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私大の力

<31> 教育学術新聞70年 其の三
橘髙会長時代の16年
「21世紀への飛躍」に手腕

平山一城

■矢次局長の死去3日前にトップ就任

 今から15年前の本紙(教育学術新聞)、2008(平成20)年2月27日号は、その前年12月に逝去した日本私立大学協会元会長、橘髙重義を偲ぶ会の様子を報じている。東京・市ヶ谷の私学会館(アルカディア市ヶ谷)には、協会役員はじめ会員校の代表者など約120人が訪れて別れを告げた。
 橘髙を引き継いだ会長の大沼淳は、「我が国を代表する物理学者として、東京理科大を今日の姿に導かれた私学人・大学人として、また、全国私学の地位向上と高等教育の普及拡大・高度化のため、私大協会長・全私学連合代表として、日々ご活躍された橘髙先生のことがただただ走馬灯のごとく思い返されます」と追悼の辞を述べた。
 これに対し、橘髙の夫人(京子)は「主人がここ私学会館へ来るのも今日が最後となりました。永年にわたり支えていただいた皆々様に、主人に代わりまして御礼申し上げます」と深々と頭を下げた。
 橘髙は1984(昭和59)年から2000(平成12)年まで16年に亘って私大協会長を務めた。本紙70周年企画の3回目となる今回は、この橘髙時代の私立大を取り巻く環境の変化を、紙面を飾った記事を辿って振り返りたい。
 1984年、それまで私大協を取り仕切っていた初代事務局長(専務理事)、矢次保が亡くなった。橘髙が会長に就任するのは、その死のわずか「3日前」だった。本紙に、その時のことを「病院に行くと、意識のある最後かと思われるが、握手を求めて、『ひとつ、よろしく頼む』と。私は、一生懸命やらなきゃ、と決心しました」と回想している。
 中曽根康弘内閣が、臨時教育審議会(臨教審)を立ち上げ、教育政策に大鉈をふるい始めた年でもある。大学審議会が設けられ、1991(平成3)年には大学設置基準の大綱化(自由化)へと、激動の時期に突入するところだった。
 現在の常務理事・事務局長、小出秀文は「橘髙さんは、大学紛争を経た後の大学の在り方に腐心された。70年代から、新しい枠組みを作ろうと、矢次さんをはじめ私大協の仲間たちと、私立大の自主・自律を強化する設置基準案を練っておられた。満を持しての会長就任だったと思います」と振り返る。
 たとえば私学定員についても、飛行機の定員とは意味が違う、と語っていた。教員数や校地・設備の方からではなく、「定員を何人にするから、これだけの設備が必要」という考え方でいくべきだ。小出には、こうした柔軟な発想力が印象に残っているという。
 アイデアに富み、私学経営にたけた橘髙は、東京理科大の改革や私大組織の発展にその実力を発揮していく。

■私学補助の減少という荒波の中の船出

 本紙は毎年、正月元日の紙面に「新春座談会」を掲載する。私大協会長に就任した翌1985(昭和60)年元日の紙面に橘髙は、当時の日本私学振興財団理事長、私学教職員共済組合理事長との「新春鼎談」を掲載した。大見出しは「私立大学―21世紀への展望」、15年後にやってくる新世紀に向けての意気込みを示すものだった。
 橘髙はこの中で、「高等教育の受験人口の増加や大学紛争などを経て、私学助成が制度化され、私学助成法ができて10年になる。しかし、一時3割近くまで伸びた補助率も減少に転じている。今年は何とか、歯止めをかけたい」と語っている。
 1975(昭和50)年、経常費の2分の1補助の達成を眼目とした私立学校振興助成法(私学助成法)が成立し、補助率アップが図られたものの、それが数年にして減少に転じたことを指している。
 これには、中曽根内閣でスタートした臨教審の方針が反映した。明治初期、戦後改革期に続く「第3の教育改革」を謳っていたが、実際は、1970年代からの2度の石油ショックを経て、財政苦境に直面した国の行財政改革(行革)の一環として実施されたのである。
 大学をめぐる環境は行革の荒波の中で一変し、私立大は時に、「相矛盾する多様な要請」(大崎仁『大学改革1945~1999』)への対応を迫られていく。
 臨教審は緊要の課題として、①大学設置基準の改善、②大学院の飛躍的充実と改革、③ユニバーシティ・カウンシル(大学審議会)の創設の3つを提示した。
 国の教育支出は、「国際的にみて少ないとはいえないが、しかし初等中等教育に優先的に配分され、高等教育費の割合は20%に満たない。一層の充実と配分の適正化、重点的・効率的支出につとめる」として、「大学が行革の犠牲になることはないこと」を強調した。
 しかし、この「重点的・効率的」の方針が「これ以降の私学助成を一般補助から競争的な特別補助へ、機関補助から個人補助へ」(私学高等教育研究所元主幹・瀧澤博三)という現在までの流れを作るものとなった。
 臨教審は1987(昭和62)年、3次にわたる答申を総括して任務を終え、この年発足した大学審議会が、高等教育を「個性化、多様化、高度化」し、「社会との連携、開放を進める」との臨教審方針に基づいて、具体化の作業に入った。
 大学審議会は2001(平成13)年の省庁再編で、現在の中央教育審議会(中教審)大学分科会に再編される。現在の大学分科会長、永田恭介(筑波大学長)は「大学審議会に権威を付与するため、文部大臣への勧告権が認められた」と、大学分科会との違いを指摘している。

