特集・連載
高等教育の明日 われら大学人
<48>ミスユニバース日本代表から大阪芸術大学教授に
織作峰子さん
つくづく思う。人の運命なんて、どう転ぶのかわからない。ミスユニバース日本代表から日本の代表的写真家に転身したのが、織作峰子大阪芸術大学教授。大学時代に友人が送った写真がきっかけで、ミスユニバース日本代表に選ばれた。ミスユニバース任期中に、写真家の大竹省二氏と出会い、写真家の道を歩む。現在、大阪芸大写真学科学科長として、若い世代の育成に力を注ぐ。世界各国の美しい風景や人物を撮りつづけ、写真集にまとめたり国内外で写真展を開催するかたわら、テレビ出演や講演活動などでも幅広く活躍。「写真は、時、瞬間を止める芸術なんです」と語る写真に賭ける情熱、「ミスユニバースになったのは宝籤に当たったようなもの。今があるのは、大竹先生のお陰です」という古風な精神。この情熱と精神が織作さんの背骨になっているようだ。彼女の波乱にとんだ半生から現在とこれから、そして夢を尋ねた。
若い世代の育成に傾注 写真家として国内外で個展
“終りなき挑戦”が続く
<故郷・北陸の風土で培われた感性で写真を撮る>という織作評がある。それを醸し出す彼女の2つの言葉から入ることにする。
「石川県には七尾市出身の長谷川等伯という有名な画家がいます。等伯の『松林図屏風』のような、霧の世界に共鳴するのです。外国に行った時、霧の出た瞬間、“写欲”がわくというのか、思わずシャッターを切ります」
「金沢には加賀友禅、金沢箔、九谷焼、和菓子といった、じっくりと創作する文化が多い。金沢の冬は雪にとじこめられてしまいます。この“耐える”という人と風土に関係しているのかもしれません」
石川県小松市に生まれる。「父は、日本建築の大工さん、母は、タバコや塩、切手とか、日用品を置いてある小さいお店をやっていました。親が子どもに、こうしなさいということはなく、進む道は自分で決めてきました」
どんな子どもだったのか?実家の隣が材木の加工場。「木屑がいっぱいあって、それを使って遊んでいました。近くに住む日本画家の先生に絵を習ったり、音楽が好きで幼稚園のとき、曲を聞いただけでピアノを弾き出して先生を驚かせたそうです」
小松市内の小・中学校から、小松市立女子高等学校(現在の小松市立高等学校)に進学。高校3年間は陸上部、槍投げで北信越大会で入賞した。「毎日、飽きずにトラックを走っていたのを覚えています。いまでいう体育系女子でした」
京都文教短期大学(現在の京都文教大学)に進む。「東京の体育大学から誘われたのですが、心臓肥大(スポーツ心臓)によりドクターストップで方向転換、子どもたちに音楽や美術を教えたいという気持があり、初等教育と幼児教育を専攻しました」
ミスユニバース日本代表に選ばれたのは、2年生のとき。「代表に選ばれるとは思ってもみませんでした。顔は日焼けしていて髪は短く、身長も165cmと低かった。遊んで帰ろうとリラックスして臨んだのがよかったのかもしれません」
就活は希望通りには、いかなかった。「幼稚園と小学校の先生の免許(2級)は取っていたので講師にはなれたのですが、教員採用試験がミスユニバース世界大会と全く同じ時期だったので受けることができませんでした」
運命はいたずらだ。ミスユニバース日本代表になると1年間は事務局に“拘束”される。首相表敬訪問から都道府県知事への挨拶回り、スポンサーのフィルムメーカーの依頼で撮影会のモデルを務めるなど全国を飛び回った。
写真家の大竹省二氏と出会ったのは撮影会だった。「『何か芸術に関わりたい』と大竹先生に話したところ、『写真も立派な芸術だよ』と言われてグラッと…。先生から写真の仕事がしたいのならすぐ来なさいと言われ、弟子入りしました」
「先生は礼儀に厳しく、苦労知らずの私は、『こんなこともわからないのか』とよく怒られました。先輩はみな写真専門学校などの出身で素人は私だけ。写真学校に行きたいと相談すると、やる気があれば、真っ白な布と同じで、何でも吸収することが出来る、学校へ行く必要はないと励ましてくれました」
1987年、結婚を機に独立を申し出ると認めてくれた。最初の仕事は、新潮社の『フォーカス』という当時、人気のあった写真週刊誌。「2年間くらいやって、報道写真の世界のきびしさを知りました」
「『女どけっ』と言われて三脚を蹴られたり、誰よりも先に行って真ん前を陣取っていたら、後ろから押されどかされたり…」。報道写真に嫌気がさしているとき、ご主人の仕事の関係でアメリカ・ボストンで暮らすことになった。
ボストンでの2年間は、写真を撮りながら、2歳のこどもを育てた。「子どもをおんぶしながら写真を撮っていました。冬の寒い日、写真を撮っていたら、日本人の親が変なことをしていると評判になって…。懐かしくも楽しい思い出です」。「BOSTON in the time」という最初の写真集を出した。
日本に帰国。風景や人物を撮りつづけ、週刊誌などのグラビアを担当したり、国内外で写真展を開催。そのかたわら、テレビ、雑誌、講演などメディアの世界でも活躍、多忙な日々を送った。大阪芸術大学に来たのは?
「NHK―BSの『キーパーソンズ』に出演、サッカーのペレら世界の著名人の写真を撮って出来上がった写真を見せてインタビューする番組。この番組を見ていた大阪芸大の理事長先生から『写真学科に女性の教員がいないので来てほしい』と誘われました」
大学へ通い出した当初は、講義は月に1回程度だった。「大学に通ううちに、将来のある若者を育てることにやりがいや素晴らしさを感じました。学生たちのこれからの将来を、誘導し、手助けできたらいいなあと…」
写真学科では、1、2年次に多様な写真表現について理論と技術を学ぶ。3、4年次に、芸術写真、報道写真、広告写真など興味ある専門分野について、高度な技術と知識の習得を目指す。
現在、3、4年生のゼミを担当。学生たちが撮影してきた写真を見て評価し、今後の方向性や心構えなどを指導する。「写真の撮り方はもちろんですが、常識だとか礼儀だとか、社会性を徐々に意識させることも大切にしています」
学科長として新機軸
学科長として新機軸を打ち出した。「今年から35ミリカメラで動画を撮る授業を行っています。映画は共同作業ですが、スチール写真は1人で写し、編集します。また、デジタル一辺倒ですが、フィルムで撮影し、アナログの価値を見直すことにも挑戦しています。新・古が両立する意義は絶対にあるんです」学生たちに言いたいことは?「これから人生の荒波にこぎ出すわけです。人とのつながりを大事にしてほしい。孤独にひたらず、人との出会いで導かれ、慰謝されることがあります。明るく、素直、嘘をつかない、人としての基本を身につければ、愛され、可愛がられる人になります、きっと」
織作さんにとって写真とは?「宿題のようなもの、ちゃんとできたときの爽快感は何ものにも代えがたい。それと、見た人に感動を与え、手元に置いておきたいと言われれば生きがいにもなります。でも、まだ自分が納得するところまでは到達していません。これからも、産みの苦しみを味わい、終わりのない挑戦が続くことになります」