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私大の力

<17> 「遠隔」の上限緩和 学びの「血肉化」とは
まずは「60単位」を有効に!

平山一城

 ■「インターネット」で教育が空洞化?

 インターネットは来年、サービス開始から30年になるという。一世代が経過したわけだ。国内からも世界中の情報を得られることから生活を大きく変えた。
 学校や会社でも簡単に、外部との通信ができる。新型コロナウイルス拡大で大学は、その多大な恩恵を受けている。学生は学校に行かなくても授業が受けられる、いわゆるオンライン(遠隔)授業の普及で大学も救われた。
 「コロナ禍にインターネットというツールがなかったら、そんなことを考えてゾッとする」と話す大学関係者がいた。
 かつて、書物と活字が主役だった時代、「流行り病」があれば、自宅でじっと本を読み、自習をするしかなかった。私のような年代になると、そうした記憶と現代の「学び」の違いが人間の在り方とどう関係するのか、考える。世話になった先生方の顔が思い浮かぶ。大学ではゼミナールを済ませたあと先生と一緒に飲みに行ったり、「合宿」と称して温泉宿に出かけて深夜まで話し込んだり、いくつもの楽しい記憶がある。
 そんな光景が失われることに心が痛む。来月、3年に進級する学生などはコロナ禍に翻弄されるうちに就職活動ということになりかねず、気の毒でならない。
 もちろん、「この非常時に何を語っているのか」とのお叱りを承知で書いている。
 実は、中部大学副学長の本雅史の近著『江戸の学びと思想家たち』(岩波新書)を読んで、考えさせられたのだった。
 本は、学生の活字離れ・本離れが進み、それがインターネットなどのデジタルメディアに置き換わることで、これまでの「知」の在り方が激変する、と論じる。
 インターネットは、「生身の身体」を必要としない認知装置であり、ネット空間では人の身体を離れた「知」が乱雑にあらわれている。そのことが「文字によって考える精神」にダメージを及ぼす。
 コロナ禍でリモートワーク、遠隔授業が常態化すれば、学びにおける身体性の疎外はいちだんと強まり、これまでの教育が「空洞化」する恐れすら否定できない、と。
 人は他者とつながり、群を成して社会システムを築いて進化してきた。初めは身振り・手振りであり、言葉であり、やがて活字が生まれた。
 身体を通して伝達されていた「知」の構造が変化し、学校教育にも空洞化の危険性があるとの指摘に身震いする思いだった。

■試験問題をスマホ転送する新手の不正

 インターネット時代を象徴するような事件が今春、起きた。1月に実施された大学入学共通テストの試験中に、世界史の問題用紙をスマートフォン(スマホ)で撮影していた19歳の女子学生である。
 問題用紙の画像がインターネットによって外部に送られ、家庭教師の紹介サイトを通じて東京大学の学生などが共通テストの問題とは知らずに解答を返信していた。
 これは、スマホという機器によって「外部化された知」をやり取りする新手の犯罪と捉えることもできるのではないか。
 連想したのは「血肉化」という言葉だった。私たちは、「努力して知識を自分のものにすること」を、そう呼んできた。ところが、この女子学生の知識は身体化されず、つまり「血肉化」されることなく、スマホの間を行き来していた。
 調べによると、学生は昨年も同様の手口で不正をしていた。東京の有名私立大に入り直すために共通テストを受けたといい、「成績が上がらず魔が差してしまった」と反省しているという。
 しかし、それほどの向学心があるなら、なぜ、この1年間しっかりとした勉強をし、覚悟を決めて試験に臨もうとしなかったのか。そこでもスマホに頼ろうとしてしまう気持ちの持ち様が理解できない。
 「血肉化」とは、知識を自分のものにするために格闘することだが、そのための努力をしていたのか。
 恐ろしいようだが、本のいう教育現場の変容がこうした形で表れてきているのではないか、と懸念される。