■大綱化後は「私大団体連」会長の重責も

 大学審議会の初代会長には、日本私立大学連盟会長で、日本私立大学団体連合会(私大団体連)会長を務める石川忠雄(慶應義塾塾長)が就任した。橘髙も審議会メンバーとして積極的に発言する。
 大学審議会の仕事の中で、大学改革に最もインパクトを与えたのは1991(平成3)年の「大学教育の改善について」答申だった。いわゆる大学設置基準の大綱化、なかんずく一般教育・専門教育の授業科目区分の撤廃だった。
 橘髙は大綱化の翌1992年から4年間、私大団体連の第3代会長を任された。1984(昭和59)年に設立された私大団体連は、初代の石川、2代目の西原春夫(早稲田大総長)と私大連側から会長が出ており、橘髙は私大協からの初選出だった。
 関係者によると、当初、私大団体連は私大協と私大連から交互に会長を出すという紳士協定があったというが、現在に至るまで、橘髙を除いて私大協から会長は選ばれていない。
 橘髙は大綱化について「東京大を頂点にした明治以来の国家主導型の大学政策に、大きな変革をもたらす」と高く評価した。同時に、「大学の教育・研究が各大学の自主性に任せられたことで個性化・多様化」が進む一方で、大学を設置する学校法人の責務が増大することも強調していた。
 1995(平成7)年元日付の新春座談会でも「建学の精神に基づいて特色ある教育・研究を自主的に進める私立大は、独創性を求める社会に欠かせない。日本が国際社会で貢献していこうと思えば、私立大の充実・発展が忘れられてはならない」と語っている。
 この年2月、特殊法人である日本私学振興財団と私立学校教職員共済組合の「統合」が、政府によって閣議決定された。橘髙は私学側の代表として当時の文部大臣、与謝野馨に呼ばれて承認を求められた。
 3年後の1998年1月、「日本私立学校振興・共済事業団」として発足した際には、「この統合は、理事長が1人減る以外にはメリットがない、と反対意見もあったが、当時、全私学の代表をしていた私は、文部大臣の私学振興のためという言葉に期待して、承認することにした」と述べている。
 橘髙は、この見返りかのように、文部省が私学助成の中で「基礎研究費」を増額するようになったことを強調している。

■「私立の躍進期」見届けるように退任

 1993(平成5)年以降、18歳人口は減少に転じるも、高校生の進学意欲の高まりとともに進学率は急上昇し、90年代の私立大の増加数は106校、2000年代の最初の10年は119校と、1960年代に次ぐ伸びを示した。
 第1次ブーム期とは異なり、文部科学省は私学の定員増に認可権を持ち、また認可にあたり計画にもとづく判断を加えるようになったが、私学の拡充意欲はその枠組みを乗り越えるエネルギーを持っていた。
 大綱化答申では、一方の柱として「大学の自己評価」に関する規定を設置基準に定めるよう求め、その面での充実も図られていく。行革を背景に、大学に注がれる目も厳しさを増し、国民に対するアカウンタビリティ(説明責任)という耳慣れない用語が、大学人の間で盛んに使われるようになる。
 橘髙は2000(平成12)年春、私大協会長の職を離れるが、ほぼ並行するように活動し、大学改革をリードした大学審議会も翌年、行革の一環としてあっさりと廃止される。
 臨教審提言によって、「大学の自治を尊重しつつ...高等教育の在り方を基本的に審議するユニバーシティ・カウンシル」として創設された組織だったが、その任務をどこまで果たしたかについては、厳しい疑問符が投げかけられることも少なくない。
 橘髙時代は「私立大の躍進期」(私大協70周年記念誌)を画することになるが、同時に大学の自治と、私学助成を含めた大学政策の在り方という難問が、宿題として残った。
(敬称略)