加盟大学専用サイト

特集・連載

高等教育の明日 われら大学人

<69>なでしこジャパン前監督は十文字学園女子大学副学長
佐々木則夫さん(59)

「のりさん」は、スーツ姿がよく似合う。佐々木則夫さんといえば、なでしこジャパン(サッカー日本女子代表)を世界一に育てた名監督。2011年にドイツで開かれたFIFA女子ワールドカップで、男女を通じて日本初の優勝に導いた。「世界一は本当にビックリです。ちっちゃな娘たちがよくやってくれた」というコメントも忘れられない。高校、大学、社会人とサッカー選手として活躍。帝京高校で全国制覇、NTT関東(大宮アルディージャの前身)では、日本サッカーリーグ二部に昇格させた。2016年4月、十文字学園女子大学(志村二三夫学長、埼玉県新座市)副学長に就任した。同大学が目指す人材育成像に対する提言、学生への特別講義や集中講義、教職員に対する研修などを担当する。佐々木さんに、その半生と大学副学長としての抱負、今後などを聞いた。

自主練習、自己教育が大事
のりさん塾を開講 女性の活躍が日本の活力

1958年、山形県尾花沢市で生まれた。子どもの頃は?「豪雪地帯で、近くに銀山温泉があり、スイカの産地。秋の稲刈りのあと、田んぼで鬼ごっこしたり野山を駆け巡り、冬はスキー。サッカーのサの字も知りませんでした」
小学校1年生の時、父親の仕事の関係で東京へ転居、2年生になって、埼玉県蕨市に移った。「当時、野球が流行っていましたが、サッカーにのめり込みました。足が速く、スタミナもあったので周りから少しは評価されました」
5年生の時、川口市に引っ越す。川口芝中学校でサッカー部に入った。「運動会で鎖骨を折ったりケガばかりしていて、公式戦には出たことがありませんでした。その代り、中学3年の時、駅伝メンバーとして県大会に出場しました」
高校は、サッカーの名門、東京の帝京高校に進む。「全国大会出場を狙えるチームに行こうと思いました。1年生はボール磨きなどもやらされ帰宅するのは夜10時過ぎで、100人入部しましたが、3年まで残ったのは12人でした」
佐々木さんは、2年生からレギュラーとなった。3年生でキャプテンとなり、インターハイで優勝、国体、全国高校サッカーで、それぞれ3位になった。「日本の高校選抜代表に選ばれ、中国に遠征しました」
明治大学に進学。「元日本代表の木村和司が同期で、1年からレギュラーになりましたが、練習は土日に監督、コーチが来る以外は自主的な練習でした。勉強の成績が悪いとチェックされるので、赤点を取らないよう、それなりに勉強はしました」
卒業後の就職では悩んだ。「日本代表を狙うか、サッカーの指導者になるか、で煩悶しました。結局、日本代表になるという夢は捨て、仕事もサッカーもできる職場として当時の日本電信電話公社(NTT関東)に入社しました」
「当時の電々関東は、地域リーグに所属していました。仕事をやってからサッカーの練習という生活でしたが、全国地域リーグ決勝大会で優勝、同サッカー部を日本サッカーリーグ2部に昇格させることが出来ました」
33歳の時、現役を引退した。「アマチュアのサッカー選手として10年間過ごした。あの当時では、長くやったほうかもしれません」。当時、NTT関東では、プロ化が論議されていた。 「私は、プロ化すべきだと上司に訴え、コーチになるS級ライセンスを取りました」。1998年に大宮アルディ―ジャの監督を務め、99年以降は同チームの強化普及部長やユース監督を歴任。2006年、「なでしこ」のコーチになった。
「女子サッカーに自分が適しているか、を考えました。これまでコーチ監督をやったチームは男子で、協調性はあるがフィジカルの弱いチームだった。この経験を活かせるか、と考えた。日本の女性の特徴である協調性、集中力に加えスタミナをつけ、攻撃、守備を連動したサッカーをやればいい、と思いました」
2008年から、「なでしこジャパン」監督に就任した。監督としての初戦となった東アジアサッカー選手権2008(中国・重慶)では、三戦全勝で日本女子代表に初タイトルをもたらした。北京五輪(2008年)では4位という結果を残した。
「それまでは、選手が試合で出せる力を5とすると、我々監督コーチがボール回しなど基礎部分の4つを指導した。北京五輪以降は、我々の指導が2で、あとの3は選手が工夫してやれるようになり、後輩の指導もできるようになった」
