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特集・連載

私大の力

<27> 共通テスト3回目
設問に新傾向
各教科とも「読解力」を重視

平山一城

■生誕100年、司馬遼太郎の懸念から

 今年は作家、司馬遼太郎の生誕100年である。いろいろ催しが企画されるが、東大阪市の自宅跡にある司馬遼太郎記念財団では、「好きな司馬作品」のアンケートを実施し、先日その結果が発表された。
 数年前、将棋の藤井聡太が14歳で公式戦の連勝記録を樹立したとき、司馬作品の『竜馬がゆく』を愛読書にあげたと聞いてびっくりした記憶がある。しかも、彼の受け答え、たとえば「連勝できたのは実力からすると僥倖(ぎょうこう)としかいいようがない」といった表現も、とても普通の中学生のものとは思えず、たくさんの本を読んでいる証しに違いないと考えた。
 司馬は力説していた。文章と映像との違いについて、たとえば「向こうから若い女性が来た。花柄の半袖のワンピースを着ている。髪が風になびいている」といった光景も、映像では一瞬で、夏のことだろうと伝わる。
 しかし文章では、そう判断する材料を自分の頭で組み立てる作業が必要になる。そうして知性や感性が鍛えられていく。
 司馬作品では、言葉遣いの厳格さも徹底し、夫婦間の言葉、友だちの言葉、上下の言葉をきっちり使い分ける。明治政府は、江戸時代からの元旗本たちの言葉を採用して標準語を作り上げた。司馬は、その上品な日本語を大切にし、「楽なほうがいい」とどんどん言葉を崩していく風潮を苦々しく見ていた。
 最近も文化庁は、「中途半端でない」を「半端ない」、「正直なところ」を「ぶっちゃけ」としても気にならない人が多数派だった、との調査結果を公表していたが、亡くなって27年になる司馬だったら、何と言っただろう。
 「メシ(飯)」や「ネル(寝る)」は家の中では通じるが、社会ではどうにもならない。そう司馬は語っていた。子供を育てるには、なぜ飯が食べたいのか、なぜ眠たいのか、どうして腹が痛くなったのかを、的確な言葉で表現できるようにすることが大事で、それが「大人」になるということなのだ、と。
 今年の大学入学共通テスト(1月14、15日)は、センター試験を引き継いで3回目だが、その設問はセンター試験とはかなり違うものになったとの印象を受けた。「マーク式」は変わらないが、予告された「思考力・判断力・表現力」重視の方針が色濃く出ている。
 とくに「読解力」を試す問題が各教科で目立ち、日本語の乱れを正そうとする意図が感じられた。

■「語彙力」がないと解けない問題多く

 その1例をあげると、「国語」の第1問、「ル・コルビュジエは、ブエノス・アイレスで行った講演の中で」の文章で、この「行った」と同じ意味は「次のうち、どれか」として、「①行シン、②行レツ、③リョ行、④リ行」の4つが列挙された。
 文例にある「行った」と同じ意味を持つ漢字の選択だが、簡単ではない。どこかに「行った」、どこかに出かけるという意味ならば「旅行」の③になる。しかし、「ブエノス・アイレスで行った講演の」とあるから、この「行った」は「いった」ではなく、「おこなった」と読まれなければならない。①も②も「移動」の意味であり、「おこなう」の意味で使われているのは4例の中では「履行(りこう)」だけ、正解は④になる。
 この問題は、日本語の意味についての感度が求められる。語彙の知識が重視され、単純な漢字力だけ、漢字の意味を知っているだけでは、解けない。
 漢字の根本の理解が必要になるという意味で、これまでにない出題傾向ではないだろうか。テスト問題を作る側が予告した「思考力・判断力・表現力」を反映した一例と捉えられると思う。
 言葉の意味を深く理解していれば、読むスピードは速くなる。「履行ってどういう意味だろう」と考えているようでは、読解はスムーズにいかない。長い文章を読むときには、語彙の力が不可欠なのだ。
 今回、この傾向はほかの科目でも見て取れた。「世界史」では、多くの受験生が「国語のように文章量が多い」「資料の読み取り重視で、知識量だけでは通用しない」との感想を語った。長い文章を読ませて、問題はわずかに1問というものも散見された。
 センター試験のときならば、たとえ長い問題文が与えられても、当てずっぽうが利くような設問も少なくなかった。しかし今回の共通テストでは、長い文章を読み、場合によっては前の設問の問題文を確認しながら読まなければ正解が見つけられない問いもある。
 この傾向は英語や数学でも言えることで、今後の共通テストでは、日本語の語彙力、読解力が重要なポイントになることを予感させるのである。
 小学校から司馬作品を愛読したという藤井聡太のことが再び、脳裏に浮かぶのだった。

