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高等教育の明日 われら大学人

<37>「讃岐うどん」ブームの仕掛人は四国学院大で情報加工学を講義
 田尾和俊さん(57)

  香川県は「うどん県」を名乗っている。田尾和俊さんは、地元のタウン情報誌の編集者として、「讃岐うどん」ブームを仕掛けた。現在、四国学院大学(末吉高明学長、香川県善通寺市)教授として、「マーケティング論」「発想力開発論」などを教える。かつての讃岐うどんブームについて、「すべて私の手柄のように言われるのは違います。自分たちは狭いところで面白がっていたに過ぎません。魅力のあるうどん屋さんの存在や全国ネットメディアなど、多くの人たちのおかげです」。あくまで謙虚なのだ。自分の生い立ちを語る時もそうだった。現在(いま)、大学教授として、「ほかの大学の学生には負けない発想力開発の手法を身につけさせて、社会に出た時に『使える』といわれるような人材を育てたい」、「観光振興などの個人的な研究活動も積極的に行い、そのノウハウを地元に還元していきたい」と抱負を語る。すっかり、大学人になりきっている。

発想力開発を自分のものに
柔軟で謙虚な新タイプの教授 ノウハウを地元に還元

 田尾さんを取材して、地元香川県が生んだ大物政治家と重なった。風貌はともかく「牛」のつくニックネームもかぶさる。朴訥とした語り口、柔軟な考え方、何よりも謙虚…これらが似ているのだ。政治家の名は最後に明かす。
 1956年、香川県三豊郡詫間町(現:三豊市)に生まれる。中学校から軟式テニスをやっていた。地元の県立観音寺一高に進む。「高校でも、軟式テニスを続けました。3年の時、インターハイに出場したのですが、3回戦で負けました。勉強?あまりしなかったですね」
 関西学院大学に進学。「第1志望で神戸大学を受験したのですが、受験2日目に旅館で寝過ごして遅刻。当然、落ちました。私立では立命館と関学に合格。授業料が安かった関学に進みました」
 学生生活。「軟式テニスは部活ではなく市民クラブのようなところで少しやっていました。アルバイトに一生懸命で、授業料や生活費はバイトで稼ぎました」
 どんなアルバイトを?「スポーツ紙で働きました。最初は、深夜の新聞の発送・仕分け作業、日当はよかった。2年生になると、ギャンブルを担当する特報部で,編集の手伝い。昼間の仕事だったので大学へはほとんど通わなくなりました」
 就職。「スポーツ紙からは来ないかと誘われました。でも、両親がいて長男だったので、地元に戻って就職しようと思っていました。4年の夏休みに帰郷、友だちが広告代理店を受けるというので、一緒に受けたら、僕だけ合格しました」
 内定後が大変だった。「アルバイト漬けがたたって卒業の単位が足りなかった。内定が出て“卒業できなくても入社できますか?”と聞いてばかりいました。4年間であれほど勉強したことはないくらいにやって、何とか卒業しました」
 1978年、広告代理店「セーラー広告社」に入社。4年間、営業でスポンサー回りをした後、タウン誌発刊部門として発足した「ホットカプセル」に出向。「当時、グルメやイベント案内の雑誌『ぴあ』が人気で、全国各地にタウン誌が雨後の竹の子のように生まれました」
 82年、タウン情報誌「月刊タウン情報かがわ」編集長に就任。「最初の3年間は赤字で、4年目から単年度黒字になり7年目に累積赤字を消しました」。社員も4人でスタートしたが、2001年には40人を超える会社へと成長させた。
 讃岐うどんブームは、89年から始めたうどん店探訪記「ゲリラうどん通ごっこ」がきっかけだった。「この連載で、『中北』といううどん店に行ったのがすべての始まりでした」と続けた。
 「偶然には発見できないような場所にあり、納屋みたいなところでうどんを食べさせていました。もともとは卸し用の麺をつくる製麺所。近所の人たちが集って食べていました。できたてのうどんが香ばしくて非常においしかった」
 “製麺所型うどん店”と名付けた。93年に単行本『恐るべきさぬきうどん』を刊行、ベストセラーになった。“製麺所型うどん店”は、テレビや雑誌などにも取り上げられ、県内はもとより全国から大勢の人が押しかけた。
 なぜ、讃岐うどんがブームに?「うどんは、オヤジの食い物、ダサイといわれていた。ターゲットを県内の若者にしぼり、『中北』体験から、怪しい、面白い、楽しい、をコンセプトに、うどんをグルメでなくレジャーとして取り上げたのが受けたのだと思います」
 ブームを振り返って。「うれしかった。それまでは15万人ほどの香川県の若者を対象にしていたのが、全国の老若男女まで動かせました。ブームは終わったと言う人がいますが、人気店の来客は増加しているし、一人で一日に何軒も回るというディープな客も増えています」
 03年、四国学院大学教授に転身。「四国学院大学の元学長先生が声をかけてくださいました。カルチュラル・マネジメント学科という新学科設置を文部科学省に申請する直前で、学外から教授を登用する計画があって誘われました」
 現在、社会学部で自ら命名した「情報加工学」を講義している。情報加工学とは?「情報は収集―整理―発信というのが一般的ですが、私は、収集―編集―発信と定義しました。人を動かすには情報をどのように伝えるかが肝要です。
 ひとつの情報を、より面白く、興味があるようにして人を動かすには、情報の整理でなく、編集、つまり情報の加工が必要なのです。讃岐うどんがブームとなったのは、店を紹介するのに定番の写真、地図をやめて、文章のみにするなど情報を加工したからです」

