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<81>「杜の都駅伝」で2連覇 名城大学女子駅伝部監督
米田勝朗さん

管理から自主性重視が結実
富士山女子駅伝で2冠を 駅伝は通過点、その後が大事

 2連覇の次の目標は、12月の富士山女子駅伝での2冠達成。名城大学(吉久光一学長、名古屋市天白区)女子駅伝部は、10月に仙台市で行われた「第36回全日本大学女子駅伝対校選手権大会」(杜の都駅伝)で2年連続3度目の優勝を果たした。同女子駅伝部は、米田勝朗さんが名城大学に赴任した翌年の1995年、1年生2人で創部。管理体制の厳しい指導のもと2005年、杜の都駅伝で初優勝。その後、管理主義から選手の自主性に任せるやり方に転換。しかし、佛教大学と立命館大学の台頭もあり低迷。だが、選手の自主性を重んじるチーム作りが徐々に浸透、13年ぶりの昨年の優勝、今年の2連覇につながった。「選手の人生は卒業後も続いていく。駅伝優勝は通過点で、その先を見ながら育てていかなければいけない」と語る米田さんに、自身の陸上人生、名城大学女子駅伝部が栄冠に辿り着くまでの歴史などを聞いた。

 10月28日の仙台の「杜の都駅伝」。3位でタスキを受けた3区の松智美ムセンビさん(1年)は、首位の大東大との23秒差を2・4キロ過ぎで逆転。2位以下に43秒差をつけると、その後は一度も首位を譲らなかった。  レース後、松さんは「どんな順位でもらっても絶対に1番で渡すという気持ちで走った。自分でイメージしていたように走れた。チームに貢献できてうれしい」、米田さんは「連覇は簡単なことじゃない。予想以上に厳しいレース。最後まで気が抜けなかった」とそれぞれ語った。
 米田さんは、神話のふるさと、「夜神楽」(国の重要無形民俗文化財)で知られる宮崎県高千穂町に生まれた。日本神話で天照大御神がこもったとされる天岩戸は自宅から500先。子どもの頃は川で泳ぎ、野山を駆け回って遊んだ。
 剣道の町で、県立高千穂高校の剣道部はインターハイで男女優勝したこともある。「小中学校では剣道をやっていました。走るのが好きだったのと、人間の主観で判定される剣道よりタイムで白黒がつく陸上のほうがいいと思った」
 高千穂高校に進み、陸上部に入った。「短中距離の選手で県内ではトップレベルだったが、全国レベルで戦えるほど競技力はなかった。『体育の先生になりたい』と陸上部の顧問の先生に相談したら、先生の母校を勧められました」
 1988年、日本体育大学体育学部体育学科に進み、陸上部に入る。「部員が700人もいて、自分は競技者として全国レベルは無理だった。主務(マネジャー)をやらないか、と言われ引き受けた」
 3、4年生のときはトラック種目から跳躍種目、投擲種目など陸上競技部全体の"仕切り役"となった。「教員になってチーム作りをしたかったので、組織のまとめ方など、いい経験になりました」。日本体育大学大学院体育学研究科修士課程に進む。
 大学院のとき、駅伝と深く関わることになった。大学院2年間は、研究の傍ら、コーチとして長距離、箱根駅伝の強化に携わった。「当時、日体大の駅伝は低迷期で、箱根駅伝は予選会からの出場続きで最後の年にシードが取れました」
 大学院修士(体育学)を修了した1994年、名城大学から法学部の体育の教員として誘われ、「駅伝部をつくって、日本一になってほしい」とも言われた。「男子は箱根駅伝があるので有力選手は関東の大学に行くので難しい。女子で勝負するしかない」と決断する。
 創部時の部員は2人。「部員たちを、日体大や、先輩たちが指導している大学での練習や、関東での試合に連れて回った。日本の大学のトップはこういうレベルで走っているということを実際に見せ、吸収してもらうためでした」
 99年、全日本大学女子駅伝対校選手権大会(当時は大阪開催)に初出場で5位となった。「大学側も喜び驚いて、"次は優勝だ"となり、女子駅伝部を強く支援してくれるようになった。選手一人ひとりのレベルを上げるために体重の管理など徹底した管理体制の指導を行った」
