特集・連載
大学は往く 新しい学園像を求めて
<71>地域と共に生きる大学
土曜教養講座と地域研究所 生きがいある社会創り
沖縄大学
沖縄には、戦前、一つの大学、一つの高等専門学校すらなかった。沖縄大学(加藤彰彦学長、那覇市国場)は、沖縄の実業家、嘉数 昇が戦後に設立した沖縄高校(現沖縄尚学高校)、沖縄短期大学が淵源である。尋常高等小学校しか出ていない嘉数は、「教育の機会均等」を主張して1961年に沖縄大学を創設。草創期の教職員労組結成とスト、沖縄の本土復帰時の存続の危機といった困難な時代をたどる。1978年、「地域に根ざし、地域に学び、地域と共に生きる、開かれた大学」という基本理念を立て、地域になくてはならない高等教育研究機関となることを宣言し、爾来、様々な改革を重ねてきた。全国初の他大学との単位互換制度、時代を切り拓く土曜教養講座、地域研究所の開設…。08年の創立50周年を機に、「地域共創・未来共創の大学へ」を新たな建学の理念として再スタートした。学長に沖縄大学の歩み、改革、これからなどを尋ねた。
(文中敬称略)
71年の沖縄復帰 存亡の危機を克服
沖縄大学を訪れた際、那覇市内の県立博物館へ。常設展の、琉球王国の繁栄から現代まで時代を象徴する総合展示を見た。薩摩の琉球支配、明治政府の琉球処分、太平洋戦争の地上戦での犠牲者23万人余、戦後のアメリカによる統治…。
明治以降、沖縄はなぜ、犠牲を強いられなければならなかったのか。展示物と説明を見ながら、ずっと目がうるんで仕方なかった。歳を重ね、涙腺が弱くなったせいもある。が、そんな暗い気持ちが、一枚の大きな写真を見て和んだ。
沖縄の糸満の女性が、夫が獲った魚を籠に入れ頭に乗せ、街を歩いている姿だ。ぐっと前を向き、目が輝いていた。「ずっと悲惨な目にあい貧しく暮らしてきたけど、沖縄の女性は明るいんです」というタクシー運転手さんの言葉に救われた。
嘉数 昇は1902年生まれ。真和志尋常高等小学校を卒業後、32年に日本生命保険に入社して沖縄支部長に。戦後の48年に琉球生命保険を創設。昇の長男で、沖縄大学後援会長の元沖縄県副知事、嘉数昇明に父のことを聞いた。
「学歴のなかった父は沖縄発展の強力な鍵となる人材育成をめざし、私財を投げ打って高校、短大、大学を設立。学園名に沖縄の呼称を入れたのは、米軍が公式に使う琉球に対して、郷土沖縄への愛情と誇りを持つ大事さと官に対する民の意識が強くありました」
沖縄大学は、61年、文学部(英文学科)、法経学部(法律学科、経済学科)の2学部で開学。開学時は、7000坪の校地に沖縄高校1900〇人、沖縄大学1700人が学ぶという劣悪な環境。2部(夜間部)が働く学生に人気だった。
71年の沖縄復帰が存続の危機に。文部省(当時)が、大学設置基準に達しないと県内私大の一本化に向けた行政指導を行った。沖縄大の教職員は、統合派と存続派に分かれ、前者は国際大学とともに沖縄国際大学をつくり、後者が現在の沖縄大学となった。
85年、1号館、89年、2号館、図書館、10年に新本館・体育館が竣工、ハード面については一定の整備が整った。現在、法経学部、人文学部の二学部に2300人の学生が学ぶ。学長の加藤に沖縄大学を聞いた。
「学生と、私たち教職員が共に学び合っている一つの共同社会(コミュニティ)です。県内外から、アジアを中心とした諸外国から、さまざまな経験と夢をもった学生たちが集まっています。『共に学び』、『共に(新たな文化や豊かな暮らしを)つくり』そして『共に生きる(行動する)』ことのできる自立した市民をめざしています」
78年に掲げた「地域に根ざし、地域に学び、地域と共に生きる、開かれた大学」という理念は、現在も引き継がれている。08年の創立50周年を機に打ち立てた新たな建学の理念「地域共創・未来共創の大学へ」は、「新沖縄大学宣言」と呼ぶ。
