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私大の力

<29> 教育学術新聞70年 其のニ
「私学助成」策の迷走
国庫負担の目標はるかに遠く

平山一城

■「2分の1」規定は雲散霧消したまま

 本紙(教育学術新聞)の創刊からちょうど20年後、1973(昭和48)年9月19日付の紙面に注目すべき記事が載っている。1面トップ、見出しは「今後の私学助成策 必要経費の半額助成」とある。
 第2次田中角栄内閣の当時、自民党政調会の文教部会に「私学助成に関するプロジェクトチーム」ができた。その主査を務める衆議院議員の塩崎潤が、各私学団体の事務局長を招いて中間報告案を説明した、とのニュースである。
 いわゆる「塩崎試案」で、私学経費の半額(2分の1)を国庫負担とし、残りの半額を一般の寄付と学生生徒の納付金で負担することを基本原則とし、年次計画をもって拡充を図っていくとするものだった。
 本紙の記事は、私学団体の事務局長と塩崎らチーム側との意見交換の様子を詳細に報じている。
 塩崎は、先ごろ国政を退いた塩崎恭久の父親である。試案には、「国公私立間の格差是正を図り、私学の特色を生かすことを目標に」とあり、これを基に議員立法で私立学校振興助成法がまとまり、1975(昭和50)年に成立した。その第4条では「国は、大学...を設置する学校法人に対し、...教育又は研究に係る経常的経費について、その2分の1以内を補助することができる」と謳われた。
 これにより補助率が年々増加することが期待され、数年後には約3割(29.5%)に達したものの、これをピークに補助率は低下の一途を辿った。最近では、10%前後にまで落ち込んでいる。
 日本私立大学協会の私学高等教育研究所(私高研)第2代主幹、瀧澤博三は「2分の1の目標は雲散霧消の呈である。国の財政事情もあったが、『私学政策』が、その枠組みも明確な形で形成されないまま、大学の大衆化、規制緩和に伴う市場主義に突き進んでしまったことに、大きな要因がある」(『高等教育政策と私学』)と指摘した。
 そして「政策を担うものとしての個々の大学、大学団体、行政の3者の役割分担も不分明なまま、必要な行政のツールさえも失われそうな形である」と嘆いている。そこまでに至った原因はどこにあったのだろうか。

■「私学任せ」の戦後の進学者受け入れ

 塩崎試案には、さらに注目すべきことが書かれていた。「大学進学率の上昇で、今後、増大する高等教育進学希望者は、私立の大学(短期大学を含む)を中心として受け入れることを建前とする」と。
 私立大の数は、1960(昭和35)年に140校だったものが、70年には274校と10年間でほぼ倍増した。国公立大は、合わせても3校しか増えていない。
 省令化された大学設置基準も、1963(昭和38)年の中央教育審議会(中教審)の「38答申」によって改正され、それに基づいて私立大の設置認可が進められた。
 私学重点策は当初、国からの財政支援が伴わずに見直しを迫られたが、70年代半ばに私学助成法の成立をみると、塩崎の発言のように国も文部省も私学中心の進学者受け入れ態勢を突っ走ったのである。
 1971(昭和46)年の「46答申」は、「私立大の設置は、国の全体計画を前提とした規制を加えず、一定の基準に合致すると認められたものは認可する一方、その維持経営には国として直接の責任は負わないとしたため、問題が生じている。大都市に集中したり、文科系の収容力が不均衡に増大したり、また財政的な基盤が弱いため、学生数を過大にして教育条件がいちじるしく低下したものも生じている」と指摘していた。
 そして「私立の比重が増加し、国立はその収容力において全体の約20%を占めるにすぎない。この事実を無視して今後の高等教育の整備充実を考えることはできない。長期の見通しに立った国としての計画がなければならない」と強調した。
 答申を受けて文部省は、「高等教育問題懇談会」を設置する。産業界や大学・高校関係者らを集め、①高等教育の量的拡大について②国公私立大の割合のバランスについて③進学率の地域格差について...など9項目を掲げて審議した。
 最終報告は、私学助成法が成立した翌1976(昭和51)年に提出されが、その内容は期待外れだった。
 放送大学教授、橋本鉱市は「懇談会の審議は、それまでの自由放任主義に初めて、一定の抑制をかけるものだったが、政策面ではむしろ拡大基調を踏襲し、大学規模の目標値や算定方法、それを支える理念についても数合わせ的な意味合いを否定できない」と厳しい評価をしている。
 文部省で高等教育局長もつとめた大崎仁は著書『大学改革1945~1999』で、「入学志願者の急増期に、国が思い切った国立大学の拡充策をとらなかったことが、私学中心の大学大衆化の流れを決定的なものにした」と述べている。

