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高等教育の明日 われら大学人

<28>童謡の小鳩くるみさんは目白大学外国語学部教授
  鷲津名都江さん

 この名前を見て、昭和20~30年代を風靡した童謡歌手のことを思い浮かべる人は多くはあるまい。ぼくら団塊世代は、内緒の話はあのねのね♪、小鹿のバンビは♪…といった彼女の歌を聞きながら大きくなった。目白大学(佐藤弘毅学長、東京都新宿区)の外国語学部教授の鷲津名都江さんは、四歳から「小鳩くるみ」の芸名でビクター専属歌手に。愛らしい容姿、明朗な歌声で人気者になった。NHK「おかあさんといっしょ」の歌のお姉さんなど、多くのテレビ・ラジオや舞台に歌手・司会者・タレントとして活躍。やがて、転機が訪れる。1986年、4歳の時から続けて来た芸能活動で初めてレギュラーの番組が一斉に終わることになった。前年から目白学園女子短期大学(現・目白大学短期大学部)で英語を教えていたが、これを契機に「もっと勉強しないといけない」と英国留学を実現させた。帰国後は、教育とマザーグースやイギリス児童文学の研究に専念する。そんな鷲津さんに「小鳩くるみ」時代と、「鷲津名都江」として大学人になってからの、それぞれの恍惚と不安を尋ねた。