■上限緩和は「特例制度」という縛りで

 中央教育審議会大学分科会の質保証システム部会は、大学での遠隔授業の上限60単位の規制を緩和する素案をまとめた。
 大学設置基準では、卒業に必要な124単位のうち、遠隔授業は60単位までと定められてきたが、コロナ禍にともなって例外的に上限を外すことが認められている。
 今回の決定は、遠隔授業が急速に普及してきた流れを受けたものだが、上限緩和も無条件に認められるわけではなく、「先進的・先導的なプログラム」など一定の要件を満たす場合の特例制度とした。
 来年度には設置基準の改正も目指すというが、いまのところ素案では、特例に指定される大学以外では、現行の上限を原則として維持する方針を示している。これまで述べてきたことを考えて歓迎したい。
 現在でも「60単位」の遠隔授業が認められる。コロナ禍が終息したあとのニューノーマル(新しい日常)で果たして、どれだけの遠隔授業を継続すべきなのか、慎重に検討する必要があるだろう。
 遠隔授業は、通信制大学以外では、平成10(1998)年3月まで卒業に必要な単位として認められなかった。その後、衛星通信などを利用した双方向通信型の授業が30単位そして60単位と認可され、平成13年からは、これにインターネット環境を利用した授業も含まれるようになった。
 しかし、実際には、コロナ前の平成30(2018)年度でみると、遠隔授業を実施した大学は全体の28%に過ぎなかったという。
 遠隔授業の必要性が高まったのは、コロナ禍の拡大という非常事態のなかで学生の学修機会を確保するという緊急避難的な面があったことを忘れてはいけない。
 質保証部会の素案は「遠隔教育の取り組みはまだ、試行錯誤をしながら改善を図っていく段階」と明記している。
 さらに、「大学は知識・技能を習得するだけではなく、全人格的な教育をする場であり、すべてがオンライン環境で代替し得るものではない」とし、コロナ禍で急増した遠隔授業を検証し、今後のための「指針」を設けることも提言している。
 海外では、キャンパスや校舎を持たずインターネット授業だけという大学も登場した。オンラインを活用した教育プログラムで、優秀な留学生を獲得しようという動きも活発化してきた。
 「日本は遅れていた」との声もあるなかで、文部科学省は「面接と遠隔」の授業を併用したハイブリッド型を提案し、「面接・遠隔の2分法から脱却し、双方の良さを最大限に生かした可能性の追求」を訴えている。

■「ディプロマ・ポリシー」での吟味を

 かつて大学は、図書館の蔵書の数がそのステータスを象徴するひとつの指標だった。蔵書数は、大学の知の集積ぶりを目に見えるかたちで示していた。
 しかしいま、学生の活字離れ・本離れはとどまるところを知らず、「知」の集積所としての従来のかたちの大学の基盤が足元から崩れつつある。
 このインターネット時代に、どこに大学らしい教育の基盤を据えなおすのか、難しい課題を突き付けられている。
 その点で、質保証システム部会の素案が「ディプロマ・ポリシー(学位授与の方針)」の再構築の必要性を指摘していることに注目したい。
 各大学は、ディプロマ・ポリシーを達成するための教育方法としてカリキュラム・ポリシー(教育課程編成・実施の方針)をつくるが、その際、カリキュラムのなかにどのように「遠隔教育」を位置づけていくか。
 今回、60単位上限の見直しには、大学側の要請もあった。その結果として、特例制度が導入される。しかしここで、大学はもう一度、平時の授業のなかで「60単位」という遠隔授業の数が本当に必要なのか、必要とすればどのように運用していくべきなのか、しっかりと検証することが求められる。
 それはひとえに、大学がどのような教育を実践し、どのような卒業生を社会に送り出そうとするのか、という「ディプロマ・ポリシー」の再構築にかかっている。
 今後、「先進的・先導的な取り組み」という特例の条件で、遠隔授業をさらに増やそうという大学がどのくらい出てくるか、注目したい。