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高等教育の明日 われら大学人

<70>高校駅伝の指導者から転身 神戸学院大学女子駅伝監督 大江秀和さん(55)

己の果たせぬ夢、選手に託す53歳の決断 「全日本大学駅伝で優勝を」

53歳の決断だった。県立高校の社会科教諭から大学女子駅伝の監督に転身。神戸学院大学(佐藤雅美学長、神戸市中央区)の女子駅伝競走部監督の大江秀和さんは、陸上競技は中学時代にやった程度で、高校、大学での経験はなかった。大学卒業後に赴任した高校で陸上部の顧問となり、陸上競技の指導者の教えを乞い、陸上競技の本を読んで指導法を学んだ。こうした努力もあって、実績のなかった高校陸上競技部を高校駅伝の強豪校に育て上げた。高校教師生活31年目に、神戸学院大学から女子駅伝競走部監督を要請された。同大女子駅伝競走部は、部員数の減少などから廃部危機にあった。定年まで7年、迷いに迷った。相談した先輩たちは、「十分に貢献した。乞われたのだから行くべき」と背中を押した。「神戸学院大は教え子が一番お世話になった大学。年齢的にもラストチャンス」と決断した。それから2年、「いつかは、秋に仙台で行われる全日本大学駅伝で優勝したい」と目を輝かせる。

少年時代、サッカー選手になるのが夢だった。「父は神戸大と実業団でサッカーをやっていましたし、父の兄はインドで開催されたアジア大会のサッカーで銅メダルを獲得した選手。そうしたこともあって子どものころからサッカーがやりたかった」
その夢はなかなか叶わない。大阪市で生まれ、幼稚園から大阪府堺市へ。会社を経営する父親の仕事の関係で小学校五年生の時、奈良県磯城郡田原本町に移った。「堺も奈良も小学校はサッカーをやる環境がなく、夏休みは、午前中は水泳、午後は野球でした」
中学校に入ればサッカーをやれると思った。「ところが、田原本中学校にはサッカー部がなく、陸上部に入部。サッカーを高校でやるための体づくりをと考えました。短距離の選手で走り幅跳びとハードルで県大会で入賞しました」
高校受験。「さあ、サッカーがやれる」と勇んで地元の県立高校を受験したが、サクラ散るだった。「間違いなく受かると思っていたから勉強はしませんでした」。滑り止めで受けた大阪の私立清風高校に進む。
サッカー部に入ろうと思った。「しかし、練習場が遠く、帰りは自宅まで2時間半かかることがわかった。進学クラスに入ったため、授業のあと補習があり、宿題も多く、時間的にサッカー部入部は困難だと判断してあきらめました」
そこで、陸上部に入部。「陸上部の練習場も遠く、補習の後、駆けつけると練習は終わっていました。1年生のうちに陸上部を辞めました。時間的な制約で部活動をやれないという毎日は苦痛でした。卒業を指折り数えていたほどです」
大学は、関西学院大学文学部史学科(日本史学中世史専攻)に進む。「通学に2時間半かかるのでサッカー部や陸上部は無理でした。親に負担をかけられないのでアルバイトをしながら同好会の野球部で4年間過ごしました。授業?適度に出ていました」
大学に入るとき、こう思った。「中学校は楽しかったが、高校はおもしろくなかった。もう一度、高校生活をやり直したい、と高校の教員になろう。旧制明石中学の校長を務めた祖父の影響もありました」
「人生の中で、一番勉強した」こともあって兵庫県の社会科教員試験に合格。淡路島の県立洲本高校に赴任、陸上競技と出会う。「校長から陸上部の顧問をやってほしいと頼まれました。『中学校でやっていた程度です』と言ったのですが...」

