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特集・連載

私大の力

<22> モンゴル国交50周年
「怪童」待望の初優勝
日本留学熱も大相撲に負けず

平山一城

■「長かったな...」入門8年半での栄冠

 7月の大相撲名古屋場所で、幕内の逸ノ城(いちのじょう)が初優勝を飾った。記者会見で「本当にほっとしている」「長かったなと思う」としみじみと語っていた。
 モンゴルの遊牧民出身で、身長1メートル92、体重は現在の関取で最も重い211キロ。その堂々たる体格で衝撃のデビューから8年半、29歳になっていた。
 今年は、日本とモンゴルが外交関係を樹立して50周年にあたる。相撲界では、モンゴルから来日した力士が初土俵を踏んだ平成4(1992)年から30年という節目の年に、念願の栄冠を手にした逸ノ城に筆者も心からの拍手を送った。
 逸ノ城が現在の横綱、照ノ富士と同じ飛行機で来日したことは、相撲ファンにはよく知られている。平成22(2010)年のこと。鳥取城北高などを経て4年後の初場所でデビュー。しこ名の「逸」にはモンゴル名のイチンノロブと「逸材」の意味を込め、「城」は母校から一字もらった。
 怪童、怪物などと注目されたが、当時は白鵬、鶴竜、日馬富士というモンゴル出身の3横綱が君臨していた。この先輩横綱たちに圧倒され、日本人の番付上位の力士にも苦戦して、期待された活躍を見せることができずにいた。
 今回、その照ノ富士を負かしての初優勝だったから、8年半の苦労が報われたとの特別の思いがあったに違いない。
 モンゴルは日本私立大学協会(私大協)の「国際交流事業」でも、重要なパートナーだ。先月の理事会では、首都ウランバートルにある私立大学、モンゴル文化教育大学の「モンゴル日本国交樹立50周年」国際学術シンポジウム(9月初旬)を後援することを承認している。
 その学術交流は、大相撲でのモンゴル力士たちの活躍と足並みをそろえるように着実に発展してきた。外務省も今年を、モンゴルとの「青少年交流推進年」として、さまざまな記念事業を実施している。
 この機会にモンゴルとの大学交流の歴史を振り返りたい。

■「おしん」・相撲で過熱した日本ブーム

 モンゴルの人口は約330万人だが、このうち30歳未満の人口の占める割合は53%と若い国である。そして日本ではあまり知られていないが、いわゆる「学歴社会」で、とくに就職にあたっては高等教育で修めた専門知識が重視される。
 最近の大学進学率は70%を超え、修士や博士の学位に対するニーズも高いことから、社会人がさらなるキャリアを求めて大学院に進学したり、海外留学したりするケースも少なくない。
 以上は、モンゴル日本人材開発センターの滝口良が日本学生支援機構(JASSO)のウェブマガジン『留学交流』(令和2年9月号)に寄せた文章から引用した。
 このセンターは、市場経済への移行を目指す国々を支援するため、国際協力機構(JICA)によって平成12(2000)年からアジア地域の9か国に順次設置され、JASSOとともに各国からの日本留学の支援事業も展開している。
 その現地調整員である滝口によると、モンゴルから日本への留学は国交樹立後の50年間で次のような4つの時期に分けることができるという。
 ①国交樹立後の「国費留学」時代(1972年~1990年)
 ②民主化後の「日本ブーム」時代(1990年代前半~2000年代前半)
 ③「留学先の多極化」時代(2000年代後半~2010年代)
 ④「第2の日本ブーム」時代(2010年代後半~現在)
 この文章の掲載は2年前の9月だが、この4つの時期区分にはそれぞれに解説がつけられていて非常に参考になる。
 2番目の民主化後の「日本ブーム」時代は、平成3(1991)年にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が崩壊して冷戦体制が終息し、モンゴルが民主化・市場経済化するなかで一気に到来した。
 その火付け役になったのは、NHKの朝の連続テレビ小説「おしん」や大相撲のモンゴルでのテレビ放送だった。
 「おしん」は日本では昭和58(1983)年4月スタートだが、翌年秋のシンガポールを皮切りに世界の60以上の国と地域で放映され、大反響を巻き起こした。
 貧しい農家に生まれた少女が激動の時代に、さまざまな辛酸をなめながら女の生き方、家族のありようを模索しつつ必死に生きる姿を描いた作品は、モンゴルでも「『おしん』を見ていなかった者はいない」という人気になった。
 同時期には、大相撲も「放映時間になると定期バスまでが運行をやめて、誰もがテレビにかじりついていた」という。
 このブームを受けて日本への留学生も急増し、民主化から約10年後の平成14(2002)年には日本における出身国(地域)別留学生数でモンゴルは第10位(544人)になっていた。

