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特集・連載

私大の力

<33> 教育学術新聞70年 其の四
黒田副会長の40年
「地域の信頼」あればこそ

平山一城

■大綱化後、橘髙会長の下で頭角を現す

 本紙(教育学術新聞)の創刊70年企画、前回は16年間にわたり日本私立大学協会(私大協)会長を務めた橘髙重義の時代を振り返った。
 1991(平成3)年の大学設置基準の大綱化(自由化)をはさんで、私立大を取り巻く環境が大きく変化した時期だった。
 短期大の4年制転換や単科大の統合などが相次ぐ。同時に新設ムードも盛り上がり、当時384校だった4年制の私立大はその後、急速にその数を増やしていく。
 一方、国立大については、定員増すら原則認めずにその地位を温存するという対照的な扱いが際立っていた。
 文部省(当時)は1970年代から高等教育計画を策定し、国公私立大の定員規模や地域ごとの配置計画を示していた。しかし、この抑制策は90年ごろにかけて大学進学率の停滞を招き、受験競争を激化させていた。
 大綱化は、こうした状況に対応するものだったが、ここでも国立大には手をつけず、私立大を増やすという戦後の国の方針が実施された。
 加盟校が増えた私大協では、対応が急がれた。
 1998(平成10)年4月1日付の本紙は1面で、事務局長の原野幸康が常勤の常務理事となり、新たな事務局長に次長の小出秀文が就任したことを報じている。
 前年度の私大協総会で橘髙は、「加盟校も271校に増え、21世紀の私大基盤を確立するために、私大協の私立大学基本問題研究委員会を充実させるとともに、常勤の役員(常務理事)を新設したい」と提案した。
 諮問を受けた「定款等検討委員会」によって人選が進められ、理事会の全会一致で承認された。
 その定款等検討委員会の担当理事だったのが、今回、この企画で取り上げる金沢工業大学園長・総長(私大協副会長)、黒田壽二である。
 文部科学省の中央教育審議会(中教審)委員や日本高等教育評価機構理事長などを歴任し、私学を代表するオピニオン・リーダーになった黒田の活動の拠点は、この私大協にあった。
 その実力は、85歳になる現在もなお、私大協の私立大学基本問題研究委員会の委員長の職にあることで納得させられる。

■理事長より「学園長・総長」の肩書に利点

 黒田を有名にしたのは、北陸にある私立の工業大学が新聞社の実施する「大学ランキング」「大学の実力」といった調査で、「面倒見が良い」「他校の学長も評価する」として上位にランクされたことが大きい。
 金沢工大には、2004(平成16)年度に導入した「修学ポートフォリオ」や「夢考房」など教学面での斬新な取り組みがあった。
 就職支援では、教員の約半数が企業出身者という特色を活かし、学生たちに企業の事業内容や人材ニーズに即したアドバイスをする。
 東京・大阪・名古屋には会社訪問専任のスタッフを配置し、金沢から就活バスを運行するというきめ細かさで他校を圧倒した。
 黒田は「学びの楽しさを知り、熱中できる環境があれば、学生の力がつく」と語り、「金沢に、日本のMIT(米マサチューセッツ工科大)を」と教職員を鼓舞していた。
 当初から、「全国を舞台にした競争」に挑んだことが成果に結びついた。
 黒田は金沢工大工学部を卒業し、母校に就職した。1980(昭和55)年に42歳で理事長に就任するが12年で退任し、92年から「学園長・総長」の肩書で活動する。大綱化の翌年である。
 橘髙が会長になった1984年、私大協の常務理事に任命された。この際、定款等検討委員会の委員長、私立大学基本問題研究委員会の委員も任されており、私大協の次代を担う人材として嘱望されていた。
 「橘髙さんは、矢次保・初代事務局長が亡くなる3日前に会長に就任したそうですが、私はいわゆる『矢次学校』の最後の教え子でした。メンバーは森本正夫、小原哲郎、谷岡太郎、原田嘉中、森田嘉一といった大先輩ばかりで、年の離れた私は、『北陸の若造』と呼ばれていました」。そう述懐する。
 その黒田が、金沢工大の理事長を12年で退任し、学園長・総長という肩書になるには狙いがあった。
 「理事長は自学園の経営面に軸足を置くが、私は大学の外での活動の幅を広げたかった」
 大綱化で私立大に大波が押し寄せようとしていた時期だけに、その慧眼は図抜けていたというべきだろう。

