特集・連載
高等教育の明日 われら大学人
<44>たぐいまれなアーティスト
大阪音楽大学教授の半生 青柳いづみこさん
天は二物を与えた、いうことなのか。青柳いづみこ・大阪音楽大学(武藤好男学長、大阪府豊中市)教授は、ピアニストであり、文筆家である。二つとも、その世界で高く評価されている。ドビュッシー研究家としても知られる。東京芸術大学大学院修士課程修了後、フランス国立マルセイユ音楽院を首席卒業。1980年のデビュー・リサイタルは新聞で絶賛された。ピアノは、安川加壽子とピエール・バルビゼに師事。これまでリリースした9枚のCDが「レコード芸術」誌で特選盤となった。文筆では、恩師の安川加壽子の評伝「翼のはえた指」で吉田秀和賞、祖父の評伝「青柳瑞穂の生涯」で日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど、著書は洛陽の紙価を高らしめた。ピアノ演奏と文筆で活躍する傍ら、大阪音楽大学教授として後輩を育てている。たぐいまれなアーティストである青柳さんの歩みと現在(いま)、今後を尋ねた。
ピアノと文筆、華麗に“合奏”
音大生を思いやる 音楽通じて社会貢献を
東京都杉並区阿佐ヶ谷に生まれた。祖父は仏文学者、詩人の青柳瑞穂。瑞穂は、中央線沿線に住む文士たちの集い「阿佐ヶ谷会」のまとめ役で、井伏鱒二、太宰治らが瑞穂の自宅に集ったという。
祖父は著名な仏文学者
瑞穂は、山梨県生まれ、生家は富裕な地主の家系。幼い頃から書画や骨董が所蔵された蔵で遊び、骨董に対する審美眼を養った。骨董品収集家としても知られ、古道具屋で見つけた尾形光琳筆の肖像画は国の重要文化財に指定された。
青柳さんは阿佐ヶ谷文士村と呼ばれた豊かな芸術環境のなかで育った。いづみこという名前は?「本名はいづみで祖父が命名しました。父が、女の子は『こ』がつかないとなあ、といって『いづみこ』と呼ばれるようになりました」
4歳の時からピアノを習った。「東京女子大に勤めていた両親は、大学の合唱団に入っていました。そこでは、子どもたちにピアノやモダンダンスを教えていました。私は、どっちも楽しくやっていました」
6歳から、指揮者の小澤征爾、ピアノの中村紘子らを輩出した桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室に通い出した。「小学校は区立でしたが、ピアノのレッスンが忙しくて3年生からは国立付属に変わりました」
高校は、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校のピアノ科に進んだ。「1学年1クラスで、全国から来ていました。下宿の生徒が多いなか私は親元から通学、下宿した子の外食がうらやましくて、お弁当を隠して外食したのが忘れられません。大人になる前の冒険だったかもしれません」
東京芸術大学音楽学部に進む。附属だがエスカレーターでなく試験があった。「1年の後半から、留学した先輩の部屋が空いたのでピアノ付きの部屋に下宿しました。ピアノの稽古は懸命にしましたが、下宿の仲間とご飯をつくったり、銭湯に行ったことが楽しい思い出です」
同大大学院(修士課程)で学んだあと、フランス国立マルセイユ音楽院に留学した。「パリ音楽院に行く予定でしたが、21歳という年齢制限にひっかかり、指導教官の紹介でマルセイユに行きました。4年間みっちり学びましたが、気候の良い南仏の料理やワインも堪能しました」
1980年に帰国、東京で初のリサイタルを開く。毎日新聞紙上で絶賛された。83年、東京芸術大学大学院博士課程に再入学。89年、論文「ドビュッシーと世紀末の美学」で芸術学博士に。フランス音楽の分野で初の学術博士号。