■何でも「やばい」で済ませる若者たち

 昨年、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文芸春秋)で話題になったジャーナリスト、石井光太は、何ごとでも「やばい」で済ませる最近の若者について、「語彙が非常に少なく、ごく少数の単語によって日常会話が成り立っている」と危機感を露わにする。
 少ない語彙で日常を回していると、自分が今どういう状況に置かれているのか、自分はどう思っているのか、何がしたいのか、言葉で考えられなくなる。困難に直面しても、どうしていいのかさえ考えられずに、思考停止してしまう。
 スマホのSNS(交流サービス)は使いこなしても、SNS上の言語は非常に短く、感情を極端な単語で一括りにして、パッと吐き出す傾向にある。きちんと思考して論理だった説明をしていたら、「長文ウザっ」となるから、その瞬間の感情をわかりやすく極端な単語やスタンプ(絵入りハンコ)で済ませる、と石井は言う。
 しかし、現実のコミュニケーションはずっと複雑で、人と深く付き合い、信頼し合うためには考えて行動する必要がある。うまくいかない時にこそ、言葉をよく考えて、いかに関係性を築くかが問われる。現状は、SNSの言葉の使い方に侵食されて、深い人間関係を構築することが難しくなっている、との指摘だった。
 明治大学教授の伊藤氏貴は、石井との対談の中で、「文学部なので、それなりに本を読んだり、書いたりしたいと思っている学生はいますが、それでも最近強く感じるのは、『読書で背伸びをしなくなった』ということ」と語っている。読みやすい本ばかりを読んで、少し難しいけれど読んでみようというチャレンジをしない。だから読めるものの水準がさっぱり上がらない、という。
 そのうえで、「昔は、まわりの友達から難しい本の話題が出ると、その場では知ったかぶりをして合わせて、帰ったらすぐその本を読むとか、次に会う日までに理論武装していくような教養文化が大学生の間にありました。それは見栄ではありましたが、相手についていこうということでもあった。こういう『知的な見栄』など張らない方が楽なのかもしれませんが、難しい書物に手をつけないのは、作者が掘り下げた複雑な思考を最初からわからなくていいや、と手放してしまっているのです」と嘆いている。

■高大連携での日本語力の見直しが急務

 文科省は人間の「生きる力」の源泉として、「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の4つを中核とする「国語力」の大切さを強調してきた。しかし現状は、大学だけでなく、ネット社会を生きる子供たちをどう育むかという重大な壁にぶつかる。
 センター試験から共通テストへの移行に代表される「大学入試改革」は、国が進める「高大接続改革」のひとつであり、背景には、こうした将来への強い危機感があった。現在の高校生や小・中学生が社会に出るころには、情報化はさらに加速し、少子高齢化やグローバル化と相まって、社会は大きく変化していく。
 新型コロナウイルスの流行により、リモートワークやオンライン授業など、以前には身近でなかった通信手段が社会生活に入り込んでいる。そうした環境が、若者たちから読書の習慣を失わせ、「生きる力」の源泉である国語力の急速な低下が懸念される。
 先日、母親とSNSの使い方で対立した13歳の少女が、その母親を刺殺するという事件があった。昨年は、共通テストの会場でスマホによる不正が発覚した。
 日本語の読解力を重視する大学共通テストは、こうした新たな事態に対処するためにも評価すべきだろう。この社会では、すでに、従来のコミュニケーションのあり方そのものが変質しつつあり、現実を深刻に受け止めた対応が求められる。
(敬称略)