■一番重要なのは「ディプロマ・ポリシー」

 私立大は現在、620校に増えた。文部科学省は国公私立大の配置の見直しを進めるが、黒田は「大学全体で800校という増加には、国の規制緩和策に問題があったと言わざるを得ない」と語る。
 戦後の学生増と進学率の伸長に、私立大の数を調整することで対応してきた国の政策に、確かなビジョンはあったのか。国立大温存の姿勢が弊害をもたらしたのではないか。
 「90年代、大波をかぶる私学を横目に、国立大は、その数を変えないまま自分たちの地位を守り、充実させることに専心できた。優秀な学生たちが集まったのも当然で、格差が拡大した」。黒田はそう強調する。
 2000年代に入り、大学審議会の後継となった中教審大学分科会委員を9期まで務めた。法人化後の国立大の動向を見ても、その考えは変わらない。
 「国立大は、学部・学科を廃止して学類とか学系といった組織をつくる大胆さも許されたが、学部・学科単位で補助金を出す財務省の方針に縛られる私学には、そうした余裕はない。理系重視への政策転換でも、国立大優先で定員を増やすという姿勢は変わっていない」
 しかし一方で、私立大に対しても、設置審査や評価の在り方について警鐘を鳴らした。
 2003(平成15)年、大学の設置審査は大学設置・学校法人審議会に一本化、手続きも簡略化された。いわゆる「事後チェック」方式で、チェック機関として政府が認証した評価団体が、各大学の教育や運営状況を定期的に確認する認証評価制度が、その翌年から始まった。
 黒田は、私大協の日本高等教育評価機構の立ち上げに携わり、公益財団法人の認定を受けた2014(平成26)年、大学基準協会副会長を辞して理事長に就任する。
 2017年度からは、すべての大学に、学位授与(ディプロマ)、教育課程編成・実施(カリキュラム)、入学者受入れ(アドミッション)の3ポリシー(方針)の策定、公表が義務付けられた。
 「私も中教審委員の時でしたが、どうも、3つのポリシーの関係に間違った理解がある。大学はあくまで、どういう学生を育てるか、というディプロマ・ポリシーが一番重要で、そこからカリキュラムやエントリーの方針を考えていく、その道筋を誤ってはいけない」
 「建学の精神」を持つ私立大は文科省の示すルールの中で、それぞれの独自色で人材をいかに育てていくかが大切だ、と黒田は訴える。
 大学設置・学校法人審議会では、学校法人分科会長として「経営面を中心に設置審査」に当たったが、ここでも、私立大の設置申請に疑問を持つことが少なくなかった。
 2008(平成20)年、分科会長退任の際には、規制緩和下での設置認可について、私学人にも、文科省にも耳の痛いコメントを残している。
 それは「審査の運営上の安定性や社会的な信頼性の面に懸念があり、多数の留意事項を付けざるを得ない申請や、『数値基準さえクリアすれば』といった意識の低さを露呈するようなものが増えた」という厳しさだった。

■ガバナンス・コード(私大協憲章)で結束へ

 このコメントは、学校法人のガバナンス(組織統治)機能をどう高めるかという基本に関わる問題提起でもあった。
 私大協は「日本私立大学協会憲章 私立大学版ガバナンス・コード」を作成して2019(令和元)年、加盟各校に公表した。黒田は私立大学基本問題研究委員会の委員長として強力にバックアップした。
 文科省は2016年、私立大のガバナンスや財政基盤の在り方などを検討する「私立大学等の振興に関する検討会議」を立ち上げ、その座長に黒田を据えていた。
 いま文科省は、全国の大学の定員割れや学生確保の見通しなどを厳格に判断し、収容定員の充足率が5割以下の学部がある学校法人には、学部の新設や学部改組などの認可申請を受けつけない、との方針を示している。
 規制緩和策の下で始まった「事後チェック」の基本を見直すことになるのか、注目される。
 地方からは、働く環境の悪化に苦しむ教職員たちの声も聞かれ、新たな収益源を模索する大学の動きも活発化している。ウルトラCの離れ業で大逆転を狙うところもあると仄聞する。
 そうした中でも黒田は、「地域に信頼される大学なら必ず、生き残れる」と強調する。「北陸の若造」からたたき上げた、この私学人の見識が一層の重みを持って響いてくる。(敬称略)