特集・連載
高等教育の明日 われら大学人
<45>元日本TVアナウンサー淑徳大学人文学部教授に
松永二三男さん(62)
新しい酒は新しい革袋に盛れ。淑徳大学(足立 叡学長、千葉市中央区)は、2014年4月から、東京都板橋区の東京キャンパスに、新学部として人文学部(表現学科・歴史学科)を開設した。表現学科は、放送表現、編集表現、文芸表現の三つのコースに分かれている。教授陣にはテレビ局プロデューサー、元テレビ局アナウンサー、俳優ら各分野のプロフェッショナルが顔を揃える。日本テレビの元アナウンサーとして知られる松永二三男さんは、人文学部表現学科教授(放送表現コース)として学生を教えることになった。1970年代から30年間、日本テレビの第一線アナウンサーとして活躍。スポーツ、ニュース、バラエティ、ワイドショーとあらゆる分野の仕事をこなし、豊富な経験と人脈を築いてきた。大学という新しい世界、新しい学部学科に飛び込む松永さんに、取材した半生を織りまぜながら大学人としての抱負、学生への期待などを聞いた。
豊富な経験、人脈活かす
挑戦する気概持て アナウンサー育てたい
「新しい酒は…」とは、新しい思想や内容を表現するには、それに応じた新しい形式が必要だということである。淑徳大学の新学部学科の内容と教授陣の顔ぶれを見て、頭に浮かんだことわざである。
淑徳大学は1965年、社会福祉学部社会福祉学科の単学部単学科の大学として千葉市に開学した。教育理念として掲げた“together with him”の実践を通じての理想社会の建設と真実な人間の育成を目指している。
現在、総合福祉、コミュニティ政策、看護栄養、国際コミュニケーション、経営、教育、人文の7学部を擁する総合大学になった。千葉市、埼玉県三芳町・東京都板橋区に点在するキャンパスに約4800人の学生が学ぶ。
新学科の文芸表現コースは、「美しい表現力」を身につける文章のつくり方、感情を伝える表現方法などを学ぶ。編集表現コースは、新聞・雑誌など出版物の編集・制作を習得し、魅力的な誌面づくりに挑戦する。放送表現コースは、アナウンサーやナレーター、声優など「声のプロ」を目指す。
多彩な顔ぶれの教授陣、メディアの最先端で活躍する顔が並ぶ。松永さんのほか、テレビなどでお馴染みの北野大教授、福山純一郎准教授、客員教授には、テレビプロデューサーの石井ふく子、俳優の渡辺徹、(株)ヘッドライン代表の一木広治らがいる。
東京キャンパス(東京都板橋区)が学びのステージ。最新設備がそろった報道用スタジオや編集室などで学ぶことで、プロの現場を知り、即戦力を身につける。この東京キャンパスで、松永さんを取材した。
松永さんは、1951年、新潟県見附市に生まれた。どんな子どもだったのか。「スポーツ少年で、勉強はあまりせず、野球ばかりやっていた。買ったばかりのグローブを枕元において寝たほど、野球の練習が楽しくてしょうがなかった」
小、中学と野球少年
中学では野球部に入った。「1年生からレギュラーで、顧問の先生から『みんなをまとめてくれ』とキャッチャーをやりました」。1学年300人、全体で1000人を超えるマンモス校だった。3年生のとき、朝礼の司会を体験した。「集会部長になり、毎週月曜日の朝礼で“全員起立”といった掛け声を1000人の生徒を前に行いました。壮行会などの行事でも司会をやりました」
1967年、県立長岡高校に進む。野球部でなく陸上部に入部。「野球部は頭が五厘刈でカッコ悪いので、部室が隣にあった陸上部にしました。投げるのが得意だったので競技は槍投げ。夏休みに布団担いで行った合宿が忘れられない」
陸上部の練習は夕方六時まで、自宅へ帰ると8時過ぎに。楽しみは、ラジオの深夜放送を聴くことだった。午前1時から2時過ぎまで、オールナイトニッポンやセイヤング、パックインミュージックなどを聴いた。