マザーグースに魅せられて
芸能界去り英国へ留学 大学で教育・研究に専念

 団塊の世代なのだが、とても、そうは見えない。1948年1月20日生まれとあるから、ぼく(同年2月5日)と15日しか違わない。しかし、あまりに落差がある。若々しい姿、透き通るような美しい声、そして凛とした振る舞い…。
 愛知県一宮市に生まれた。「もの心ついた頃から母のオルガンにつられて歌っていました」。作家・永井荷風の大叔父である鷲津蓉裳の曾孫に当たる。「鷲津の家は、祖父の代まで、漢学の塾をやっていました。大きな家でしたが、まわりは田んぼで、母と二人きりで家にいると怖いと思ったこともありました」
 3歳の時、NHK名古屋放送局主催の子どものど自慢番組「声くらべ腕くらべ子供音楽会」に出場。40人程度の参加者の中から唯一の合格者となった。兄姉は、上に兄、姉が2人いて4人とも出場したが、合格は彼女だけだった。
 「母の里が名古屋にあり、里帰りで名古屋城に行ったとき、お城の隣のNHKで公開のど自慢番組があるのを見つけました。飛び入りで出場したのですが、鐘がなったときは、子ども心にも嬉しかった」
 以来、名古屋周辺で行われる「NHKのど自慢」に出場しては鐘を鳴らしていた。1952年、4歳の夏、歌のレッスンにと母に連れられ上京してすぐに、日劇の「秋の踊り」で「小鳩くるみ」として日劇最年少デビューすることになった。
 「日劇出演は、上京して『くるみ芸術学園』を訪ねた翌日、主宰者の作曲の先生と当時の日劇の支配人の先生の話し合いで決まってしまいました。母は名古屋にいる父と電報でやりとりしていました。父は『こうした機会に恵まれたんだ、やるのもいい』といってくれたそうです」
 この年から、「ちえのわクラブ」(TBSラジオ)に出演。小学生時代には雑誌「なかよし」のカバーガールにも。その後も、NHKの“うたのおねえさん”として「おかあさんといっしょ」、「なかよしリズム」などの幼児番組は評判になった。
 学びは、渋谷区立代々木小学校、区立外苑中学校、都立青山高校、青山学院大学英米文学科と進んだ。この間、学生(児童・生徒)と芸能人という二足のわらじを履き続けた。勉強はどうしていたのだろうか。
 「小学校の先生は、学校の門をくぐったら小鳩くるみでなく、鷲津名都江として扱う、と言ってくれたので勉強は一生懸命やりました。学校での特別扱いはありませんでした。休むことは多かったですが、勉強でなく学校が好きでした」
 高校まで出席日数はぎりぎりだった。中学校に入学してから英語に興味を持った。しかし、「区立中から都立高へと公立校で過ごしたので、native English speakerと接する機会が少なく、英会話となるとモジモジモゴモゴでした」
 英語が上達したいと、大学時代、NHK「英語会話初級」の田崎清忠先生のスタジオへ。「当時、番組に出ていたNHKで田崎先生に会い、native speakerの方たちを紹介され会話する機会をいただきました。おかげで英会話恐怖症も少しなくなりました」。大学2年のとき、同番組のアシスタントに起用された。
 「実家が漢学の塾で、永井荷風の遠縁にあたる方が英語の道に進んだのは?」という嫌な質問は、こういなされた。「漢学では医学、絵画など広範囲に教えたようです。永井荷風もアメリカやフランスに行くなどグローバルな人でしたよ」
 努力家だ。芸能出演を続けながら青山学院大学を卒業。7年後、教育学科へ学士編入。そのあと、同大学院に進み、教育学研究科を修了。「青山の名誉教授の先生から、芸能界もいいが、君は教えることの方が向いている」といわれた。
 「英語を教える自信はありませんでしたが、先生が、大学は教えたいことを教えればいいので、わからなかったら手伝う」と言ってくれたので、85年、目白学園女子短期大学非常勤講師(英語英文科)に就く。86年、同短大助教授に。短大教員時代には、英詩鑑賞の教材にマザーグースを使った。
 マザーグースとの出会い。「歌が先でした。3歳の時には、トゥインクルトゥインクルリトルスターなどを歌っていました。マザーグースは、日本では英国のわらべ歌のイメージがありますが、英国では、子どもだけでなく、大人の世界にも浸透、定着しているのです」
 「マザーグースを社会学のサイドから、もっと研究したい」。こうした思いが英国留学につながった。手続きは自分一人でやった。同短大助教授を休職し、1986年から1990年までの3年半、ロンドン大学大学院修士課程で学んだ。同課程を修了して修士号を修得。留学生活はどうでしたか?
 「私の過去など誰も知りません。英国での授業は、『ナツエはどう考えているんだ』と常に自分の考えを述べなくてはなりません。意見の違いは対立ではなく、言うべきことを言いあって認め合い、互いに理解するというやり方でした。勉強するのは面白い、という考えが子どもの時から刷り込まれているようでした」
 帰国後は芸能活動を再開することはなく、教育・研究活動に専念。04年から05年にかけて放送された「NHK人間講座」(NHK教育)で、毎週月曜日、「ようこそ!マザーグースの世界へ」を担当した。久しぶりのテレビへの復帰は、マザーグースの研究成果を紹介する講義だった。
 マザーグースの魅力。「マザーグースの世界は、奥が深いんです。言葉を知り、リズムを覚えるのにも役立ちます。英語は力を抜かないと英語になりません。マザーグースで英語の言語リズムを学ぶことで、英語の発音もよくなります」
 現在、外国語学部英米語学科教授として、「Oral Interpretation」、「Advanced English Reading」、「イギリスの歴史と文学」、「マザーグースを通してみるイギリス文化(日英文化比較論)」、大学院教授として「早期英語教育とマザーグース」、「イギリス児童文学特講」が担当科目。
 「いまでも学生になりたい」と言う先生は、気配りの人。担当していない学生たちに、HPで、こう呼び掛ける。「担当科目のことに限らず、イギリスの文化や児童文学に興味のある人は、遠慮なく私の研究室を訪ねてください。水・金曜日(授業・会議以外)は在室の予定です」
 芸能界に未練はないですか?「歌いたい歌はほとんどレコーディングさせてもらいました。ロンドン留学中は鼻歌も歌いませんでした。学生は、小鳩くるみを知りません。いまは、1年1年、どういう授業をしたらいいか、それを考えるのに精一杯です」
 学生に自分の体験を重ね合わせて助言する。「どんどん外へ出ていってほしい。日本に居ても外国の情報は本などで入るけれども、翻訳者の思考が反映してしまう。それを見分ける力が必要です。外に出て、視野を広め、この違いを見つける力を養ってほしい」
 取材を終えて、評論家の川本三郎の「君美(うる)わしく 戦後日本映画女優讃」(文春文庫)の山本富士子編を思い起こした。川本は、こう書く。〈(取材を終えて外に出た)春の風が普通以上に冷たく感じられたのは、2時間、ボーッとしていて顔が火照っていたためだろう。原稿を書いているいまも夢心地である〉
 鷲津さんへの取材は、季節が違うので風の感じ方はともかく、気分は川本と重なった。原稿を書いているいまも、大学の研究室で入れてくれた紅茶が忘れられない。少年時代の、甘酸っぱい味がした。

 

 わしづ なつえ

  かつて、歌手、司会者のほか、アニメ『アタック№1』のヒロイン・鮎原こずえ、ディズニー映画『白雪姫』の白雪姫の声優でも活躍。現在、大学教授として、大学英語教育学会、日本イギリス児童文学会、日本児童文学学会、マザーグース学会などに所属。主な著書に『マザーグースと日本人』(吉川弘文館)、『英国への招待 マザー・グースをたずねて』(筑摩書房)、『よもう うたおうマザーグース』(講談社)、『ようこそ「マザーグース」の世界へ』(NHK出版協会)など。来春がビクター専属60周年。今月末、それを記念した6枚組のCDボックスが出る。