特集・連載
高等教育の明日 われら大学人
<26>字幕翻訳の第一人者は神田外語大学客員教授
戸田奈津子さん(76)
映画ファンならば、この人を知らない人はいまい。日本の洋画字幕の第一人者である。大作映画を中心に字幕翻訳をするほか、来日したスターの通訳や字幕翻訳に関する講演なども行う。字幕翻訳家として戸田奈津子の名前が知られるようになったのは、「20年間のウェイテイング」の後、F・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(日本公開1980年)だった。今でこそ、英語学校が林立し、字幕翻訳養成コースなども登場しているが、戸田さんが仕事を始めた60年代は字幕翻訳は市民権がなかった。それまで男性中心の字幕翻訳の世界に、女性の字幕翻訳者を増やす礎にもなった。現在、字幕翻訳をしながら、神田外語大学(佐野元泰理事長、千葉市美浜区)客員教授、神田外語学院アカデミックアドバイザーを務める。そんな戸田さんに映画字幕人生、自身と比較しての若者感などを尋ねた。
映画、若者に温かな愛情
学生時代は映画館通い 「学生は、もっと読書を」
年齢を感じさせない。たち振る舞いも言葉も凛としている。取材は、自宅近くの小さな喫茶店で行われた。ラフなTシャツにパンツ姿で現れた。清新な風を運んできたかのよう。
それでいて、こんなことを口にする。それも、自然に。「私はわがままで、利己的で自分が楽しいことをやって生きてきたの。楽しいことをやることは、よりよい人生を生きること」
1936年、福岡の戸畑で生まれた。銀行員だった父は、戸田さんが生まれた1年数カ月で戦死。若くして戦争未亡人になった母は、一人娘の戸田さんを連れて東京の実家に戻ってきた。
どんな少女でしたか?「いまでいうカギっ子。学校の行き帰りの電車で、思いついたままの物語を友だちにしゃべって聞かせました。友だちは『その先は?』と楽しみにしてくれました。フィクションの世界が好きな子どもだったかな」
小学生で映画と出会う
映画との出会い。小学校にあがったころ、日本は太平洋戦争の真っ只中。アメリカはじめ敵国の映画は禁止。それが解禁されたのは、終戦の翌年だった。「家族に連れられて、映画館へ通いを始めるようになりました」
戦争中は、娯楽といわれるものはなかった。画面いっぱいに広がる夢のような世界。「生まれて初めて目にした外国映画には、衝撃を受けました。アメリカは、なんて豊かな国なのか…。お腹をすかせている時だけに、食べ物が出てくる場面は一段と強烈な印象です」
当時、映画を食い入るようには観てはいたが、「字幕をきちんと読んでいたか、ストーリーを理解していたか、記憶は断片的です。ただ、映画の魅力の虜になっていたのは確かです」
小中高とお茶の水女子大付属に通った。中学後半になると、ひとりで劇場へ出かけるようになった。当時の作品で忘れられないのが、『ジョニーの肖像』、『第三の男』、『旅愁』。三本ともジョセフ・コットン主演。「彼は当時を代表する渋い二枚目で、映画のよさもあいまって、私のごひいきスター第1号になりました」
中学で英語の授業が始まった。「アメリカ映画で耳にしている、あのことばを勉強できるんだ」と張り切った。しかし、最初は退屈な発音記号ばかり教えられたために、すっかり英語への意欲をそがれてしまった。
中学2年のとき、いい先生にめぐり会った。「レベルの高い授業をなさる女の先生で、和文英訳の宿題などを出して、英語が好きになるように、うまく生徒を引っ張ってくださったのです」
当時、生きた英語が聞けるのはFENの放送か、映画館のなかだけ。「最初は映画を見ていて『サンキュー』の一言が聞きとれて、うれしかった。それがふた言になり、三言聞き取れるようになった。好きなスターのセリフを、もっと聞き取りたいという気持ちが、英語を勉強する励みにつながりました」
