特集・連載
高等教育の明日 われら大学人
<23>世界的な有機化学者で北里研究所名誉理事長
大村 智さん(76)
40年を超える研究生活を抗生物質など微生物が生産する天然有機化合物に捧げた。大村さんの発見・開発したイベルメクチンは、家畜動物だけでなく熱帯地方の風土病のオンコセルカ症の予防薬として使用され、世界で2億人近い人々が病魔から救われた。大村さんは、日本の産学共同の先駆者でもある。薬剤開発などで海外の製薬会社などと産学連携のライセンス契約を結び、そこから得られたロイヤリティ収益を北里研究所に還流させ、病院を埼玉県北本市に建設。芸術にも造詣が深く、故郷である山梨県韮崎市に韮崎大村美術館を建設、1500点を超える蒐集作品と共に市に寄贈。女子美術大学(東京都杉並区)の理事長として、芸術教育にも力を注ぐ。世界的な天然物有機化学者である大村さんは謙虚で明るい研究者だった。その激動の半生を語ってもらった。
発見・開発の薬で2億人救う産学共同進め多額な特許料
美術に造詣、女子美理事長
北里大学北里生命科学研究所(東京都港区白金)の建物の前にオンコセルカ症で盲目となった人を子供が誘導する姿の像がある。これは、大村さんのイベルメクチン発見を讃えて風土病に苦しんだブルキナファソ(アフリカ)の彫刻家が制作したものである。
1935年、山梨県韮崎市で農家の長男として生まれた。どんな子どもでした?「仲間と山へ遊びに行って3日間も帰ってこなかったり…。自然と親しんでいて、野球やサッカーに夢中で、あまり勉強はしなかった」
韮崎はサッカーの街。進学した韮崎高校でもサッカーを続けるつもりだった。「甥が旧制韮崎中学(現韮崎高校)のゴールキーパーで全国制覇したが、結核で早逝した。それもあって、祖母からサッカーは止めるよう言われて断念した」
高校時代は、スキーと卓球に明け暮れた。「スキーは距離の選手として県内ではナンバーワンで、国体にも2度出場した。山梨県は、冬のスポーツではスケートは強かったが、スキーは全国レベルには届かなかった」
山梨大学学芸学部自然科学科へ進んだ。「中高の理科教員の資格が取れるので選んだ。東京教育大学(現筑波大)理学部も受験したが、駄目だった。坦任の先生からは『(スポーツが得意だから)体育学部なら受かったのに』と慰められた」
山梨大のマイスター制度が、のちの研究人生に役立った。「4年間、面倒を見てくれる教員が付き、私は化学を選んだ。脂質化学を学び、いつでも実験をやれる環境があった。これは、その後の私の研究生活に活きました」
1958年、山梨大卒業後、東京都立の定時制工業高校の教師となる。「当時は不況で就職難だった。山梨県などの四都道府県の教員試験を受けたが、東京都だけ受かった。33人クラスの担任をやり、5年間、勤めた」
この高校教員時代に、研究者になろう、と心が動いた。「生徒の中には、油まみれの手で通学する子もいた。それをみて、自分はこのままでいいのだろうか、『俺も勉強し直そう』と大学院で学ぶことにした」
東京理科大学大学院理学研究科に進む。昼は大学院で勉強、夜は定時制高校の教師という生活。「都立高の教師は週1回、研究日があったので、研究日と土日の3日間は寝袋持参で理科大で有機化学の実験をやりました」
1963年、大学院を修了、山梨大学の助手に。ここでの研究も人生の転機となった。ワイン醸造をしていた時だった。「ブトウ糖が一夜でアルコールに変換されるのを見て、微生物の持つ可能性に心を揺さぶられた。もっと微生物を研究しよう」
「情報が多く、設備が整った研究所で究極の研究をしてみたい」と65年、(社)北里研究所に入所、研究者の道を歩む。抗生物質の研究に取り組む。68年、東大薬学部で薬学博士号、69年、東京理科大学で理学博士号も取得する。
71年、米国のウエスレーヤン大学に客員教授として招かれ、米国の先端研究に触れる。渡米2年目に北里研究所の抗生物質研究室の室長として帰国後、米国メルク社との間で産学連携の契約を取り交わす。実用化で開発した薬剤の売上高に応じて特許料を北里研究所に支払う内容。
イベルメクチンの発見。当時、大村さんらは、いつもビニールの小袋を持参、土壌を採取しては研究室で分析。79年、静岡県伊東市川奈のゴルフ場近くで採取した土壌の中から、新種の放線菌を発見してメルク社に送った。