2011年のドイツで開催のFIFA女子ワールドカップで優勝。「選手は大会中も成長した。ファイナルで勝つという目標を掲げた。苦しかったが、耐えに耐えて、目標を達成した。選手、スタッフが『(やれば)できる』という心がないと成し得なかった」。「なでしこ」ブームが起きた。
この年、アジアサッカー連盟(AFC)から、日本女子代表監督としては初となるAFC最優秀監督賞を受賞。2012年には、2011年度のFIFA年間表彰式でアジア人として初のFIFA女子世界年間最優秀監督賞を受賞した。
その後、2012年のロンドン五輪で、銀メダルを獲得。2014年のベトナムで開催のAFC女子アジアカップで優勝。2015年、カナダで開催のFIFA女子ワールドカップではアメリカに敗れて連覇を果たせなかった。
2016年、リオデジャネイロ五輪アジア最終予選で3位に終わり、出場権獲得を逃したため、代表監督を退任。同年4月、十文字学園女子大学副学長に就任した。
就任会見では「実際にサッカーの指導者と学校の先生であっても指導という意味では大きくは変わらないと思う。教師というのは常に学びを忘れてはいけない。自分も学び、今までのものだけじゃなく、先を見てベースをプラスαして伝えられるかだと思う。私らしくアプローチしていきたい」と語った。
いまの心境は?「うちの学生は、よく勉強しています。社会の環境は、まだ女性には厳しいところがあります。それに打ち勝って社会で活躍する人材を育てたい。女性の活躍が日本を成長させると思っています。そのためにも、これまでの経験を活かしていきたい。教えることも勉強になると考えています」
「のりさん塾」という社会貢献体験型オープンゼミナールを開催したり、地域の子どもたちを対象にしたサッカースクールの指導をしたりと、とても忙しい。十文字学園は、中学、高校、大学ともサッカー部は強豪。アドバイザーとして指導にも携わっている。
十文字学園の高校サッカー部は、今年の全日本高校女子サッカー選手権で優勝した。同学園では、大学の上にトップチームの「FC十文字ベントス」をつくる一助となり、女子サッカーの発展普及に貢献したいという思いもあるという。
「現在は、大学生と高校生、そして社会人が主体の混成チームですが、卒業生が戻ってきてもいいし、なでしこリーグの選手が社会人入試で"学び直し"で加入することも歓迎です。FC十文字ベントスでプレーしながら十文字学園女子大で幼児教育や児童教育、栄養学、福祉などを勉強して資格を取ることもできます」
ボランティア活動にも取り組む。郷里でもある山形で、毎年、関東の子どもたちを連れてサマーキャンプを行なっている。「夏休みに3泊4日で、小学5、6年生の男女が参加。都会の子供と山形の子供が一緒にサッカーや沢下りなどを通して交流する山村キャンプ。子どもらの笑顔を見るのが楽しい」
学生に言いたいことは?「学生は、自分がやったことの評価をすぐ聞きたがります。そうでなく、自分で疑問点などを察知して取り組むべきです。サッカー選手も一般学生も、監督や先生から教育を受けるということでは共通しています。事を成すにあたっては、自分で判断することを忘れないでほしい。自主練習、自己教育ということが大事になります」
これからについて。「女性は、家庭に入れば夫や子どもにいい指導をするのが重要ですが、女性の立場が高まったいま、日本の針路に対しても毅然と自分の考えを主張することが求められます。4年間の学生生活で、自己教育を行い自己判断できる力を身に付け社会に巣立ってほしい」
自身のことでなく、学生のこれからを心配していた。選手思いだったのりさんは、学生思いの大学人なのだ。

ささき のりお 

1958年5月、山形県尾花沢市に生まれる。サッカー指導者として、前なでしこジャパン(サッカー日本女子代表)監督。2011年FIFA女子W杯ドイツ大会優勝監督。2011年度FIFA女子世界年間最優秀監督賞を受賞。父親の仕事の関係で小中学校は山形、東京、埼玉と転校を繰り返す。
サッカー選手として帝京高校、明治大学でプレー。明大卒業後、NTT関東(大宮アルディージャの前身)に入る。現役時代のポジションはMF、DF。2016年4月から十文字学園女子大学副学長。サッカー評論家のほか、大宮アルディージャのトータルアドバイザーも務める。