加盟大学専用サイト

特集・連載

高等教育の明日 われら大学人

<33>元バレーボールの名選手は嘉悦大学准教授・監督
 ヨーコ・ゼッターランドさん

 身体だけでなく人間としてスケールの大きな人だ。ヨーコ・ゼッターランドさんは、4月から嘉悦大学(赤澤正人学長、東京都小平市)准教授兼女子バレーボール部監督に就任。米国生まれで六歳の時、日本に来た。中学、高校とバレーボールの全国大会で活躍。早稲田大学に進学。関東大学リーグ6部の早大女子バレーボール部を、4年間で2部に引き上げて優勝。「私は、強い部にしたいと意地になり、何度もみんなと衝突。でも、みんな大人で一歩引いてくれた。価値観の違う人たちに触れることができ、あとになってわかったことがいっぱいある。早稲田に学んでよかった」のセリフが泣かす。その後、バルセロナ五輪米国代表として銅メダルを獲得。引退後は、スポーツキャスターなどで幅広く活躍。「指導者として、また教育者としての新たなスタートに身が引き締まる思い」と語るヨーコさん。生い立ちからバレーボール人生、大学人としての抱負、問題になった体罰などについて聞いた。

「自主性」持って歩もう
体罰は言語道断  ガッツある学生育てたい

 米国カリフォルニア州サンフランシスコで、スウェーデン人の父と日本人の母の間に生まれる。赤ちゃんの時から大きかった。「1歳のとき、父の故国へ帰る際、機内で赤ちゃん用の籠に入り切れず、体を折りたたんでいたそうです」と笑った。
 子どもの時から、水泳、フィギュアスケート、馬術…体を動かすことは何でもやった。「一番好きだったのはフィギュアスケート、あのキラキラとした衣装やスピード感に魅せられました」
 1975年、6歳の時、母親とともに日本に移住。東京都中央区立京華小学校に入学。「入学した時、米国の幼稚園で日系人や海外駐在員の子どもらと一緒でしたから日本語を聞くのはわかりました。でも、口から出るのは英語なのでみんなにからかわれました」
 友だちとの会話は3カ月でできるようになった。バレーボールとの出会い。「母が、かつてバレーの選手で、昔の仲間とやっていたバレーの練習についていきました。小学5年になってスパイクやサーブなどを覚えると楽しくなりました」
 バレーの強豪、文京区立第十中学校に入学、本格的にバレーを始める。1983年の全日本中学選手権で優勝、ベスト6に選ばれた。「バレーボールでオリンピックに出たいと思っていたのでバレーの強い高校でやろうと思っていました」
 進学したのは、かつては名門だったが弱くなっていた私立中村高校(東京都江東区)。「母が中村高校OGで、当時バレーのコーチをしていました。高校進学では母と何度も議論、母の『力があればどこでも通じる。自分の力を中村で試してみたら』という言葉にほだされました」
 高校時代は、全東京メンバーとして国体優勝、中村高校では春高バレー、インターハイで3位入賞。高校卒業時には、複数の強豪実業団チームから誘われた。早稲田大学進学に悩みはなかったのか。
 「いろんな人の話を聞きました。多くの人は、オリンピックに出るには実業団がいい、といいました。でも、これから世界に出ていこうという選手はいろんな価値観を知り、いろんな人を知って、自分の視野を広げるのが大事という友の助言が背中を押しました」
 ヨーコの夢は、ずっと、全日本代表としてのオリンピック出場だった。早大卒業後は、実業団入りをめざした。しかし、当時バレー界は、五輪選手になるには、高校卒業と同時に実業団入りするという「進路至上主義」が支配、大学チームから実業団に入る道は閉ざされていた。
 そこで、ヨーコは米国籍を選択する道を選ぶ。大学卒業直前の91年2月、単身渡米、米国ナショナルチームのトライアウトに合格。卒業後はフジテレビに入社するものの4月に再渡米、ナショナルチームでの活動を本格的に始めた。
 「年間200万円の生活保障はありました。米国の代表選手には企業が雇用して援助する制度があり、仕事をしながらの選手もいました。でも、渡米当時の私には練習以外に仕事をする体力はありませんでした」
 「代表チームでは、当然ながらミーティングなど全て英語。当初は、一言も聞きもらすまいと必死で緊張し通しでした。でも、開き直ってから緊張もなくなりモチベーションも上がりました」。92年のバルセロナ五輪で銅メダルを獲得。「気が付いたら表彰台に上がっていた、という感じでした」
 続く96年のアトランタ五輪にも出場、米国ナショナルチームで7年間活躍。96年に帰国して東芝シーガルズやダイエー・オレンジアタッカーズなどでプレー。99年5月に現役を引退した。
 「体力的にも技術的にも、あと数年は、やれば出来ると思っていました。しかし、所属していたVリーグが女子選手に限って外国籍選手排除の方針を決めたこともあり、いまがやめるタイミングと引退を決断しました」
 引退後は、スポーツコメンテーターとしてテレビ、ラジオに出演、講演、解説、エッセー執筆など幅広く活動。09年から、鹿屋体育大学大学院体育学研究科に入学。同大東京サテライトキャンパスで2年間学び、11年に修士課程を修了。12年から、母校である中村高校で小中学生を対象に「ヨーコ・ゼッターランドバレーボールクラブ」を開設。
 嘉悦大学に教員、指導者としてきた今の気持。「大学進学の際も、嘉悦さんから、お声をかけていただきました。選手としては縁がありませんでしたが、4半世紀たって教員・監督として来ることになったことに不思議な縁を感じています」
 「私の学生時代と比べ、世の中も変わってきたせいもありますが、いまの学生(選手)は、与えられることが当たり前、慣れてきている、という側面があります。自分からガツガツつかみにいくような学生(選手)を育てたい」
 大阪の市立高校や女子柔道界で問題になった体罰について聞いた。「どんな形でも人に対して肉体的苦痛を与えるのは言語道断。体罰には断固反対ですが、これをカテゴライズするのは非常に難しい」と自らの体験をもとに話した。

