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特集・連載

私大の力

<26> 教育学術新聞70年 其の一
「私立の味方」貫く
確かな「政策集団」目指して

平山一城

■昨年秋、通算2900号突破の偉業

 本紙(教育学術新聞)は今年、誕生から70周年になった。
 創刊は1953(昭和28)年9月15日、日本はその前年、敗戦にともなう6年にも及ぶ占領期を経て、国としての再起(独立)を果たしたばかりだった。
 戦前の教育体制を大転換した連合国最高司令官総司令部(GHQ)の方針によって、私立の新制大学が急増し始めた時期だった。
 日本私立大学協会(私大協)の機関紙として、「私大振興のための関連ニュースを建設的な評論や提言とともに中正迅速に伝える」を編集の柱としてきた。
 月1回発行でスタートして3年後、現在の週刊に切り替わった。昨年秋に通算2900号を突破し、わが国の教育学術界の代表的専門紙となっている。
 発行母体である私大協の会員校も411大学(昨年末現在)とその数を増やしてきたが、ここに来て私立大を取り巻く環境は急速に厳しさを増した。
 昨年の日本の新生児の数(年間出生数)はついに80万人を割り込み、少子化は予測以上のスピードで進み、地方の過疎化も激しい。
 加えて、ここ3年来の新型コロナウイルス感染症による教育環境の変化、学校法人のあり方を問う私立学校法改正など課題が山積する中での新年となった。
 本紙の編集兼発行人である私大協常務理事・事務局長、小出秀文は記者のインタビューに「今年の新春座談会のテーマを『予測困難な時代の高等教育』としたのも、そうした認識がある」と語った。
 そして「新たなチャレンジのために問題点を整理すべき時に来ている。時代の変わり目には、こだわりを持って守り抜くべきものは何か、新規に取り入れて進めるべきものは何か、その点をしっかり見据えることだ」と強調する。
 小出は早くから、私大と国公立大への国の待遇格差をなくすパラダイム・シフト(構造的大転換)を掲げたが、依然として格差は解消されないとして、「私大を応援する新聞」の使命の重要性を力説する。
 大変化の現代に本紙のあるべき姿を考えながら、70年の歴史を振り返りたい。

■黎明期に発行を決めた初代事務局長

 「敗戦直後の私学人たちは、どんな思いで私大協を立ち上げたか。中心にいたのは初代事務局長の矢次保さんです。外地から引き揚げ、焼け野原となった日本を見て、2度と戦争をしない平和で文化的な日本を創ろうと考える。その思いに共鳴して私立大の再編・新設に向かった人たちと、この団体を軌道に乗せたのが彼でした」。小出は、こう振り返る。
 本紙の発刊を主導したのも矢次だった、という。
 戦後の私大組織は1946(昭和21)年に全国私立大学連合会が誕生した。私大協はこれを母体に2年後に結成される。会員校は43大学だった。
 ところが間もなく、旧制大学系と新制大学系との間に感情・利害対立が生まれる。現在の東京6大学のような旧制系を中心に23大学が私大協から脱退し、1951(昭和26)年に日本私立大学連盟を結成する。この年さらに私立大学懇話会(7大学)も組織された。
 戦後の私大システムは私立学校法の成立を経て、大学設置基準の策定・省令化、アメリカ流のアクレディテーション(評価認証)方式導入と、GHQの主導案が次々に展開される中で大学人の戸惑いも広がる。
 GHQは「日本の軍国主義成立には戦前の官立優先策、とくに帝国大学の影響が大きかった」として文部省の廃止、さらに帝大解体とともに国立大の地方移譲案も検討した。いずれも極端な官高私低、私学蔑視の風土を転換する目的だった。
 私立大はこの私学優先の施策によって拡大が促されたが、文部省の廃止には難色を示した。大学全体のまとめ役を失うことは、極端な体制転換に伴う混乱をさらに加速させると見たからだった。
 「矢次さんは、この転換期に新聞発刊を考える。私学団体の分裂騒ぎの根っこには、入学志願者の奪い合いがあり、旧制系の大手大学は新制大との志願者の奪い合いを嫌った。矢次さんは新制大が中心となった私大協の加盟校に、混乱期の国の政策や関連情報をいかに正確、迅速に伝えていくか。団体の主張や提言をどうまとめていくか、を思案していた」
 小出は、本紙の生い立ちをそう回顧する。
 私大協に奉職して50年になる小出には、ファックスもインターネットもない時代に新聞が果たし得る役割に着目し、私学団体として結束し、その主張を訴える手段として新聞発行を断行した矢次の慧眼(けいがん)が偲ばれるという。

