強?中学では1番か2番でした。国語、社会といった暗記物が得意だった」
 長野高校では、勉強一筋だった。「学校から帰ると机に向かい、平日は8時間、土日は15時間も勉強していました。成績も10位以内で、伯父から『お前の目は魚の腐った目をしている』と言われたのを覚えています」。慢性の寝不足だった。
 その一方で、中学高校と、ずっと歌手になりたかった。「歌手になれば女性にもてると思った。中学の修学旅行のバスの中で西郷輝彦のモノマネをしたらウケた。高校1年の学園祭では、西郷輝彦の『星のフラメンコ』を歌い、トイレットペーパーのテープを浴びました」
 高校3年とき、顔面神経痛になり成績が落ちた。「歌手になりたい」という思いを担任に相談した。「先生は、君の希望は東大進学だろう。歌手になるより東大に入るほうが楽だ。東大に入ってから考えたらどうだと諭されました」
 東大文科Ⅰ類(法律・政治)を狙った。「前年に東大入試がなく、入試は厳しく、確実に受かる文科Ⅲ類(文学)を受けました。運よく合格しましたが、希望した文科Ⅰ類でなかったので自分としては初めての挫折でした」
 1970年、東大文科Ⅲ類に入学する。「東大に入るのが目的だったから、好きなことをやろうと思い、オリエンテーションを受けただけで大学には行かず、2か月で中退。その後、歌手を目指して歌謡学校に入りました」
 歌謡学校には3か月通った。「まわりを見ても歌手になれるような生徒はおらず、ここにいても歌手になれないと思った。同時に、高校の担任から『お前は、リズム音痴じゃないか』と言われたのを思い出し、歌手になるのは諦めました」
 東大に戻るつもりはなかった。歌手がだめなら何かないかなと考えていた時、深夜放送でなかにし礼が「作詞はちょろくて儲かる」と言っていたのを聞いた。「詞を書いて、音楽出版社に持ち込みましたが、却下。3度目の挫折でした」
 その頃、深夜放送で偶然聴いたのが吉田拓郎の『今日までそして明日から』。「自堕落な生活を繰り返していた自分と重なりました。仲間と拓郎や泉谷しげるを呼んでコンサートを開こうと企画したが、スケジュールが合わず、ロックコンサートを開きました」
 ところが、50万円の大赤字。「友人からお金を借りまくったから、友達をなくした」。そんな時、書店でフォーク専門誌「新譜ジャーナル」を手に取った。
 「岡林信康特集が載っていた。読んでみたがピンとこなかった。そこで、自分で評論を書いて編集長に送ったら、雑誌に掲載されました。私の評論に共感する読者が多くいたようで、編集長から『うちで書いてみないか』と誘われました」。1971年10月、音楽評論家としてデビュー。
 72年、吉田拓郎が『結婚しようよ』でデビュー。当時、音楽雑誌を買い込み、音楽評論家の誰がどの分野が得意かを調べた。「フォークを専門にしている人はいなかった。フォークは、絶対に売れると思い『フォーク評論家』の名刺を作った」
 拓郎に続き、かぐや姫、井上陽水らが登場、翌73年からフォークブームが起きた。執筆の依頼が舞い込むようになった。1年後には新聞3紙に連載を抱えた。77年頃からアリス、松山千春、さだまさし、中島みゆきらが現れ、ニューミュージックとしてブームは広がった。
 しかし、83年頃からポップス・ロックの時代になり、フォークは衰退。ロック評論家に転向しないと駄目かと悩んでいた時、谷村新司から「事務所から独立して欧州3ヵ国でアルバムを作る。これをレポートしてもらえないか」と頼まれ、引き受けた。
 「谷村さんと付き合い、どの世界でもナンバーワンにならなくてはいけない。けれど、ずっと1番ではいられないから、次は自分だけの世界を確立してオンリーワンになることが長生きするためには大切だと実感しました」
 そこで、「演歌、歌謡曲でもない、J-popでもない、大人の音楽を作ろうと、レコード会社と一緒にレーベルを立ち上げました」。現在も、テレビやラジオ、有線、カラオケでも発信している大人の音楽『Age Free Music』だ。
 92年からラジオやテレビで音楽番組のパーソナリティーを始めた。同時期に、尚美ミュージックカレッジ専門学校講師も務めた。
 「日本の音楽を支えるのは若者たちです。彼らと接し、生の声を聞くことができるのは、ほんとうに楽しみです」。講義では、日本のフォークソングやJポップの歴史などを教える。同学園の評議員、理事を務め昨年4月から副学長になった。現在も週に一度、1~4年生に選択科目として講義をしている。
 今の学生について聞いた。「授業中に指名すれば結構しゃべるし、うるさいと注意すると素直に聞く。メールをやっているせいか、レポートを書くのは上手だ。授業に全く出なかった僕の学生時代とは違います」
 こう続けた。「何事にも歴史がある。音楽も同じで歴史を知らないと今日と比較できず、未来を予測できない。歌は聞いてみないとわからない。今の学生は、岡林信康の『友よ』やザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』を凄いという。生まれる前の歌だが、聞いてみることで、歴史を知り、その良さが初めてわかるのだ」
 自身のこれから。「今は、大人の歌がありません。少し古いデータですが、日本の人口は50~70代が4785万人、10~20代が2423万人で、大人の方がビッグマーケットです。この大人たちに、『Age Free Music』を広げていきたい」
 これからは、若者はロックやポップスなどを音楽配信で聴き、団塊世代を含めた50代以上の大人世代はCDで聴くのが主流になるという。しかし、後者の聴く音楽が少なくなっている。
 「我々と同世代の拓郎も陽水も第4コーナーを回ってゴールが見えてきたような気がします。彼らには『Age Free Music』を歌ってほしいと願っています。拓郎も陽水も頑張っています、我々も頑張らなくちゃあ」
 こう付け加えた。「これからも、自分の良いと思う道を生きていきます。それが私にとって『Age Free』に生きるということです」。挫折を何度も乗り越えた男は、音楽評論家として、大学副学長としてゴーイングマイウェイで『今日までそして明日から』を歩んでいく。

とみさわ・いっせい 

音楽評論家。1951年、長野県須坂市生まれ。東京大学中退。歌手を目指し歌謡学校に通うが挫折し、紆余曲折の末、ジャパニーズ・ポップスを専門とする音楽評論家となる。フォークコンサートやアルバムをプロデュース。92年、アルバム『ASIAN VOICES』、10年のアルバム『あの素晴しい曲をもう一度~富澤一誠・名曲ガイド。時代が生んだ名曲39曲~』で日本レコード大賞・企画賞を受賞。「Age Free Music!」(FM NACK5)「Age Free Music~大人の音楽」(JFN系FM34局ネット)、「イマウタ」(BS日テレ)などのパーソナリティーも務めている。尚美学園大学副学長。(株)アイ・ティ オフィス代表取締役。主な著著に「あの素晴しい曲をもう一度」(新潮社)「『大人の歌謡曲』公式ガイドブック」(言視舎)など多数。