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高等教育の明日 われら大学人

<84>アイヌ文化への理解訴える札幌大学教授 
本田優子さん

多文化共生のモデルを創造
ウレシパクラブ結成 奨学金交付や就職支援

 異能な学者である。2020年には北海道の白老町に国立アイヌ民族館が開館するなどアイヌ文化が注目されている。札幌大学(鈴木淳一学長、札幌市豊平区)地域共創学群教授の本田優子さんは、アイヌ文化やアイヌ語の研究者。石川県金沢市生まれで北海道大学に入学するも3年で退学、学びの大切さに気づき復学。アイヌ民族でアイヌ文化研究者の故萱野茂さんを知り、卒業後、萱野さんが暮らす二風谷(にぶたに)に移り住みアイヌ語を学びながら過ごす。2005年、札幌大学に奉職。アイヌ文化の担い手を育成する「ウレシパ・プロジェクト」を立ち上げ、アイヌの学生に対する奨学金制度を創設。アイヌの学生もアイヌではない学生も一緒にアイヌ文化を学ぶ「ウレシパクラブ」を結成。ウレシパとはアイヌ語で「育て合う」と言う意味。「多くの人と関わりながらアイヌ文化を学び、理解を深めることで、これからの北海道に必要な人材を育てたい」と語る本田さんに、自身の歩み、アイヌのこと、これからを尋ねた。

 現在、政府は、アイヌ民族に関する新たな法案の今国会での成立を目指している。「先住民族」と初めて明記し、文化の継承を国と自治体の責務と位置付けた。このアイヌ新法案について問うた。
 「世界の先住民族に対する扱いから考えると、まだまだ手ぬるい。アメリカからは20年遅れています。法案に先住権が定められていないことにアイヌの人たちは疑問視しています。その気持ちはわかりますが、一歩一歩進め、私たちが捨て石になって次の世代で課題を実現してほしいと思います」
 1957年、石川県金沢市に生まれた。「家は金沢駅西側で、まだ田んぼばかり。上2人が兄で、兄や従姉弟らと木登りなどして遊びました。中学時代は、ソフトボールで4番、サードでした」
 金沢市内の小中学校から進学校である県立金沢泉丘高校に進む。「勉強ですか?高校では、国語は得意でしたが、数学は苦手でした。勉強はあまりしないで、バレーボールやテニス、バスケットボールなどスポーツに夢中でした」
 子どもの頃の思い出。「おばあちゃん子だったので金沢弁を喋っていました。母から『もっときれいな言葉を使おうね』と言われました。高校では、授業開始のチャイムが鳴ると標準語に切り替わります。授業中に、わざと金沢弁で喋ったら、先生から『お前、馬鹿にしているのか』といわれ、ショックでした。言葉の裏に権威や権力があるのかと思ったりしました」
 アイヌとのちょっとした関わり。「植物研究者になった兄と、小学校の頃、立山に登って植物採集などをしました。アイヌの植物に対する関心は高いものがあります。後年、アイヌ文化に深く関わっていく原点だったかもしれません」
 北海道大学へ進む。「うちの高校から北大は毎年、男子が1人か2人で、女子では私が初めて。当時付き合っていた男の同級生から『北大へ行こう』と誘われてという目的意識がない進学でしたが、無事に現役で合格しました」

萱野茂氏との出会い

 北大1年の時、萱野茂について書かれた書籍を読んだ。「アイヌ語が消えそうになっていると知りました。自分たちの言葉を奪われてしまう人たちはどのような気持ちなのだろうかと考えました」
 自分の中の金沢弁とアイヌ語が重なった。「日本人は近代化の過程で方言を捨てたけれど、アイヌは明治政府の同化政策で捨てさせられたことと知りました。アイヌ文化への興味が湧いたきっかけかもしれません」
 3年のとき退学した。「今やっていることが何の役に立つか、悩み、市民活動などやったあげくに東京に出ました」。1年半後、学びの大切さに気づき、復学。卒論は『開拓使のアイヌ政策』。評価され、研究者を志したが、大学院試験に落ちる。
 「アイヌについて学ぶ時間をもらった」と気を取り直し、萱野さんに弟子入り。萱野さんが住む平取町二風谷に移住。地元の子にアイヌ語を教えたり、アイヌ語の辞書作成の手伝いをしたり...。1年間の約束が11年に及んだ。
 「二風谷で過ごして思ったのは、経済的に苦しいアイヌの子を大学に進学させ、卒業後の就職も保障してやりたい。そして、高等教育においてもアイヌ文化を学ぶ場が必要だということです」
 その間、結婚し、息子2人が生まれたが夫と離婚、小学3年と1年の子を連れて二風谷を離れ札幌へ。「非常勤の学芸員や大学の非常勤講師をやりながら、母子家庭のフリーターで10年近く食いつなぎました」。明るく語った。
 2005年、札幌大学文化学部助教授に。「札幌大が募集したアイヌ語・アイヌ文化専門の教員に応募、アイヌ語ができる人が少ないので拾ってもらいました」。09年に女性初の学部長に選ばれる。「アイヌの若者に民族教育の場をつくるチャンスだと引き受けました」