体で教えることも大事

 「子どものとき、親からお尻を叩かれたことがあります。してはいけないことを注意され3度目に叩かれました。子どもは大人をよく見ています。子どもに対しては、ここまでやったら駄目、ということを体で教えることも大事だと思います」
 女子柔道での体罰。「殴って強くなれる、メダルを獲れるという(論理がある)のは残念です。スポーツの現場を見てきた一人として、感情にまかせて指導する人はいました。選手に言いたいのは、殴られなくてもできる自主性があることを示すことが大事だと思う」

伝統継承、選手と共に

 嘉悦大学バレーボール部を、どう指導するのか?「良き伝統を大切に継承し、選手達とともに新しい形を創出したい。バレーボールというスポーツを通じてアスリートとしてだけでなく、日本社会を構成する一員としても『ロールモデル』となる人づくり、チームづくりを行っていきたい」
 こう付け加えた。「指導者から言われたことをまず忠実にやるのも大事。でも、一定のレベルに達しているのだから、何のための練習か、練習をするのとしないのとは、こんなに違うのかを知ること。何より、自分の意思で、ここにいるんだ,という自覚を持ってほしい。私自身も、そんな思いを持って指導していきたい」
 ヨーコは、「自主性」という言葉を繰り返し何度も語った。自らの意思で歩んできたバレーボール人生とその後の道程に間違いはなかった。そんな自分の歩みと重ね合わせているかのようだった。

 

ヨーコ・ゼッターランド(Yoko Karin Zetterlund。日本名、堀江陽子(ほりえ ようこ))

 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒、鹿屋体育大学大学院体育学研究科修士課程修了。身長一七九。バレーボール歴は、文京十中↓中村高校↓早稲田大学↓米国ナショナルチーム(一九九一―九六年)↓東芝シーガルズ(九六―九七年)↓ダイエー・オレンジアタッカーズ(九七―九九年)。日本体育協会理事、日本バスケットボールリーグ(JBL)理事、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事などを歴任。