特集・連載
私大の力
<44> 充実のパリ五輪
目標定める勇気
国内試練をバネに「金」へ
■野球の大谷選手のように殻をやぶって
パリ・オリンピック(五輪)で日本が獲得した金メダルは20個にのぼった。そこには大学を舞台に「栄冠」への道を切り拓いたドラマがいくつもある。
今回も最多のメダリストを輩出した日本体育大学(東京・世田谷区)は3年生、藤波朱理の快挙を「レスリング女子53キロ級において金メダル!五輪初出場での快挙であり、日体大レスリング部女子では初の五輪メダルです」とホームページで称賛した。
4歳から父親の下でレスリングを始め、吉田沙保里を目標にメキメキ頭角を現した藤波は中学からは無敵だった。昨年の全日本選手権で吉田の記録119連勝を超える。その後の大けがを克服し、今回の金メダルで公式戦の連続勝利を137に伸ばした。
日体大の健志台キャンパス(神奈川県)の練習場では、有力先輩の出稽古に加え、男子レスリング部に交じって練習する。「やはり男子はレベルが高い。だからこそ自分は男子みたいなレスリングがしたい。見ているだけでも勉強になります」
見守るスタッフは「男子のなかで練習していれば、外国に行ってやっているようなものです。感覚も意識も女子レベルではなくなっていく」と強調する。
実際に外国に雄飛したのは、女子やり投げの北口榛花(はるか)だ。日本大学に進むも在学中にコーチを求めて単身、チェコへと向かう。そこでの運命的な出会いが、マラソンを除く陸上競技で日本女子初の金メダルに結びついた。
大学の2年、3年と不調が続き、「自立すること」を考えた末の結論は、世界トップの"やり投げ大国"チェコのコーチに学ぶことだった。
英語、チェコ語をほぼ独学でマスターし、東ヨーロッパの生活に溶け込んで研鑽を重ねた結果、世界選手権そしてパリ五輪の栄冠へとつながった。金メダルを手に、まずチェコに凱旋した北口は盛大な祝福を受けた。
いま東欧を拠点に世界中を飛び回る北口の姿は、アメリカの大リーグで活躍する大谷翔平の女性版を見るようだ。4年後、アメリカのロサンゼルス五輪では、野球が公式競技として復活するから、大谷と北口の競演があるかもしれない。
元日大監督の小山裕三(佐野日大短大学長)は次のように語る。
「チェコへの単身留学は、そうしなければ、世界選手権や五輪で勝負できないと思ったからで、自分への賭けでもあったと思う。簡単に行動に移せるものではありません。それだけスケールの大きな選手なのです」(『日刊ゲンダイ』から)
「北口の金メダルで、個人競技の選手が海外に出ていくケースが増えるのでは...」と問われると、「そう思います。北口のように、自分の殻、日本人の殻を破ってほしいですね」と応じていた。
■在学中の「うまくいかない」乗り越える
『月刊陸上競技』によると、日本大学はインターカレッジ(学生選手権大会)で優勝を争う強豪だが、女子のトップ選手は少なかった。北口はインカレではなく、世界を見据えて成長の道を探るようになった。
1998(平成10)年3月、北海道旭川市に生まれ、3歳で水泳を始めた。父親は市内のホテルで製菓料理長を務めるパティシエ、母は元バスケットボール選手で180センチの長身だ。高校からやり投げを始めて、インターハイを2連覇、世界一にも輝いた。
しかし大学入学後、リオデジャネイロ(ブラジル)五輪を目指しての練習中に右肘を故障する。チーム内の専門のコーチがいなくなるなど、「うまくいかないこと」がつづいた。運命を決めたのは2018(平成20)年、フィンランドで開かれたやり投げの国際講習会だった。その場で偶然、チェコのコーチから「あなたの活躍ぶりを見ています。私たちの練習に加わらないか」と声をかけられ、名刺をもらった。
北口は高校時代、「投げ方やスタイルから見て、チェコが一番合う」と言われたこともあり、男女で世界記録を出していたチェコには興味があった。「今しかない。やっと手に入れたチェコとのつながりにかけよう」と意を固め、帰国後に連絡を取り合い、指導を受けるようになったのがコーチのデイヴィッド・セケラックだった。
