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特集・連載

私大の力

<23> 学制150年と私学法
占領期の改革論議から
GHQに挑む骨太の私学団体

平山一城

■ある旧文部省官僚が語っていたこと

 今年は明治5(1872)年に学制(日本最初の近代的学校制度)が発布されて150周年になる。記念事業も開かれているが、ここでは、私立学校とその設置主体である「学校法人」に関する規定との両方が法定されている戦後私立学校法の生い立ちを振り返ってみたい。
 今年は奇しくも、学校法人のガバナンス(組織統治)問題がクローズアップされ、この秋の国会には、私立学校法の改正法案が審議入りする見通しだ。
 学制以後の歴史のなかでも、敗戦をへて戦後占領期にその骨格が作り上げられた私立学校法では私学の位置づけが戦前と比べてどのように変化したのか。その立法過程に立ち会った1人の旧文部官僚の証言をもとに考えてみたい。
 元文化庁長官、安嶋彌(ひさし)である。敗戦翌年の昭和21(1946)年に旧文部省に入省し、初等中等教育局長や文化庁長官などを歴任後、12年にわたり宮内庁東宮大夫として平成の天皇(現・上皇陛下)の皇太子時代を支えた。5年前に95歳で亡くなった。
 安嶋は、自身の著書『戦後教育立法覚書』のなかで、私立学校法の制定経過について詳しく論じているが、これを補足する形の論文を本紙(教育学術新聞)のアルカディア学報(平成16年4月21日号)に寄せていた。
 この年は私学法の制定から55年の節目の年であり、安嶋は論文の冒頭で「戦前の私立学校令の50年を超えたが、思えば制定当時の関係者、大浜信泉(早稲田大)、永沢邦男(慶應大)...、矢次保(日本私立大学協会事務局長)らはすべて物故され、文部省側をも含めて、生き残っているのは最年少の私だけ」と書いた。
 明治以降の学校教育政策は官公立中心主義で、戦前の私学はその補完的なものと考えられがちだった。安嶋は、新しい私学の在り方を志向する関係者たちと、「ときには水道橋の『松村』という旅館に徹夜の泊まり込みをして」立法に向けた議論を交わした。
 しかし、そこには常に、占領機関である連合国最高司令官総司令部(GHQ)の教育担当、民間情報教育局(CIE)の指導・監督の目があった。
 特筆すべきは、そのなかで戦後再編された私大協などの私学団体がCIEにも積極的に意見具申し、私学法の方向づけに大きな影響力を持っていたことだと安嶋は言う。アルカディア学報の論文によって、その一端を知ることができる。

■強権的「官」に対する不信感が根強く

 「その頃、私が不審にたえなかったことは、私学側の官(文部省や府県庁)に対する、余りにも強い不信感である。なぜそういう疎隔が生じたのであろうか」
 入省早々、そんな感想を抱いた安嶋は明治32(1899)年に制定された戦前の私立学校令について「当時の一般的な風潮からとはいえ、極めて強権的なものであった。余り知られていないが、その制定の背景には、(欧米列強との間の)不平等条約改正という国家的な悲願があった」と指摘する。
 不平等条約の改正には、それまで特定の居留地にしか住むことを認めなかった外国人たちがどこにでも住めるよう「内地雑居」政策に転換することを迫られた。当時の日本政府はそのことを恐れた。
 「(最大の懸念は)キリスト教の宣教師が全国を自由に巡回してその教勢を拡大することであった。島原の乱から300年近く経過しているにもかかわらず、キリスト教に対する当局の不安、不信の念は大きかったのである。私立学校令制定の眼目はしたがって、キリスト教系の学校をいかに統制し、監視するかにあった」
 実際には、外国人の内地雑居が認められても、「明治初年のようにキリスト教は教勢を爆発的に拡大することができず、当局は愁眉(しゅうび)を開いた」という。
 一方で、安嶋は触れていないが、薩摩・長州勢力が幅をきかす藩閥政府が、私学が反体制派の温床になりかねないとして冷遇したとの見方もある。
 いずれにしても戦前の教育政策は私学に厳しく、私立大学が正規の大学として認められたのは私学令制定からほぼ20年後の大正9(1920)年であり、学制発布から半世紀が経っていた。
 日清・日露の両戦争に勝利した日本は、その経済圏をアジアを中心に拡大し、帝国大学など官立だけでは高等教育人材(学士)が不足するようになる。そうした背景もあって、私立・公立の大学設立を認めた大学令が出された。