フィールド調査で力作

 授業では、年に2回、フリーマガジンを発行している。「企画、編集、デザイン、印刷、発行までを全員でやります。企画の段階で、読者が面白がるかどうか?というプロ目線でレベルをクリアしないとボツにします」
 この企画では、県内に餡の入った餅を使った雑煮がどれだけ普及しているかをフィールド調査した「餡餅雑煮の分布」、地元ゆかりの空海の顔を100以上もの寺院を回って撮った写真を集めた「空海の顔」といった力作を生んだ。
 学生には、講義の感想を書かせている。「社長業をやっていたとき、もっと面白い、楽しい、充実感がある仕事とはないものかと考え続けました。学生にも、そのように考え、常に何かもっと面白くなるはずだ、と考えろ、と言っています。学生からの面白い提案は、次年度の講義の材料にしています」
 今の学生について。「自分は、学生時代、あまり授業に出なかったので、偉そうなことは言えませんが…」と前置きして続けた。
 「80から90年代、編集長、社長業をしていたとき、毎年社員採用に立ち会っていました。当時の学生は、就職するという事は、自分が誰かに商品やサービスを提供して喜んでもらうこと、というのが何となくわかっていました。つまり、店のカウンターの内側の意識が少しあったように思います。

カウンターの内側へ

 今の学生の就職観は、カウンターの外側にいて、客と同じようにサービスを受けるという感覚です。客に商品やサービスを提供するということに、ついていけない感じなのです。だから講義では、何かを覚えるのでなく、サービスを提供する側のメンタリティーを感じ取ってほしいと話しています」
 講義は、タウン情報誌の編集長、社長としての経験、讃岐うどんブームの仕掛け人として培ったノウハウが生きている。それらを、自慢することなく淡々と語る。学生と同じ目線の新しいタイプの大学教授に映った。
 冒頭の政治家は、大平正芳元首相。「鈍牛」という愛称があったが、田尾さんも地元紙に「和牛」というペンネームで寄稿した。大平元首相の生涯を描いた近著「茜色の空」(辻井喬著、文春文庫)の解説では、大平元首相を、こう表現している。「愛すべき偉大な凡人」

 

たお・かずとし

 1956年、香川県生まれ。香川県立観音寺第一高校に学ぶ。関西学院大学経済学部を卒業後、広告代理店に入社。82年、香川県内のタウン情報誌『タウン情報かがわ』初代編集長に就任。89年から、同誌に探訪記「ゲリラうどん通ごっこ」の連載を開始。「讃岐うどんブーム」の発端となった。94年、タウン情報誌の社長に就任。99年には讃岐うどんブームが日本全国に広がったことが認められて「高松市文化奨励賞」を受賞。03年、四国学院大学に教授として招聘される。近著に『超・麺通団 団長の事件簿』(西日本出版社)