夏休みの宿題は一人旅

 大学では、アイヌ語やアイヌ文化、アイヌの歴史を教える。こうした学問を学べる大学は少ない。「1年生のゼミでは、新聞記事をもとに議論したり、夏休みには『一人旅』を宿題にしています。自分の薦める本の書評を書かせ、書評集を作成。自ら調べ、行動し、深く考える能力を磨いています」
 学生に言いたいことは?「私たちの学生時代は、それぞれ何かに必死に取り組んでいた。今の学生は、豊かさはモノを買うことだと刷り込まれているような気がする。本を読むなど、もっと自分の時間をつくってほしい」
 「ウレシパ・プロジェクト」は、札幌大学にアイヌの若者たちを毎年一定数受け入れ、未来のアイヌ文化の担い手として大切に育てるとともに、多文化共生コミュニティーのモデルを作り出すのがねらい。
 「立ち上げ時、逆差別という批判が起きましたが、多文化共生は実践しないと実現しないと説得しました。アイヌの若者の進学率向上と未来のアイヌ文化の担い手の育成が目標です」

アイヌと和人が共に学ぶ

 「ウレシパクラブ」は、学生だけでなく一般市民や志の高い企業とともに、ウレシパ・プロジェクトを推進する組織。アイヌと和人(本州系の日本人)の学生が、ともにアイヌの言葉や文化を学ぶ。
 就職差別をなくすには企業の理解が必要と、道内企業に活動に協力してもらう事業を実施。「現在、一般会員は200人以上、企業会員は50社に上ります。北海道の名付け親である松浦武四郎の出身地、三重県松坂市は市として応援してくれています」
 現在、「ウレシパクラブ」には、20人の学生がいて、アイヌ出身が12人。「毎週月曜と木曜に正課授業のあと、学習会を行い、アイヌの文化や歴史、アイヌ語などを学び、学習会の前には踊りや歌などの練習も行っています」
 これから。2020年には白老町に国立アイヌ民族博物館が開館予定。「博物館には本学の卒業生が務めることになりました。ウレシパ・プロジェクトでは、アイヌの工芸や食文化を自分たちでビジネス化したい。さらなる充実が課題です」
 「日常のアイヌ語を復活させ、公用語にしたい」と考えている。「ハワイはアメリカに統合されてからハワイ語が奪われましたが、1983年にハワイ大を出た学生が子供をハワイ語で育てたいと提案。その後、小中高大学までハワイ語だけで授業を行う学校が作られました」
 本田さんの夢は、「アイヌ語を北海道の公用語にしたい」。「ニュージーランドでは英語だけでなく、マオリ語、手話も公用語とされているそうです。日本語には公用語が無いので、北海道の公用語のひとつだと宣言してもいいのではないでしょうか」

世界の先住民族と連携

 「言葉や文化を学べば、お互いに尊敬するようになります。差別をなくすことも大切ですが、目標は、望むときにアイヌの言葉や文化を学べる土壌をつくることです。そのためにも、世界の先住民族と連携して研究を深めていきたい」
 本田さんの座右の銘は、「(自分で)背負った荷物は重くない」。「辛い時やくじけそうなときに、この言葉を思い出すと頑張れそうな気持ちになれる」からだ。この心意気があれば、彼女の夢も叶うに違いない、きっと。


ほんだ ゆうこ 

札幌大学地域共創学群教授。1957年、金沢市生まれ。北海道大学卒業後、萱野茂氏の助手として平取町二風谷に移り住む。『萱野茂のアイヌ語辞典』の編纂作業に携わるとともに、二風谷アイヌ語教室子どもの部講師を務める。2005年、札幌大学助教授に着任。文化学部長を経て、11年から副学長を務めた。文学博士(総合研究大学院大学文化学研究科)。専門分野は、アイヌ文化、アイヌ史、アイヌ語。著書・著作に、『伝承から探るアイヌの歴史』(本田優子編)、『アイヌのクマ送りの世界』(木村英明・本田優子編)、『二つの風の谷 ―アイヌコタンでの日々―』(本田優子著)など。