■私学助成法の攻防で政治家の理解も

 元私大協会長の故大沼淳は生前、記者とのインタビューで矢次について「旧陸軍中野学校の出身で、戦争中の諜報や宣伝などに関する訓練を受けていたこともあり、とくに戦略論に優れた人だった」と語っている。
 矢次は私大協の設立時から亡くなるまで、実に38年にわたり事務局長をつとめ、新制大学を背負って立つ若手リーダーを多く育てた。
 「仲間内で『矢次スクール』と呼ばれる勉強会があって、のちに事務局長になる原野幸康さんが世話役で、私学経営を引き継いだ2世の人たちも参加しました。国の進むべき道や日本の高等教育のあり方を考えながら、新しい時代の大学をどう運営していくか。矢次さんが一流の戦略論を説いたのです」(大沼)
 こうして私立大や私大組織のあり方、行政当局と交渉にあたる際の心得などを学んだ私学人は少なくないという。
 私立大が急増した1960年代、学科増設や学生定員の増減は届け出さえすれば自由という状態にあり、文部省(当時)の調整力は限られた。
 ここに大学紛争の波が押し寄せる。それは、インフレによる経常費増大に対処する大学が学費値上げをしたり入学者を水増ししたりという現実に、学生たちが反発したことに端を発していた。
 私大側は人件費補助を制度的に認めるよう政府や自民党に申し入れる。1970(昭和45)年度予算に人件費補助を計上する問題で、私大側に立ったのが戦後文教族の第1世代といわれる坂田道太だった。
 佐藤栄作内閣で文部大臣になった坂田は、地道に教育分野での経験を積んでいった数少ない専門家で、私大への人件費補助を大臣在任中の公約にしていた。大蔵省(当時)との大臣折衝はのちの語り草になる激しさだったが、坂田は粘り腰で補助を実現し、75年の私立学校振興助成法(私学助成法)への道筋をつける。
 この法律は自民党の議員立法で、その法案づくりに坂田門下の若手の文教族議員たちが当たった。
 大沼は「あの時は、各私学団体が一致して運動を展開しましたが、その際、大学も交渉窓口を一本化すべきだとなった。政治家からも圧力があり、私大組織の連合体(現在の日本私立大学団体連合会)が設立されるのです」と振り返っていた。
 連合会が発足するのは1984(昭和59)年4月、奇しくも矢次はこの直前に亡くなり、私大協が協会葬を営んだ3日後に連合会がスタートしている。

■信頼を得て行政側と政策練り上げも

 「今、その歴史を語れるのは、私だけになりました。新聞への信頼感が高まるにつれ、発行人として背筋も伸びます。ここに来ての私学法見直し、ガバナンス論議に、いち早く私大協として『ガバナンス・コード』を作成して会員校にお示ししたのも、そうした責任を全うしたいという思いからです」
 その小出には駆け出しのころの苦い経験もある。「先輩から、政府の施策に意見書を書くよう命じられた。私大協に入った直後からです。しかし、意見書を文部省に届けると、『何のつもりだ。役所にたてつくのか』と怒り出すような課長さんも当時はいたのです」
 私大組織の意見書としてまとめた以上、簡単には引き下がれない。文章を練り上げる作業を繰り返す。国の文教政策に通暁するための勉強を深める。新聞を舞台に、学会や政財界の識者たちとの意見交換も積極的に進めた。
 2000(平成12)年には、私学高等教育研究所を設置して調査・研究力を充実させ、その成果を紙面に展開している。
 私立大は独立自尊の創設者の理念、「建学の精神」があり、それを忘れては私学ではない。この考えに基づく新聞づくりが、各大学との意思疎通のパイプを太いものにし、「確かな政策集団」を目指す私大協の主張形成に大きく貢献してきた。
 そしてその結果として、最近では国の政策立案者たちとの信頼関係も深まり、私大側の意見も積極的にくみ入れてもらえるような建設的な環境ができつつある、と小出は認識している。
 しかし、念願のパラダイム・シフトは道半ばだ。国公立大との待遇の違いは依然として大きく、その格差解消のための紙面づくりはこれからも本紙編集の柱になる。
 小出は「オンラインが普及したコロナ後の大学では、新しいアイデアも求められる。困難な時代の大学像をどう描いていくか。人類のため、日本社会の発展のためという大学の本分を掲げて、この新聞の価値をさらに高めていきたい」と誓っている。   
(敬称略)