■私学側の視点で「新制大学像」を描く

 昭和10年代に入って、戦時体制が強化されるのに伴い、強権的であった私立学校令が私学一般の監督の強化に用いられることになり、私学側の「官」に対する不信感はさらに増幅していく。
 戦後の私学法制定への議論に最年少メンバーとして加わった安嶋の感想は、そうした戦前からの私学側の不満を率直に認めるものだった。
 従って、その改革論議では、敗戦直後から日本の大学体制を変えようと立ち上がった私学の関連団体が積極的に動いたのは当然だった。その立場はGHQの思惑と重なる部分も多く、それまでの極端な官高私低、私学蔑視の風潮を転換させる。大学関係では、GHQの意向で大学基準協会が組織され、新制大学像を作りあげていく。
 安嶋は「私学行政は、私学団体が自主的に行うべきだとする思想が底流にあった。そこにはCIE(GHQの民間情報教育部)の内部にあったと言われている文部省の廃止論(公式には提示されたことはない)の影響があるかもしれない」と言う。そして「文部省が私学に対して敵対的でないことがようやく理解された」と、戦後の文部官僚として私学側との微妙な関係がしばらくつづいたことを示唆している。
 そのような議論を経た戦後の新制大学は、次のような形になった。
 学部卒業のシステムに単位制度(卒業単位124単位)を導入、学生の健康増進と高い衛生観念を身につけさせるための保健体育(実技・理論)の必修化、旧制高校・大学予科制度の廃止、師範学校の廃止、女性のための大学の創立など、大規模な教育改革を推進する。
 これらはGHQの主導のもとで実施に付され、旧帝大を頂点とする学校間のヒエラルヒー(序列格差)の縮小が図られていく。
 「CIEは大学設置に関する文部省の認可権は認めながらも、大学の実際の評価はアメリカの例に従って『アクレディテーション(評価認証)』にあるとし、大学基準協会という民間団体を設置して大学行政の中核たらしめようとした」
 安嶋はこう回顧しながら、「(一連の流れには)戦後誕生した私学団体の強烈な関与があった」と証言している。

■地域に根差し、学修者本位の理念主導

 では学校法人制度を構想する上での国の政策意図は、どのようなものだったか。
 信州大学准教授、荒井英治郎によると、安嶋との共著がある元文部官僚の福田繁は「私学の教育行政は終戦を契機として大きな変化があった」としつつも、「ある面においては戦前戦後を通じて一貫したものが流れている」という。
 文部省は戦前、私学を財団法人化するなかで行政裁量を広範に働かせてきた経験から、財団法人規定の不備や欠陥を痛感していた。
 私立学校の経営主体を強化し、私学行政を改善するには「学校教育の特殊性」に合致した新たな特別法人の創設が必要になる。文部省は戦争中から、教育面と経営面とを調整できるような「融通性のある教育的な法人」を模索し、そうした考え方に立った学校法人法構想を持っていた。
 戦後の私立学校法には、私立学校とその設置主体である「学校法人」に関する規定との両方が法定されるが、そこには、そうした文部省の考え方も反映された。
 そのうえで従来の財団法人と明確に区別するために、法人を代表する理事会とともに運営委員会(のちの評議員会)が設けられた。
 日本の私立大学は、この新しい私立学校法のなかで現在の発展を勝ちとったのである。
 戦後の大学では、「誰のための大学か」という視点が重要視される一方、「地域との連携」の必要性が高まった。これらは、戦後次々に誕生した私立大が建学の精神のなかで紡いできた理念である。それこそが、官(国)立中心だった戦前の高等教育システムから転換するうえでの課題だった。
 それは、リベラルアーツ教育や「地域に応じる姿勢」を重視したGHQの方針に沿う形で展開したものだが、いま、「学修者本位」の徹底や地域活性化に果たす大学の役割といった言葉で改革が進められている現状を見るにつけ、そうした方向性を一貫してリードしてきたのが戦後の私学であったことは強調したい。
 米国の占領政策の考え方を日本の土壌にからませ、高等教育の日本型の独自性を形づくる原動力となっていたのは私学だったと言っても過言ではない。