特集・連載
私大の力
<35> コロナワクチンの栄誉
新潟薬科大教授らに脚光
ノーベル賞で薬学部を元気に
■志願者数の「回復」に勢いをつけるか
今年のノーベル生理学・医学賞は、新型コロナウイルスの感染防止に大きな力を発揮したメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンの開発者、アメリカ・ペンシルべニア大のカタリン・カリコら2人の受賞となった。
研究の進展には日本人の貢献も報じられたが、なかでも新潟薬科大客員教授だった古市泰宏の業績が、ワクチン実用化への道を開いていた。昨年の選考でもノーベル賞候補と目され、受賞に備えて談話まで用意していたという古市だが、それが叶わないまま、膵臓(すいぞう)がんのため81歳で亡くなっていた。
古市の共同研究者である同大薬学部教授、小室晃彦は今年の発表後のコメントで「古市先生とカリコ博士とは、ごく近しい関係にあり、カリコ博士から直接、『古市先生の発見がなかったら、ワクチンは完成していない』と言われていたそうです」と記した。
今回、関係者が注目するのは、このノーベル賞が「薬学部」の人気を押し上げることにつながるかどうか、ということだ。実は、減少の一途だった私立大薬学部の志願者数がコロナ禍によって上昇に転じる兆しがあったからである。
日本私立薬科大学協会によると、昨年度、私立大薬学部と薬科大の入学志願者数は7万6625人と、前年度に比べて約3000人増えた。10万人を超えていたかつての人数には及ばないものの、8年ぶりの増加で、入試倍率も32大学で前年より上まわった。
薬学部には、薬剤師の養成を目的とした6年制と、薬の研究・開発を目的とする4年制の2つがある。専門家によると、この志願者増には「受験生たちが、将来的にワクチンの研究や開発にも携われるのではと、近年あまり注目されなかった4年制学部に人気が集まった結果」との分析があるという。
今年度は、前年よりも1799人の減少となって連続上昇とはいかなかったが、今回のノーベル賞がどのような効果をもたらすか。今月5日には、来年1月実施の大学入試共通テストの出願も締め切られ、入試シーズンに突入する。
■古市元教授が遺した「YMW」のエール
ノーベル賞を受けた新型コロナのmRNAワクチンは、ウイルスそのものではなく、ウイルスの設計図を体内に入れることで抗体を作る仕組みで、接種時に予防対象の病気にかかるリスクや、遺伝子への影響がないとされている。
従来のmRNAは体内で異物と認識されるため、炎症を引き起こしてしまうという難問があった。カリコらの研究は、mRNAの一部を変化させることで、ほぼ炎症がなくなることを発見したものだが、短期間での開発や大量供給を可能にしたのが「キャップ」構造という古市の研究だった。
キャップ構造は、壊れやすいmRNAを細胞内で安定させ、タンパク質の合成を促す役割を担う。現在、流通しているファイザーやモデルナ製の新型コロナワクチンも、キャップ構造を組み込んでいる。
古市は2007(平成19)年から、新潟薬科大の客員教授を務めていた。富山県出身で、富山大薬学部を卒業後、東大大学院で薬学博士号を取得した。国立遺伝学研究所に在籍して1974(昭和49)年、アメリカのロシュ分子生物学研究所に留学し、ここでキャップ構造を発見した。2021(令和3)年には、日本医療研究開発大賞(文部科学大臣賞)を受賞している。
小室は「昨年4月、カリコ博士が日本国際賞を受賞して来日した際、博士の母国であるハンガリーの駐日大使館で祝賀会が開かれ、古市先生も出席されました。カリコ博士は世界各国で講演する際も、古市先生の発見に言及し、先生の若いころの写真を交えて話されていたそうです」と紹介している。
昨年11月26日、古市との「お別れの会」が東京・神田の学士会館で開かれたが、会場には、キャップ構造を示すローマ字のロゴのついた帽子(キャップ)が飾られた。古市自身が作ったもので、大学の講義でも、これをかぶっていたという。
研究に情熱を注いだ古市は常日ごろ、学生たちに「YMW」の3文字のエールを送っていた。「やって(Y)みないと(M)わからない(W)。この頭文字です。何ごとも、トライしてみなければわからない、やってみないとわからないじゃないか、という精神を持つことが大切だ。いつも、そう説いていたのです。ノーベル賞というよりも研究に対する情熱がすごかった」
小室はそう回想し、「YMW」の精神は若い研究者への力強いメッセージになる、と力説する。
■「国産」の完成は間に合わなかったが...