■「私学政策の欠如」がもたらした混乱

 1980年代後半から2000年代前半に再び大きく増加した私立大は、2022(令和4)年には620校に達する。大学全体は807校となった。
 2004(平成14)年、私高研主幹になった瀧澤の評価は厳しい。旧文部省で長く大学政策を担当し、その後の東京大事務局長や帝京科学大学長としての実務経験も踏まえて、本紙「アルカディア学報」などで次のように論じている。
 明治期以降の高等教育政策は、国立の学校を全国的、計画的に配置することで遂行され、私学はその計画性の中に含まれることはなかった。この政策運営は、戦後の改革によって変革されなければならなかったが、国立中心の行政の意識は本質的に変わらなかった。
 私立学校法によって私学が「公共性」「自主性」の理念を確立したことも、結果的には行政と私学との距離を広げ、国の私学政策をいっそう見えにくいものにした。そうして国立は国の政策の下で教育研究の基盤を固め、私学は、市場に軸足をおいて特色を活かしつつ自律的な発展を図る、という二元的な政策運営がつづけられた。
 私学に対しては「設置審査」と「私学助成」の2つをツールとして間接的、誘導的な統制がなされたが、21世紀初頭から急激に進められた規制改革によって、この2つのツールの効力も、大学設置の計画的調整という機能も行政から失われた、という。
 なぜ、そうなったのか。瀧澤は、国の財政事情もさることながら、「行政の私学へのスタンスの曖昧さ」が根本的な要因だと指摘する。
 1981(昭和56)年、財政難に直面した政府は臨時行政調査会(臨調)を発足させ、高等教育改革でも「(費用負担は)教育を受ける意思と能力を持つ個人の役割を重視する」として、私学への経常費補助の抑制を加速させた。
 そして「国公私立を通ずる総合的大学行政を進める体制整備」を求めたのだが、瀧澤によれば、その後も「確かな私学政策が形成されないまま推移」したのだった。

■「公費支援の説明不可能な国」の矛盾

 1963年の「38答申」の年、私大協の第5代会長に和洋女子大の初代学長を務めた稗方弘毅が就任した。稗方は1965(昭和40)年の本紙の1月1日号に、次のような「新春所感」を載せている。
 「現在、私立大に学ぶ者は、わが国高等教育全体の約7割を占める。つまり、将来の指導者となるべき学生の教育の大部分を私立大が担い、日本社会の振、不振はすべて私立大が鍵を握っていることになる。しかし、世間や大蔵省当局者らの間には、私立大は民間の自由な意思によって設置運営されるのだから、その経費も自らが調達して経営にあたればよい、と設置者負担主義を唱えて、識者の声に耳をかそうとしない向きがある」
 「今日の私立大は明治期とは本質を異にし、私立学校法、教育基本法においても規定された公の教育機関である。国公私立の各大学が、同一の大学設置基準に準拠して設置されていることからも明らかだ。国立と私立に対する国の不平等施策は、学問や教育の進歩発展を阻害するものであり、憲法に保障する教育の機会均等の理念にも反する」
 この談話から58年、国の私学支援の貧困ぶりは改善される様子がない。最近では、大学教育の「質」をめぐる危機感ばかりが叫ばれ、2008(平成20)年の中教審答申「学士課程教育の構築」を契機として大学改革の中心的課題として浮上し、議論は私立大の管理体制(ガバナンス)の見直しにまで突き進んだ。
 昨年10月の経済協力開発機構(OECD)の発表によると、私立の高等教育機関に在籍する割合は日本では79%と、OECD平均(17%)の4倍以上になる。日本の学生たちの私費負担の割合は67%と、OECD平均の31%を大きく上回る。
 戦後の進学者の80%近くを一貫して受け入れてきた私立大に、現在の矛盾の原因を押し付けることは歴史的に見ても許されない。その底流には、「公費支援の説明不可能な国」(瀧澤)の政策不全があることを私学人は訴えている。(敬称略)