メルク社と共同で研究を進め、この菌は、馬や牛の体内および皮膚にいる寄生虫をほぼ百パーセント駆除する物質(エバーメクチン)を生産することがわかった。動物薬にしたのがイベルメクチン。一回投与するだけで完璧な効き目を発揮した。
この薬は人間の熱帯寄生虫病で、進行すると盲目になるオンコセルカ症に加えリンパ系フィラリア症にも劇的に効くことも発見された。これらはアフリカおよび東南アジアなどで蔓延していた。薬の投与によって年間2億人余の治療および罹患予防ができるようになった。
メルク社で取り交わした産学連携の契約によって、90年ごろから北里研究所には毎年15億円前後のロイヤリティ収入が入るようになった。これまでに約250億円以上の収入があり、研究助成や研究所運営、病院建設に役立てられた。
大村さんの研究は、土壌中に生息する微生物がつくる化学物質の中から、役に立つものを探し出すスタイル。これまでに土壌から13新属、42新種を発見、微生物が作り出す化学物質を460種も見つけた。
こうした化学と微生物という二つの分野での研究成果は、いかにして生まれたのか。「学際領域をやるには、広く学ぶこと、好奇心旺盛が大事。私は、二つの『ない』が基本的なスタンス。人に頼らない、人のまねはしない、この二つです」
大村さんは(社)北里研究所理事・所長として、北里大学を擁する(学)北里学園と統合という一大プロジェクトを実現させた。埼玉県北本市に建設した北里研究所メデイカルセンター(KMC)病院は、「絵のある病院」。ヒーリングアートという言葉がない時代に、大村さんの芸術への志で創った。
大村さんが女子美術大学理事長になった経緯。「絵は小学校時代から好きでした。親戚に女子美の関係者がいた関係もあり、美術教育が重要であることを後押ししようと、創立100周年記念事業以来、お手伝いをしています」
美術館造り、市に寄贈
2007年には私費を投じて故郷の山梨県韮崎市に韮崎大村美術館を建設、収集した絵画、陶磁器など美術品と共に韮崎市に寄贈。「特色は、女流作家の作品を展示の中心に据えています」大村さんは、現役の研究者から研究の司令塔へと役割は変わっているが、その発想力、行動力は健在。後継者育成への情熱もますます高まっている。学生や若手の研究者たちに、こう訴えるように話している。
「こうしたいと思ったら、絶えず求め続けるべき。求め続けなければ授かることはできない。そして、分かれ道があったら、楽な方でなく、難しい道を選びなさい。苦労して失敗しても爽やか感が残る」
もうひとつ、と付け加えた。「人との出会いを大事にしなさい。一期一会を大事にすれば、きっといいことがある」
故郷への思いやりも人一倍だ。山梨県の科学技術振興や小中高の科学教育の充実を目指して(社)山梨科学アカデミーを創設、会長を務めている。山梨出身の小説家、山本周五郎を「敬愛しています」
国際的な二つの賞受賞
大村さんは、昨年、テトラヘドロン・プライズ(有機化学分野)と、アリマ賞(国際微生物学連合)という化学と微生物の世界的に名誉ある賞を続けて受賞した。人類の健康と福祉向上に世界的に貢献していることも受賞理由だ。周五郎の小説にある言葉は人間の人生を語っている。『樅ノ木は残った』の主人公、原田甲斐の言葉が大村さんの研究心を突き動かしたように思えてならない。
「それだからこそ、一管の笛に生涯をかけることもできるのだろう、―おまえは道にとりついた、それは一生うちこむに足る道であろう、力をゆるめずに、死ぬまで修行だとおもってあせらずにゆっくりとやれ」
おおむら さとし
1935年、山梨県生まれ。1963年、東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了。山梨大学助手、北里大学薬学部教授を経て、90年から(社)北里研究所所長、05年から米国ウエスレーヤン大学マックス・テイシュラー教授。現在、(学)北里研究所名誉理事長、北里大学名誉教授。女子美術大学理事長。微生物の生産する460余の化合物を発見して基礎および応用研究を推進。紫綬褒章、瑞宝重光章、レジオン・ドヌール勲章など褒章勲章は多数。英国王立化学会、日本化学会などの名誉会員および日本学士院、米、独、仏、ベルギー、中国などの科学アカデミー会員。