高校時代は名画座通い
高校時代の思い出。高校生だったから、小遣いにも限りがあった。「ロードショーへ1回行くよりはと、名画座や三本立て映画へ数多く通いました。映画雑誌やラジオ番組の試写会無料招待には片っぱしから応募しました」
津田塾大学英文学科に進む。「理数系はまるでダメ、歴史は好きでしたけど、あまり職業につながりそうもないし、いちおう英語なら何とかなりそうだ…というのが、英文学科志望の動機。消去法で残ったのが英語だったのです」
学生時代、アルバイトで来日したバレエ団のバレリーナの通訳の仕事をやった。初めて生の英語をしゃべった。「楽屋を出入りできるのが楽しかった。でも、アルバイトが終わると、生きた英語と接する機会はなくなってしまいました」
「大学時代の私は、学校よりもむしろ映画館に通っていたほうでした」。1958年、大学を卒業、生命保険会社の秘書の仕事につくが、約1年半で退社。字幕への思いはつのるばかり。
スクリーンの隅にあった字幕翻訳者の清水俊二さん(故人)に手紙を送る。清水さんの紹介で手紙の英訳、タイプとか字幕には関係ない仕事をした。大学を卒業して10年経った頃、字幕翻訳に近づくステップにつながる仕事が舞い込んだ。
ユナイト映画の宣伝部長をしていた映画評論家の水野晴郎さんから海外の映画人の通訳を頼まれた。「泳ぎを知らない人間が突然水の中に投げ込まれたように、ぶっつけ本番で英語をしゃべらなければならない立場に追い込まれました」
1970年、清水さんの助言で、『野性の少年』の字幕翻訳を任される。ほぼ同時期に字幕翻訳した『小さな約束』は73年公開。それ以降、年に2、3本のペースで字幕翻訳の仕事がきた。翻訳や通訳のアルバイトは続けた。
転機は監督との出会い
大きな転機は、F・コッポラ監督との出会い。来日時の通訳を務め、『地獄の黙示録』の現地ロケにも同行する。79年、『地獄の黙示録』本編が完成した際に、同監督の推薦で字幕を担当した。
この仕事で字幕翻訳家として広く認められ、年間50本、1週間に1本のペースで字幕翻訳を手がけるようになる。以降、『タイタニック』、『スター・ウォーズ(新3部作)』といった大作の字幕を担当した。
字幕翻訳をやりたいという若者が多いが…。「大作映画は吹き替え7、字幕3と、吹き替えが増えている。映画の環境も変わった。フィルムがなくなり、電波で映画を送る時代、字幕翻訳という職業がなくなるかもしれない。あこがれだけでやれる職業ではない。時代を見極めないとだめです」
ところで、いまの学生は、昔と比べてどうですか?「毎日、接しているわけではないので…」と前置きして語った。「私のころはコンピュータがなかった。取り巻く環境が違う。コンピュータを開けば情報は入るが、情報を知ることと教養を身につけることは違うと思います」
減った考えさせる映画
「本をもっと読んでほしい」と力説した。「映画も本にはかなわない。コンピュータで知識を得るのと脳を働かせて考えるのとは全く違う。行間を読むというのは、まさに脳を使うこと。かつては考えさせる映画もあったが、今の映画は派手でビジュアルで一過性、何も残らない」
常に映画が寄り添う。「でも、たまにはいい映画もあります。ただ、その比率が少なくなったのが残念」。なぜですか?「ひとつには作る側の問題。当たれば、パートⅠ、Ⅱ、Ⅲと刹那的に作っている」。
最後に、学生に言いたいことは?「私の学生時代は語学が一生の課題だったけれど、今は多くの可能性の中から仕事を選択できます。やりたいことを、自分で切り開く、大学4年間は好きなことがやれます。いろいろやってふるい落としていけばいいのではないかしら」
戸田さんは、若者への、映画への愛情を、永遠に持ち続けている。