特集・連載
高等教育の明日 われら大学人
<32>元NHKの特ダネ記者は
いま東京都市大学教授 小俣一平さん(61)
「NHKにその人あり」と言われた。名うての事件記者だった。東京都市大学(中村英夫学長、世田谷区玉堤)環境情報学部教授の小俣一平さんは、NHK社会部時代、東京地検特捜部や裁判所を担当して特ダネを連発、他社の記者に恐れられた。同時代に同じ社会部記者として面識を得たが、担当が異なったため、こっちは向う傷を負わずに済んだ。大人(たいじん)を漂わせる風貌、弾む会話、楽しい酒…そんな記憶しかない。ペンネーム「坂上遼」として多くのノンフィクションをものにしている。いま、事件の現場を離れて、大学の教壇に立つ。現在(いま)のメディアに対しては「記者と取材対象の緊張関係が希薄になった。調査報道の実践がジャーナリズムを活性化させる」と語り、いまの学生には「本を読まなくなった。嫌でも本を読ませる講義をやっています」と温和な顔から厳しい言葉が飛び出す。生い立ちから、NHK時代のこと、大学教授のいま、そして今後について「一平ちゃん」に尋ねた。
本や新聞を読ませる講義
作家、出版と大忙がし 自らの体験、授業に反映
昔から、こうなのだ。取材で研究室を訪れたら、「久しぶりですねえ」とびっきりの笑顔で迎えてくれた。特ダネ記者というと、鋭利で冷たいイメージが付きまとうが、それがない。どこか、日本の古里の匂いのする人だ。
小俣さんの故郷は、大分県杵築市。大分県の北東部に位置し、九州豊後路の小京都といわれる。松平3万2000石の城下町で、今も三層の天守閣がそびえ勘定場の坂や北台武家屋敷、藩校の門などがあり、昔ながらの土塀が残る。
どんな子どもでしたか?「我が家の風習で、1歳の誕生日に数メートル離れた場所に様ざまなものを置いて、最初に握ったものが将来の職業という占いがあって、私は『盃とえんぴつ』をとったそうです。父が『一平は、将来新聞記者か作家になるだろう』と大層喜んだそうです」
父親は、元新聞記者で、地元の大学で財政学を教える傍ら、労働運動の理論的指導者。地元局で社会時評の番組をもっていた。「父親の話を聞こうと、自宅にしょっちゅう、新聞記者が来ていた。記者の生態は子ども心にわかっていた」
中学、高校と新聞部長。大分県立杵築高校で学ぶ。卒業生には、外交官・元外務大臣の重光葵、海軍大将・連合艦隊司令長官の豊田副武、共産党の指導者の佐野学がいる。70年安保を前に、東大紛争など学生の反乱が全国各地で起きた。
杵築高校にも、その波は押し寄せた。「米空母エンタプライズの反対闘争で佐世保まで行きました。学内では長髪を認めよと立ち上がりました。校長室占拠の戦術を立てたところ、学校側が折れて長髪を認めました」
高校卒業。大学にも予備校にも行かず、ぶらぶらしていた。「19歳の冬、父親から『そろそろ大学へ行ったらどうだ』と言われ、急遽勉強して受かったのが東京経済大学でした」
2年遅れで入った大学は、学生運動も急激に沈静化していた。「政治少年だった私はどうして日々を過ごせばいいのか悶々(もんもん)としていました」。そんな折り偶然、手にした本が、「自分を変えるきっかけになった」
『太平天国』(増井経夫著・岩波新書)。「地上の楽園をめざした彼らの活動をもっと知りたいと東洋史の泰斗とも知らずに著者の増井先生に会いに行きました。すると先生は、『私よりも、この人が良いでしょう』と東大の小島晋治先生の名前をあげられました」
翌年春から毎週月曜と金曜、東大教養学部のある駒場に通った。「いわゆるテンプラ学生でした。おおらかな時代で、小島先生は、ゼミにも入れてくれて、大学院に行かないかと誘ってまでくれました」。御好意は、「僕は新聞記者になりたいんです」と言って断った。