 2005年から開催場所が仙台となった同大会(杜の都駅伝)で見事、初優勝。結果を出したが、このあと、選手の自主性を重視する方針に転換する。世界の舞台で、日の丸を背負って走れる選手を育てたいという強い思いからだった。  「部員にお互い厳しく言い合える仲になることを求めた。自己管理できる、駅伝に対して取り組む姿勢を自分自身で育めるような選手を育成しようと考えたのです。こちらから答えを提示することがないように、基本的には自分で考えさせるような指導に変えてきました」
しかし、こんどは結果が付いてこなかった。一時は杜の都駅伝で7位まで順位を落とす。「屈辱でした。元の指導法に戻したほうがいいのかと悩みました。でも、一度、舵を切った以上、これで駄目なら自分の力がないと開き直り、選手を信じることにしました」
 そして昨年、杜の都駅伝で12年ぶりに優勝、今年は、2連覇を成し遂げた。2つの優勝の違いを聞いた。「昨年の優勝は、監督の力もあったと思う。自分たちでやるだけでは、まだまだで私が手を入れないと勝ちきれなかった。今年の優勝は、内容に不満もあるが、力のある1年生も入って自分たちで勝ち取ったものだ」
不満とは?「目指すのは、中身です。自分たちの力を出し切ったのか、どうか。4年生が強いチームでないと次につながらない。選手は4年で入れ替わる。組織として上級生が競技も大学生活も引っ張らないと伝統は続かないと思う」
 こう付け加えた。「今年の優勝は、1年生が頑張ったこともあるが、4年生に大いに助けられた。下級生がのびのびと気持ちよく走れる、いいチーム作りをしてくれた。この点は高く評価しています」
 「2連覇は、監督・選手だけの力ではない」という。名古屋学芸大学の管理栄養学部の学生が、毎日、夕食を作りに来る。「現場を経験することで本当の管理栄養士を育てたいという名古屋学芸大学の考えと、いいパフォーマンスには食が極めて重要という女子駅伝部の考えが一致して実現。大いに助かっています」
 現在、部員は18人。他の強豪校に比べ少数精鋭。全国から有力な選手が集まるようになった。2020年の東京五輪をめざすランナーもいる。6月の日本陸上競技選手権1500mでも優勝した髙松智美ムセンビさんや、和田有菜さん(1年)、加世田梨花さん(2年)は、日本陸上界の注目の選手。
 部員たちは大学近くで寮生活をしながら、毎朝6時前から1時間走る。マネージャーが用意した朝食を済ませてから授業に出て、練習は午後4時半から。「選手たちは自分自身で考えて1日を組み立てる。大学の授業もあるため、練習に使えるのは朝と夕方の数時間。その限られた時間をどう使うかは、自分たち次第です」  監督の役割を聞いた。「選手が気持ちよく競技できる環境をつくってやることです。暑いときや寒いときは、そうでない環境をつくる、海外に行ける環境もつくってやります。常々、『俺が強くするのではない、強くなるのはお前たちだ』と言っています」
 正選手でない選手への気配りも忘れない。「大会に一度も出ずに卒業する子もいます。駅伝部での4年間の経験は必ず将来の財産になる。自分と向き合ってくさらず、4年間をやり通してほしいと言っています」
 女子駅伝部の活躍は、一般学生や卒業生たちに元気を与えている。「母校の学生たちの力走がテレビで全国中継され、先頭を走り、優勝争いしてくれる姿は、OBの方々は相当うれしかったようです。もちろん、部員たちの同級生たちも応援してくれ、スポーツを通じて母校がひとつになるのは素晴らしいことです」
 3連覇は?「2連覇は、自分たちのスタイルを崩さず、選手1人ひとりが競技に立ち向かう姿勢が実を結びました。大学スポーツは戦略もあるが、一年一年が勝負です。それが繋がって連覇になると思う」
 夢は?「日本一はもちろん大事ですが、駅伝は通過点で、卒業して世界選手権やオリンピックでメインポールに日の丸を掲げる選手、有森裕子や高橋尚子のような選手を育てたい」。卓越した指導力は、必ずや、その夢を叶えるに違いない。

よねだ・かつろう

1968年、宮崎県高千穂町生まれ。名城大学法学部応用実務法学科教授。医学博士。日本体育大学卒、同大大学院体育学研究科修士課程修了。弘前大学大学院医学研究科博士課程(医学)修了。日体大の学生、大学院生時代は陸上部マネージャー、箱根駅伝コーチを務めた。
 1995年に名城大学に助手として赴任、女子駅伝部を設立。講師、助教授、准教授を経て教授に就任。生涯体育、生涯スポーツと実践(マリン)、生涯スポーツと実践(ゴルフ)、生涯スポーツと実践(スキー)、健康スポーツと実践などを講義する。研究分野は、体育科教育学・運動方法学(陸上競技)。