「大学が根ざす地域との関わりを、より積極的で対等とするための宣言です。沖縄大学が育てる学生も、その中心に『共創力の豊かな人間』を据えました。『共創力の豊かな人間』とは、人の共感を信頼し、互いの力を持ち寄って、より良い社会を共に創っていく力のある人間です。そうした人材を育てていきたい」
存続の危機を乗り越え、この「新沖縄大学宣言」を経て、90年代に大学改革が加速。97年、法経学部を設置、99年、人文学部を開設。07年に、「沖縄から子どもを軸として生活文化を育てよう」と人文学部にこども学科を設けた。
教育面では、基礎教育と体験学習に力を入れている。「初年次教育では数学、国語、英語を重視、『沖大プレス』という新聞を学生がつくるなど、体験を通して問題意識を持つよう指導しています」
10大学と単位互換行う
単位互換制度は、79年、派遣学生制度としてスタート。立命館大学に8人、上智大学に4人を派遣。現行制度は85年、津田塾大学から学生2名が交換学生として沖縄大学に来たのが嚆矢だった。現在は10大学と協定を結ぶ。
「この制度は、本学を日本の地域的文化的な多様性を相互確認する教育的拠点とすると同時に、大学の活性化につながりました」
加藤の話を聞くと、一連の改革のなかで、沖縄大学の背骨となっているのが、土曜教養講座と地域研究所ではないかと思った。「本学の学生には、沖縄の歴史と文化に関心を持つ者が多い」という加藤の言が裏付けている。
土曜教養講座は、74年、学内の研究成果を地域社会に還元する目的でスタート。「そのうち、在野の著名人らが講師となり、地域社会の人たちが、そうした話を聞いて、ともに考える場となっていきました」
すでに、500回を超えた。講師には、色川大吉、筑紫哲哉といった著名人も手弁当で来てくれ講演してくれた。「時代の流れを反映するとともに、沖縄戦や米軍基地の存在といった沖縄社会の底流に流れるテーマが貫かれていました」
地域研究所は創立30周年記念事業の一環として88年に設置された。初代所長は、公害研究で知られた宇井 純。地域の抱える問題を、学内外の専門を異にする研究者の共同研究で解明する場だった。
「地域のまちづくりから、基地問題、独自性を持つ琉球弧の文化や歴史、それを取り巻くアジア・太平洋地域まで研究の対象となりました」
沖縄大学は、創立50周年にあたり自校史をまとめた。プロローグの一節。〈この50年を振り返ってみると、それぞれの時期の、学生を含めた大学の担い手たちが、創り出し、積み重ねてきたものが今ここにあるという想いを強くする〉
この50年史を読み、冒頭の県立博物館見学時と同じ思いが去来した。加藤は「50年史には、本学の波乱万丈の歴史が書いてあります。本土復帰の際、学生や教職員が当時の文部省前に座り込み、存続を訴え、再認可を得たことも…」と静かに話した。
加藤は、横浜国立大学卒業後、小学校教員になるが、26才で教員をやめ、日本一周の旅へ。横浜市のスラム街の相談員、児童相談所ケースワーカーを経て横浜市立大学教員に。02年に沖縄大学に赴任。10年から学長を務める。
児童福祉奨学金を新設
このたび、奨学金制度で決断する。来年4月から、児童養護施設の利用者や里子ら社会的養護が必要な若年者を対象にした「沖縄大学児童福祉特別奨学生制度」を新たに創設する。「勉学したくてもできない方々の希望に応えたかった。社会的に厳しい状況にある学生が学ぶことは、他の学生にとっても社会の一面を知る機会になる」最後に、大学のこれからを語った。「地域共創・未来共創の大学に向け、学生と教職員が共に学び合い、困難に立ち向かっていきたい。今後とも沖縄の歴史と文化に深く学び、生き甲斐のある社会創りを目指します。沖縄大学が変われば沖縄の教育が変わり、沖縄の未来が変わります」
沖縄大学50年史の表題は「小さな大学の大きな挑戦」。小さな大学の学長である加藤の大きな挑戦は、まだまだ続く。