「放送のなかで、視聴者のはがきを読むディスクジョッキーにあこがれました。DJが北海道の高校生のはがきを読めば、その情景が目に浮かんでくるんです」
アナウンサーという職業を意識したのも高校生時代だった。「高校3年の体育祭のとき、棒倒しや障害物競走の実況中継をやったんです。アナウンサーの真似事でしたが、楽しくて面白かった。自分に向いている仕事かな、と思いました」
高校の先輩に太平洋戦争の連合艦隊司令長官、山本五十六がいる。五十六が戦死した日(4月18日)の8年後に生まれた。「反戦争論を持ちながらも、時代の中で『常在戦場』の精神で日本を守るために真珠湾奇襲攻撃に全てをかけた生きざまは、より多くの人に理解してもらいたい」と語る。
70年、明治大学に進む。大学紛争の激しかった時代、大学はロックアウトされレポート提出で単位を取得した科目もあった。「迷わず、放送研究会に入りました。発声から、方言の矯正、放送ドラマの台本作りなど全てが新鮮でした」
3年次からジャーナリストの松岡英夫先生のゼミに入った。「新聞の歴史から勉強しました。週1回、作文の宿題があり、毎回書いて提出、添削して頂きました。4年の時、『資源』がテーマの作文で、先生から褒められ自信になりました」
就職活動は死の物狂いだった。「東京はもちろん、北海道から東海、関西のテレビやラジオ局を受けました。2次試験で落ちたりしましたが、日本テレビの試験がうまくいって幸運にも最後の5人に残り採用されました。放送研究会を4年、ゼミを2年間続けたのが評価されたようです」
74年、日本テレビに入社。入社当初はスポーツ中継を主に担当し『全日本プロレス中継』の実況、『独占!!スポーツ情報』の初代司会。『独占!』では松永自身の体当たりレポートが人気を呼んだ。
G馬場から熱い助言
全日本プロレスを中継した頃は、ジャイアント馬場が活躍した時代だった。「馬場さんから『君の実況中継は独りよがりのところがある』といわれたのがショックでしたが眼から鱗でした。実況は、聞いている人に向け、彼らを満足させることだと知りました」日本テレビでの30年間のアナウンサー人生を振り返った。「アナウンサーとしてスポーツ、ニュース、バラエティ、ワイドショーとあらゆる仕事をさせてもらった。海外勤務や事業局の業務も経験し、驚きや発見のある毎日で楽しかった。今のテレビには、この驚きや発見がなくなったような気がする」
2011年、60歳を迎え日本テレビを定年退職し、フリーとなった。12年からラジオ日本『松永二三男の夕ラジ』を担当した。「ラジオは音が見えてくる、音が想像力をかきたてるんです。見えるはずのテレビは本当に、視聴者の見たいものを見せているだろうか」
大学教授になったのは?「母校の明大で週1回、発声や放送レポートなどを教えていました。そこで、学生の手作り卒業式を計画、私は司会役の学生3人を特訓して、パフォーマンスで1人に絞り、彼女の司会で式は大成功。これを見ていた明大OBの北野大先生から『ああいうことを淑徳でやりたい』と誘われたのがきっかけです」
今の学生は、自分の頃と比べると?「今の学生は、守るべき自分をつくって何もしないで守ろうとしている。僕の頃は、様ざまなことに挑戦して、失敗して、這い上がってきた。失敗があるから発見もある。中途半端は一番ダメ。何事にも興味を持って、挑戦する気概を持ってほしい」
楽しく、面白い世界
大学でのこれから。「番組がどのようにして作られて行くのか。そこでアナウンサーはどんな役割を求められるのか。アナウンサーとして何を身につけていなければならないか。この世界は楽しく、面白い、これまでの自分の経験、情報、ネットワークを活かし、期待を裏切らないよう指導していきたい」こう付け加えた。「この世界は、徹底的に好きになることが大事、学生の好きの度合いを高めたい。縁があって放送表現コースで教えることになったんだから淑徳出身のアナウンサーを何としてもつくりたい」。その表情は、現役アナウンサーの顔になった。