強豪校訪ね指導受ける

9年間、洲本高校に勤務。授業とともに陸上部にも力を入れた。「近隣の強豪校の先生や田原本中学時代の恩師、竹村昭裕先生の指導を受けたり、埼玉栄高校の大森国男先生のもとを訪ねたり、陸上指導者研修会には欠かさず出ました。陸上競技関係の本も読み漁りました」
こうした努力が開花、インターハイ中距離で3位入賞者を出したり、男子駅伝部が兵庫県大会で入賞した。1993年、県立須磨友が丘高校に転勤となった。「陸上部に力を入れたいのでよろしく、と声をかけてもらいました」
開校して約10年の新設校。「陸上部は1度も県大会出場がなく、どこから手を付けようか、から始まりました。新設校なのでやんちゃな生徒もいて生活指導のほうも大変でした」。前任校で磨いた指導法が活かされるようになる。
須磨友が丘高校での陸上部の実績。近畿高校女子駅伝14年連続出場、同駅伝5位入賞(08年、11年)、兵庫県高校女子駅伝準優勝(10年)。細野真由、大山香織、竹地志帆ら日本の代表的女子長距離ランナーを育てた。
約30年間の高校教師生活を振り返る。「須磨友が丘高校には22年間いました。駅伝の思い出も多いですが、総合学科設立に関わったり、やんちゃな生徒を叱ったり宥めたり、いろんな経験をしたことが今、役に立っています」
2015年から神戸学院大学女子駅伝競走部監督に。前任の監督が体調不良で退任。「選手間の競争を通じてチーム力を底上げしたい。全日本大学女子駅伝初入賞を目指し、マラソンでも結果を残したい」と就任会見で語った。
いま、こう語る。「大学へ行くかどうか迷ったとき、生徒たちには『チャレンジしろ』と言い続けてきた手前、引き受けざるを得なかった面もあります。家族には事後承諾でした」
神戸学院大学は、1966年に設立、昨年、創立50周年を迎えた。建学の精神は「真理愛好・個性尊重」。9学部7研究科、学生数1万人を超える神戸市内で最大規模の文理融合型私立総合大学。女子駅伝競走部は、2001年に創部。
高校生との違いは?「大学生なので、大人扱いしようと思いましたが、茶髪やピアスの禁止、挨拶の徹底など生活指導から始めざるを得ませんでした。しかし、選手たちは素直で、すぐに聞き入れてくれました」
部員は、就任時には8人だったが、昨年は13人、今年は19人と層が厚くなった。練習方法も見直した。朝5時半から朝練習を始めた。以前は、軽いジョグ程度だったが、今は15~20キロ走り込むようになった。
「放課後の練習は、学生は授業があるので、午後4時からと午後5時半からとそのあとの自主練習と3班に分けました。私は朝5時半から自主練の終わる午後9時までグラウンドです。たいへん?学生が伸びていくのを見るのはたのしいです」
副監督兼コンディショニングコーチの森田陽子トレーナーの存在も大きい。「森田さんは、柔道整復師、栄養士の資格を取得。選手の身体面の管理を受け持ち、他大学にはない指導を行ってくれています」
卓越した指導もあり、成果も出るようになった。2015年の神戸マラソンでは、当時2年生だった杉谷優衣さんが優勝、同部の仲間が4位と7位に入賞。杉谷さんは、高校時代は無名だったが、大江監督の指導でタイムが伸びた。
大学の後押しも大きい。大学創立50周年に合わせて16年には硬式野球部とともに特別強化クラブに認定された。ユニホームもスクールカラーのグリーンを基調としたエメラルドグリーンに替わった。新たな寮も確保、来春にはグラウンドも全天候型トラックになる。
目指すのは、毎年秋に仙台で開催される全日本大学女子駅伝。一昨年は出場できたが、昨年は出場枠が減ったこともあって駄目だった。「今年は、戦力も充実しており、出場はもちろん、入賞を目指したい」
夢は、これにとどまらない。「高校時代の教え子には、日の丸をつけてユニバーシアードなどに出場する選手もいます。いまの1年生には、素質のある選手も多く、現役の学生として世界選手権大会やユニバーシアードに出場させたい。神戸マラソンでの活躍もありましたが、マラソン選手も育てたい」

地域や企業と連携も

さらに続けた。「神戸学院大学は地域貢献活動が活発です。新しいグラウンドでランニング教室を開いたり、企業とタイアップしてクラブチーム作りをするなど地域の役にたてることをやっていきたい」
最後を、こう結んだ。「神戸学院大学に招いていただき感謝でいっぱいです。契約は1年契約ですが、退路を断って頑張るという気持ちにさせてくれています。53歳の決断?決断してよかった、と思っています」

おおえ ひでかず 

1961年、大阪市に生まれる。幼稚園で堺市へ。小学校5年生のとき、奈良県磯城郡田原本町に移る。地元の小中学校から大阪の私立清風高等学校に進む。同高校を1980年に卒業、関西学院大学文学部史学科日本史学中世史専攻に進学。84年、同大を卒業、兵庫県立洲本高等学校の地歴科教諭となり、陸上部の顧問となる。陸上競技の指導者を訪ねて練習方法など学ぶ。93年、兵庫県立須磨友が丘高校に転勤、同高校の駅伝部を近畿地区の強豪校に育て上げる。2015年4月から現在の神戸学院大学女子駅伝競走部監督を務める。趣味はスポーツ観戦。家族は妻と一男一女。