ドビュッシーに魅せられた。「19世紀から20世紀にかけてのフランスの作曲家で、詩人との付き合いがあり、彼らとコラボしていました。そこから研究に入ったのですが、祖父が仏文学者だったことも影響しているかもしれません」
ところで、文筆のほうはいつから?「小さいときから文章を書くのが好きで、中学の時、童話を書きはじめ、大学の時も続けていました。エッセイは、母方の祖母の個人雑誌に書いたのが編集者の目に留まって、『筋がいいので書き続けなさい』といわれて…」
吉田秀和賞、日本エッセイストクラブ賞、講談社エッセイ賞といった芸術評論やエッセイの賞を総なめにした。書評も人気だ。リサイタルや大学での学生へのレッスンなど忙しいなか、いつ文章を書いているのか。
「文章を書くのが好きだし、早いんです。少しの時間さえあれば、ペンを持っています」。最新刊は、昨年9月刊行の「アンリ・バルダ 神秘のピアニスト」(白水社)。「自著を語る」(東京新聞、2013年10月8日)で書評にしている。書き出しから引き込まれる。
〈父方の祖父に当たる青柳瑞穂はフランス文学の翻訳をなりわいとしていたが、世間にはむしろ骨董(こっとう)の掘り出し名人として知られた。町の骨董屋で掘り出した尾形光琳唯一の肖像画は、のちに国の重要文化財となった。
その血を受け継いだか、私も演奏家の掘り出しが好きだ。フランス系ユダヤ人ピアニスト、アンリ・バルダの演奏に魅せられたのは…〉
演奏活動も活発だ。近年を見ても、2012年2月、テレビ朝日『題名のない音楽会』に出演。9月、ドビュッシー生誕150年記念連続コンサート「ドビュッシーと文学キャバレ『黒猫』の仲間たち」を浜離宮朝日ホールで開催。
作年五月には、ラ・フォルジュルネ音楽祭に出演。9月には、クリストフ・ジョヴァニネッティとのデュオ・アルバム『ミンストレル』のリリースを記念して、東京で2夜連続コンサートを開催した。
文筆のほうも忙しい。1月には、中公文庫から『我が偏愛のピアニスト』を刊行。5月には、文芸誌『すばる』や『文学界』、美術誌『芸術新潮』などに発表してきた音楽祭やコンサートのレポートをまとめた本を刊行する。
学生にピアノレッスン
現在、大阪音楽大学では、演奏家特別コースなどで学生にピアノのレッスンを行っている。青柳さんの学生時代と今の音楽大学の学生の違いについて聞いた。「私の頃は、まだ世界に追い付け、追い越せという右肩上がりの時代で、国際的ピアニストになるんだ、というような根拠のない夢を、みんなが持っていた。今の学生はGNPなどにみられる日本の立ち位置もあり、夢を持ちにくくなって可哀そうな気がする。私の頃は高校生から留学して国際コンクールに出るのが一番のエリートでしたが、今は修士を終えてから留学している。スタートが遅くなるし、留学期間も2年では短い」
今の学生は、留学から研鑽を積んで帰国しても受け皿がないと憂える。「かつては、留学はステータスで、日本に帰れば『帰国リサイタル』を開いたものです。いまは、開いたとしても観客が集まらない。かつての図式は崩れてしまった」
ご自身のこれから。「(演奏や文筆など)いままで、やってきたことを続けていきたい。2年から3年先まで予定が入っているので、それをこなすだけ」と短く語った。そして、音楽大学の学生のこれからを思いやった。
「現在(いま)、音楽をやる人が増えて、その中から抜きん出ていくのが難しくなった。演奏活動をつづけるのも至難の業で、音大出ても弾かない子が多い。音楽に貴賎はありません。音楽を通じて社会に関わりを持ったらどうでしょうか」
具体的には?「子ども相手に弾いたり、音楽でお年寄りを喜ばせたり、クラシックに限らず、いろんなジャンルに挑戦したり、どんな形でもいいから音楽を通じて社会に貢献してほしい」
こう優しく話す青柳さんは、学生の将来を心配する先生の顔になった。演奏家、文筆家ではない、もうひとつの顔をのぞかせた。