大学卒業にあたって、全国紙とNHKを受験。1976年、NHKに入局。初任地の鹿児島局で特ダネを重ね、社会部に引き上げられた。司法キャップ、社会部担当部長、NHKスペシャル・エグゼクティブ・プロデューサーなどを務めた。
特捜事件に強い記者
特捜事件に強い記者だった。NHKスペシャルで、山口組の実態に迫った「企業舎弟―闇の暴力」や、東京地検に初めてTVカメラが入ったETV特集「東京地検特捜部~利権あるところ犯罪あり」などテレビ史に残る番組も手掛けた。意外だった。どの特ダネが印象に残っているかの問いに「抜いた話(特ダネを取った話)は普通しないものです」。「警察や検察は好きではないんです。昔、石を投げていたし、ガス弾を撃たれたこともあった。社会部では、ほんとは文化、教育問題をやりたかった」
NHK勤務の末期には、NHKの「政変」に巻き込まれた。「放送文化研究所に自分から希望して行きました。社会部とは違う、知的好奇心を満足させる環境と仲間が少なからずいて、とても愉しかった。早稲田の大学院で学ぶこともできたし」
早大大学院の修士論文は、「公共放送再構築論」。博士論文では、担当教授の勧めもあって「調査報道論」に。調査報道を社会史的な側面や、新聞・テレビの現役記者へのアンケート、リクルート事件など過去の事例、研究などから立体的に浮かび上がらせ、学位を取った。
東京都市大学には?「NHKの同僚から都市大で教員を公募している話を聞き、急遽応募しました。書いた論文や書籍の提出、面接、口頭試問、公開模擬授業、そして再度面接と続いたうえ、博士論文の提出時期と重なり、精神的にも追い込まれて胃潰瘍に。自分にもそんなナイーブなところがあるんだと驚きました」
環境情報学部のキャンパスは、横浜市都筑区の港北ニュータウンの一角、閑静な住宅地にある。今の学生はどうですか?
「素朴で素直な学生が多い。どこの学生も同じでしょうが、本当に本や新聞を読みませんね。無理に課題にしないと教科書すら買いません。そこで、徹底的にレポートを書かせたり、コラムの筆写をさせたりしてます。そうすると、嫌でも本や新聞を読まなければなりません。レポートは全て添削して返却しています」
毎年、自主ゼミを開く
毎年、マスコミに関心がある学生のための「自主ゼミ」を開いている。「作文の添削、時事問題の解説、テキストの輪読をするのですが、長続きしない。最後まで続けるのはゼロに近い。課題の作文が負担になるらしい」今年度から環境情報学部は、環境学部とメディア情報学部に分かれる。小俣さんは、メディア情報学部社会メディア学科担当となる。「メディアに特化するようになるので、マスコミやジャーナリストに関心がある学生も多く集まるのではないかと愉しみにしています」
これからのことを聞いた。「高校時代になりたかった職業が五つあった」と語り出した。記者と政治家と教師と出版(古本)屋、それと坊主だそうだ。「出版は『弓立社』を経営することになり、四つは実現したが、坊主だけ、まだなんです」
政治家はこれからでは?と突っ込むと、「司法キャップをしていた時、社会党で大分二区からの出馬を要請され、出る気になり、擬似政治家体験しました。母も家族も大反対、泣く泣く断念、出れば勝てたと今でも思っています」
エンディングに備える
坊主の仕事とは?「友人らと一般社団法人ゆかり協会をつくりました。終末、エンディングの時に備え、どうすれば穏やかな終末が迎えられるか…」見立ては間違っていなかった。ただの特ダネ記者ではないと、知り合ってからずっと思っていた。大学教授を続けながら、出版社を経営、ノンフィクションのほうも書き続けると言う。さらに、終末のことまで真正面から取り組む。
故郷の杵築市は、いまごろ、椿が満開だ。杵築市観光協会のHPをのぞくと、4月上旬まで「椿まつり」が開かれている。その椿まつり俳句大賞の句が載っていた。「一平ちゃん」のこれからを後押しするような句だった。
しあわせの数ほど椿さきにけり