特集・連載
大学は往く 新しい学園像を求めて
<49>東京芸術大学
世の中に芸術の「ときめき」を
就職率は10% 90%は自分の可能性に就職
我が国唯一の国立総合芸術大学として、芸術界に数多くの逸材を輩出。東京芸術大学(宮田亮平学長、東京都台東区上野公園)は、創立以来の自由と創造の精神を尊び、日本の芸術文化発展の指導的役割を果たしてきた。現在も芸術に関する高い教育研究を維持している。近年は映画やアニメなど、これまで大学と関係が希薄な分野にも進出。学長の宮田は芸大の新しい形を創っているようにみえた。芸術、スポーツ、知的財産などを一元的に司る「文化財産省」の創設を述べたり、「芸大を発信していくのは行商人の仕事。国や地域や企業に芸大をアピールして、リヤカーに宝物を積んで帰ってくるのが僕の仕事」と言ってはばからない。宮田は、東京駅の四代目「銀の鈴」などの金属工芸で知られる芸術家。芸術と大学運営、就職問題、芸大のこれから、などを元気でユニークな学長に聞いた。(文中敬称略)
日本の文化芸術の指導的役割
映画やアニメにも進出
東京芸術大学は、1887年創設の旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」が淵源である。1949年、国立学校設置法の公布施行に伴い、東京美術学校と東京音楽学校が統合され、新制「東京芸術大学」となった。
2004年、国立大学法人法の制定及び国立学校設置法の廃止により、法人格を取得して「国立大学法人東京芸術大学」に。法人化のあと、科学研究費補助金(科研費)をめぐって宮田は孤軍奮闘した。
「07年、政府の有識者会議が国立大学の運営費交付金に『競争原理の導入』を提言し、科研費の実績に基づいて配分するという話を出してきた。科研費に『芸術』という引き出しがないのに、おかしいと強い憤りを感じた。頑張って08年度から科研費に『芸術学』を加えてもらいました」
さて、東京芸大は1949年には、美術学部(絵画科・彫刻科・工芸科・建築科・芸術学科)、音楽学部(作曲科・声楽科・器楽科・指揮科・楽理科)の2学部10学科。その後、何度かの学部拡充改組が行われ、現在は2学部14学科。
美術学部が絵画科・彫刻科・工芸科・デザイン科・建築科・先端芸術表現科・芸術学科、音楽学部が、作曲科・声楽科・器楽科・指揮科・邦楽科・楽理科・音楽環境創造科となっている。2学部に1900人の学生が学ぶ。
宮田が芸大を語る。「芸術は、人の心にときめきをもたらし、大いなる愛を呼び起こすものです。東京芸術大学は、世の中に『ときめき』が満ちあふれるような時代が来ることを願い、07年に『東京芸術大学アクションプラン』をまとめました」
アクションプランの副題は「世に『ときめき』を」。「だれでもときめきの心を持っています。芸術を通して、ときめく心を、もう一度、人々に呼び起こしたい。それが開かれた大学として私たちが果たすべき社会還元だと思っています」
05年、横浜キャンパスを開設、大学院映像研究科(映画専攻)を設置、06年、同研究科にメディア映像専攻、博士後期課程の設置を経て、08年にはアニメーション専攻を設置した。映像分野への進出のねらいは?