翌19年2月からチェコでのトレーニングに入ったが、団体からの選手強化費はあるにしても、学生の身で金銭面での不安を打ち明けると、「お金ではなく、気持ちを大切にしているから」と言う。そのセケラックは、ジュニアのナショナルコーチを務めていて、北口を基礎から鍛え上げようと考えてくれたのだった。
帰国して迎えた19年5月の大会で北口は日本新記録を出し、秋には66メートルまで記録を伸ばした。そして昨年8月の世界選手権で、ついに世界の頂点に立った。
■IOC会長候補の日本人も東欧に留学
パリ五輪では、国際オリンピック委員会(IOC)の現在のドイツ人会長が任期満了での退任を表明、来年3月のIOC次期会長選挙の有力候補として日本人の名が浮上している。
現在、国際体操連盟(FIG)の会長をつとめる渡辺守成だ。65歳になるが、この人も「私立大から東欧留学」という北口と同じような経験の持ち主である。
渡辺は共同通信の取材に「(会長選について)日本オリンピック委員会(JOC)、日本政府と相談したい」と話している。
北九州市の出身で高校時代に体操と出会ったが、「FIG会長まで上り詰める軌跡は、運命のいたずらの連続だった」(週刊誌『AERA』)。九州大学医学部を目指したが、高校の勧めで東海大学体育学部に入学したが間もなく、母親にがんが見つかる。学費が苦しくなり、退学するしかないかと考え始めたとき、大学の掲示板のある案内が目に入った。
交換留学生の募集で学費は不要、奨学金まで出る厚遇だった。ブルガリアの国立体育大に応募して合格した。
旅費はアルバイトで捻出したが、航空券を買う余裕はない。船で旧ソ連のナホトカに向かい、鉄道でモスクワを経由してブルガリアのソフィアに。留学生の寮に住み、多くの国の学生らと友情を育んだ。
語学にも役立つと思い、体操のジュニア世代を教える。やがて好成績を収めさせると、ブルガリア代表のヘッドコーチから、新体操の練習もみるように誘われた。
帰国後の就職活動では、新体操の教室の企画案を作り、小売業界のジャスコ(現イオン)に入社する。スポーツ事業部に配属されて新体操教室を展開し、今では全国30カ所以上、約7千人が通うまでに成長させた。
実績が買われ、1997(平成9)年に日本体操協会の理事に就任する。当時は96年、2000年と2大会連続で五輪でのメダルを逃すなど「体操ニッポン」の栄光は色あせていた。協会から「五輪でのメダル復活」を頼まれた渡辺は、現場第一主義で体操界の立て直しに取り組み、アテネ五輪で男子団体28年ぶりの金メダルに結実させた。
この人の転機も、新体操に出会った東海大時代のブルガリア留学にあった。FIG理事を経て2017年にアジア人初の会長に就任し、IOC委員も務めている。
■「日本人の良さがチームのためにもなる」
在学中に単身チェコに飛び込んだ北口の道が拓けたのはコーチ、セケラックとの出会いだった。未知の異国での生活、やり投げの教えを請うにも、必要不可欠な言葉の壁をどう乗り越えたのか。
先月12日、北口が本拠地であるチェコの街ドマジュリツェに凱旋し、地元の人たちの温かい出迎えを受けた光景が、成功の秘密を物語っていた。
祝賀会でスピーチしたセケラックは、当初は日本人への指導を苦々しく思う人たちも少なくなかった、と述懐した。連盟に苦情も届いていたが、そのたびに彼は「彼女は日本人の多くがそうであるように時間を守り、コーチの言葉に耳を傾け、それをチーム全体に伝える役割を率先してつとめてくれた。チーム全体の成長を支えてくれていた」と、北口の真摯な姿勢を丁寧に説明していた。
実際に北口は、自分が予選落ちしたような大会でも、頬に小さなチェコ国旗をペイントして、チェコ選手を積極的に応援する。チームで練習し、同じカフェに通い、同じスーパーで買い物をし、同じレストランで食事をする。街の人たちに一日でも早く溶け込もうという姿勢がいまや、チェコ語でインタビューを受けるまでに成長させたのである。
そこには、アメリカの国民を魅了する大リーグ大谷にみるような日本人としての真摯で、謙虚な美質が生きている。このことは、スポーツ選手だけでなく、海外に出て行こうとする若者たちに、自信を持って挑戦することの大切さを教えるだろう。
「私たちにはまだ、世界記録を塗り替えるという目標があります」。北口とセケラック2人の目は早くも来年の東京での世界陸上、そして4年後のロス五輪を見据えている。