現在、薬学を学べる私立大は70近くに増えた。法改正によって2006(平成18)年から6年制がスタートし、新しい薬剤師国家試験も実施されてきた。
当初は、薬剤師人気の高まりで志願者を増やしたものの、やがて将来的な余剰人員増が予想されたことから、受験生離れが始まる。一方の「薬の研究・開発」を目的とした4年制も求心力を失い、定員割れとなる私立大の薬学部が急増している。
文部科学省は「質の高い入学者確保と教育の質向上」に向けたフォローアップとして、薬学部での修学状況を調査している。2021(令和3)年度には初めて各大学の退学率が公表されたが、30%以上のところが7学部、20%以上は13学部と、他学部よりもかなり高い傾向が明らかになった。
このため文科省は今年1月、6年制薬学部の新設や定員増を2025(令和7)年度から抑制する方針を示し、中央教育審議会大学分科会で了承されている。
一方の4年制の研究力についても、今回のコロナ禍で「なぜ、日本の国産ワクチンの開発は間に合わなかったのか」という深刻な反省を迫られることにもなった。
北里大特任教授、中山哲夫は「ワクチンの基礎研究に投資と理解を」と呼びかける。6月9日付の産経新聞のインタビューでは、「ワクチンは国民の健康を守る武器であり、輸入に頼るのはリスクが高い。医療と経済の面でも損失になる」と訴えた。
中山が所属する「大村智記念研究所」は、2015(平成27)年の大村のノーベル生理学・医学賞受賞を記念して2020年に設けられた。
大村は東京理科大で理学、東京大で薬学それぞれの博士号を取得して1975(昭和50)年、北里大薬学部の教授に就任し、現在は特別栄誉教授のポストにある。
中山はワクチンの性能に詳しいウイルス学の専門家で、ロシアによるウクライナ侵攻や、米中対立の先鋭化で世界の分断が進むなかで、ポストコロナ時代の国産ワクチンの開発力の充実が経済安全保障の観点からも欠かせないと強調する。
■私大研究力の脆弱性をどう克服するか
「日本はこれまで優秀なワクチンを作ってきた。次のパンデミック(世界的大流行)対応に必要なのは、『感染症はワクチンで予防する』という基本的な考え方を持ち、開発製造能力を国内で養うことだ」
今回、そうした考えが国にも製薬企業にも浸透していなかった、と中山は言う。海外では過去に複数の感染症の流行を経験したことから、新規ワクチンの基礎研究を積極的に進めてきた。
一方、こうした流行の影響の少なかった日本では、パンデミックも人ごとのようにとらえ、国も製薬企業も、使われるかどうかわからないワクチン開発への投資を減らし、基礎研究もおろそかになっていた。
中山はそう指摘したうえで、「国は基礎研究への支援を恒久的に行い、一般の人に対しては(先入観でワクチンへの不信感を抱くのではなく)、科学的なものの見方を養う教育が求められる」と力説している。
では、そうした観点を踏まえて、私立大薬学部の研究・開発力をどう高めていくか。
帝京大薬学部教授、岸本泰司らの調査によると、2020(令和2)年に薬学部の1人の教員が発表した論文数は、国公立大では平均で3.13だったのに対して、私立大では1.15と3倍近くの開きがあり、研究環境の厳しさが浮き彫りになった。さらに、私大間でも格差があり、「新設の薬学部の論文生産性は既設の薬学部に比べて低い」という。
岸本は「6年制が中心の私立大薬学部は、大学院として4年制博士課程を設けているものの、進学者の確保に苦労している。一方、4年制を中心とする国公立大は通常、大学院の博士前期課程と後期課程を持ち、人材面でも私立大と大きな差がある」と指摘する。さらに、国からの公費支援も国公立大に比べて少ないという現状のなかで、「私立大薬学部における基礎科学研究力の停滞」(岸本)をどう改善していくか、今回のノーベル賞での日本人の貢献が「元気の素」を吹き入れることを期待したい。