「日本の映画やアニメが世界中に受け入れられている今、日本独自の映像表現を学術的に研究するのは時代の要請。芸大は次代を担う表現者の育成を重視。作品の創作はもちろん、伝道者、いわゆるプロデュースもできる人材を育成したい」
音楽学部の音楽環境創造科。「音符の読めない人、演奏のすることのできない人も学べます。音楽の素敵なことを伝えられる人を育てたい。西欧の劇場や音楽ホールなどで活躍しているアートマネージャーの育成がねらいです」
音楽環境創造科は、06年に東京都足立区に開設した千住キャンパスに設置、千住には大学院音楽研究科音楽文化学専攻の一部もある。東京芸術大学のキャンパスは、大きくわけて上野、取手、横浜、千住の四つ存在する。
上野キャンパスは、伝統の音楽学部、美術学部。取手は、美術学部先端芸術表現科の全学年と、絵画・彫刻・工芸・デザイン・建築の各科の一年次の授業を行う。横浜は、馬車道校舎では映画専攻、新港校舎ではメディア映像専攻、万国橋校舎ではアニメーション専攻がある。
「上野にふんぞり返っていては芸大の発展はない。上野をハブ空港のような役目を持たせ、三つのキャンパスをサテライトにしたい」
07年に地域や企業との連携の窓口、社会連携センターを設置した。「街に出て人々に接し、そこで活動することは、私たちに専門領域を超えた力を与えてくれます。キャンパスで芸術による街づくりに取り組んでいきたい」
見てきたように、“芸大ヌーベルバーク”は04年の大学法人化をきっかけに起こった。宮田が学長になったのは05年から。一連の改革は宮田が牽引してきたと言ってもいいかもしれない。学長の個性にちょっと触れたい。
「初めて僕が東京に出てきたのは1964年で、東京オリンピックで新幹線が走ってという中、集団就職列車で新潟・佐渡から出てきたんです。『あゝ上野駅』なんです」と話し出す。宮田の作品は、イルカをモチーフにしたことで知られる。
「7人兄弟の末っ子です。芸大受験で佐渡を出るとき、みぞれ交じりで甲板に立つと、イルカの大群がついてきました。45歳の時、ドイツに留学、現地の美術館の倉庫に眠る日本の美術品の修復作業をしました。
教授から『ドイツのことは勉強しなくていい。日本のよさを伝えてくれ』と言われ帰国。46歳の時、母が危篤で佐渡に帰り、戻る船の中で、イルカの大群を見た記憶が蘇りました。日本は海の国だ、イルカをモチーフに作品をつくろう」
このイルカの話あたりから宮田節は全開。「そもそも芸術家は特別な存在じゃない。恋をすれば人は誰でも詩人になる。生きとし生ける者は誰もが芸術家なんです。それを生業にするかしないかの違いだけでね」
「芸術はときめきです。僕だっていつも不安だし、この先自分がどうなるかなんてわからない。芸術は創る側も鑑賞する側もこうすべき、という正解はありません。だから楽しいし深く味わえる。人生だって同じですよ」
聞きたいことが二つあった。芸大の厳しい入試倍率と卒業生の就職。「入試の倍率は、美術学部が14・8倍、音楽学部が9.6倍。絵画科は23倍、僕のころは40倍でした。現役は1割、今年は、10浪がいました。僕は運よく2浪でしたが、娘は4浪で合格しました」
「就職率は10%です」ときっぱり。「10%の子は自分を身売りしているのではなく、また、生活の安定のために芸術を諦めて就職するのでもないのです。芸大で培った人生観、感性を生かすべく電通、博報堂、資生堂などに入ります」
残りの90%は?「自分の可能性に就職しているんです。人は食べるためだけに生きられるわけではありません。喜びを知ることが究極の目的。それが一流企業に入ることで得られると思えば就職すればいいし、芸術をまっとうすることで得られるなら芸術家を目指せばいい」
大学のこれからを聞いた。「東アジアにおける芸術教育や芸術大学間の交流を促進したい。そして、東アジアから世界へ向けて芸術文化を発信したい。東アジアの国々と国を超えて協力し、次世代の優れた藝術家を育成し、世界の藝術の発展に貢献していきたい」
最後に、東日本大震災を語った。「陸前高田や気仙沼、南三陸などに行きました。あれから1年3か月が経ったが、方言や祭りがなくなった。ともに人の心、ふるさとの原点です。ものの形はなくなったが、心の形を取り戻したい。それが芸術家の役割ではないでしょうか」
宮田は学長である前に、非凡な芸術家だった。大学のブランドイメージは学長がつくる、という言葉は宮田のためにあるようだ。