■第2ブーム、私大協も現地シンポ参加

 第3期、2000年代後半から2010年代にかけて、モンゴルは鉱山資源の開発により経済発展をとげる。留学先も多極化するなかで、平成19(2007)年度には英語が第1必修外国語となり、日本語は韓国語、中国語、ロシア語などと並ぶ第2外国語のなかの1つという色合いが強くなった。
 しかし滝口によると、モンゴルでは再び、「第2の」というべき日本ブームが到来している。そこには90年代から日本に好意をよせていた世代が親となり、留学適齢期の子供たちを持つようになったことが大きいという。
 実際、昨年(令和3年)度の私大協の「国際交流事業報告書」(担当理事・谷岡一郎)を見ると、モンゴル人学生たちの日本への思いがコロナ禍のなかでも衰えていない。彼らの親の世代の好意的な評価がレガシー(遺産)として読みとれる。
 ベトナム、タイ、インドネシア、台湾、韓国、モンゴルの6か国・地域の学生レポーターの寄稿文が掲載されているが、モンゴルの学生たちの「オンライン中心で、生のコミュニケーションが不足がち」という環境のなかでも真剣に日本語を学び、将来にわたり日本との交流をつづけたいという熱意が、どの文章からも伝わってくる。
 昨年亡くなった北海学園大学元理事長(私大協副会長)の森本正夫はモンゴルの民主化の当初から、この国との関係構築に力を入れ、現在も北海道をはじめとしてその意志を引き継ぐ活動が展開されている。
 モンゴル文化教育大学は「モンゴル国内の大学で、唯一日本語教育を重視した私立4年制大学」の看板を掲げる。私大協は平成28(2016)年、この大学との間で学術交流の協定を結び、その2年後には常務理事・事務局長の小出秀文や加盟大学関係者らも参加して国際シンポジウムを開催している。
 その後も北海学園大学、桜美林大学、中央学院大学、立教大学、日本ウエルネススポーツ大学、日本体育大学など多くの日本の大学が協定に基づく交流活動を深化させている。

■中国以外でもキメ細かな関係づくり重要

 近年の日本ブームの背景には、モンゴルからの技能実習生や労働者の雇用を求める日本側のニーズの高まりがあり、日本での留学・就職への関心とともに日本語教育の広がりも見られる。日本は生活するうえで安心・安全であり、欧米に比べて留学費用も安価というメリットもある。
 しかし滝口によると、そうした関心も「90年代のブームに比べれば控えめ」という。日本語の壁はなお高く、留学を終えて帰国したあとに日本語のスキルを活かした就職の選択肢がそれほど多くないというモンゴル国内の事情に変化はない。
ただモンゴル文化教育大学では、留学生たちの日本企業への就職数は増えている。「なかには自ら企業法人を立ち上げ、日本社会で活躍している者もいる。また50人以上の卒業生が日本人と結婚し、公私ともに両国の交流を深め、円満な生活を送っている」とホームページにある。
 たしかに若年人口の多い国ではあるが人口は少なく、純粋に数の面だけからすれば決して大きな留学生市場とはいえない。日本以外の国々もモンゴルで留学勧誘事業を実施するようになっており、その獲得競争は激化する傾向にある。
 しかし、日本の大学への海外留学生が、とくにアジアでは中国に偏り過ぎていたとの反省が近年、急速に高まっている。その意味でもベトナム、タイ、インドネシア、台湾、韓国など、モンゴルを含む各国との間でキメの細かい関係構築を目指してきた私大協の国際交流事業は貴重なものといえる。
 日本・モンゴル国交樹立50年の今年、ロシアのウクライナ侵攻やそれに伴う中国との関係の見直しなどを考えるにつけ、アジア全体を俯瞰する鳥の目のような留学事業の深化が求められることを再認識したい。