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私大の力

<16> 回想・石原慎太郎 「多様性」ということ
「東大卒」じゃなくて良かった

平山一城

■「サッカーのタマ拾い」だったスター

 石原慎太郎、先日亡くなった彼ほど、戦後、脚光を浴びつづけたスターを知らない。
 私は2度ほど会っているが、いずれも立ち話で、話の内容よりも、172センチの私も見上げる体躯、スマートさが記憶に残っている。
 自慢はサッカーだった。しかし、神奈川の旧制湘南中学(現・湘南高校)で1年下の評論家、江藤淳は「選手は選手でも2軍の選手で、当時、彼の専門はたしか、タマ拾いだったと思います」(講談社『考えるよろこび』)と語っていた。
 その石原の死後、一橋大学の後輩の報知新聞記者、高柳哲人が書いた追悼文が目に止まった。「一橋に行ってよかった」という記事に次のようにある。
 大学の後輩として「なぜ一橋を?」と尋ねた。石原は当初、京都大学の仏文科志望だったが、弟(裕次郎)の放蕩(ほうとう)、父親の急死で困ったようすを見た父親の友人が公認会計士か弁護士になるよう勧めた。
 弁護士は当時から中央大学が多かったが、「(中大には)あんまり行きたくない」と迷っていると、「うちの大学はどうだ」と一橋を教えてくれた、という。
 高柳はそんなやり取りを紹介し、「京都大だったら、作家や東京都知事にならなかったかも...」と感想を述べていた。
 連想したのは、大学入学共通テスト当日の1月15日、試験会場の東京大学前で刺傷事件を引き起こした名古屋市の私立高2年生のことだった。
 東大や医学部に固執して東大理科Ⅲ類を目指していたが成績が伸び悩み、当日の朝、わざわざ制服に着替えて東京に向かい、受験生2人と通行人の男性を襲撃した。
 この少年はなぜ、東大にこだわったのだろうか。そんなことを考えながら、石原が大学を選んだ経緯を改めて思い起こした。
 高柳の記事は、一橋に入学し会計や簿記の勉強を始めたものの、わずか半年で「何てつまらないんだ」と思うようになり、「その勉強に飽きたからこそ、ペンを執り『太陽の季節』を執筆することができた」としていた。
 以前、このコラムでも書いたが、一橋大学が東京高等商業学校と名乗っていたころ、文部省は東京帝国大学に吸収する計画を立て、それを、あの渋沢栄一が取りやめさせて、独自の大学の道を歩むことができた。
 渋沢由来の一橋の「自由」な環境、それこそが石原の才能を開花させたのではないか。そんなことを思いながら、大学の「多様性」ということの大切さを考えた。

■アメリカ占領にモンモンとした学校生活

 石原の母校、旧制湘南中学は戦時中、とくに海軍兵学校や陸軍士官学校に多くの優秀な生徒を合格させることで有名だった。ところが戦争に敗れると、教師たちがアメリカ流民主主義に傾斜していく。そして「何も考えることはない。東大に入って大蔵省を目指すのだ」と、多くの生徒を東大に入れることばかりを考えるような学校になっていた。
 そんな押し付けが、苦痛でたまらなかった。ある日、公道で道を譲らなかったというので、アメリカ兵に殴られ、教師に呼び出される。石原は「なぜ、戦争に負けたからといって、アメリカに必要以上に頭を下げるのか」と訴える。
 2年になると、病気を理由に1年間休学する。いまでいう不登校を決めこみ、映画鑑賞や絵を描くことに夢中になった。
 やがてアメリカ追随を批判する『「NO(ノー)」と言える日本』を書くことになる作家の原点はここにある。
 江藤淳のライフワークも、この旧制中学での経験が根底にある。敗戦後の日本には占領軍が続々と入ってきたが、湘南中学にもジープに乗ったアメリカの将校が視察にやってくる。彼らの第一の仕事は、戦時中から使われていた教科書に墨を塗ることだった。
 「(日本が)再び軍国主義になるといけないというので、さしさわりのあるところを読めないようにする」。屈辱以外のなにものでもなかった。
 やがて、慶応大学を経てペンで身を立てた江藤が終生の仕事と決めたのが、占領下の日本でアメリカが周到に貫徹したその「検閲」の実態を究明することだった。
 「日本の思想と文化とを殲滅(せんめつ)させるための検閲が、日本人にもたらしたものは自己破壊にほかならない」
 2人のその生き方の根には、日本の大切なものが失われることに目をつむり、「ただ、東大を目指せばいい」と豹変していた大人たちへの不信感があった。

■「オレは大蔵省、うらやましいだろう」

 戦後の「東大・大蔵省」信仰が極まったようすを、かつて、評論家の芳賀綏がコラムに書いていた。
 「東大のトイレの落書きに、こんなのがあったそうだ。『オレは大蔵省に入った。うらやましいだろう。オマエらにはこういうマネはできないだろう』。何という心まずしい青年であろう。一時の興奮で書いたにしても、大蔵省に入るほどの秀才の、学力の裏側がこんなに貧困では心細い」
 「大蔵官僚が断トツ実力者などという国は"官主主義国"で、日本は本当の民主主義国ではないが、かりに断トツの現状を前提にすれば、入省者は日本の首根っこをおさえる立場に立つのだから、なおのこと人間が謙虚で、心豊かでなければならぬ」(人間の科学社『新・売りことば買いことば』)
 これが書かれたのは1990年代前半、「平成」の世が始まったころ、石原や江藤らの奮闘もあって、「アメリカ流」の一本鎗(やり)にもようやく、見直しの風が吹き始めていた。
 同時に、「統治技術者の養成所」(江藤)として明治政府が育成した東京大学を頂点とする高等教育全体の在り方にもメスが入り、91(平成3)年に大学設置基準の大綱化が実施される。それ以降、さまざまな規制から解き放たれた私立大学では「多様化」のカリキュラムの開発競争が展開されていく。
 思えば、「大蔵省に入った。うらやましいだろう」の自慢話もこのころがピークで、このあたりを峠にして「官僚=最高エリート」の風潮が崩れていく。国家公務員キャリア試験といえばかつては東大の独擅場だったが、2000(平成12)年度の東大の合格者は31・9%と約3分の1になり、21(令和3)年度は19%程度にまで減った。
 「仕事がきつい」とか「最近の国会の官僚軽視」が志願者のやる気をそいでいるといった見方もあるが、果たして、どうだろうか。

■30年前「全人教育」を推奨したコラム

 最近の民放テレビでは、東大を中心に一部大学の出身者らを起用したクイズ番組が目立つ。いずれも「東大生がいかに物知りか」と偏差値の高さを強調し、誤った学歴ブランド信仰を助長している。
 「特定の大学生、とくに東大だけを『スター』として扱うような演出は、青少年の心の成長に悪影響を与える」。ある脳科学者は、時代錯誤のテレビ番組をこう批判する。
 報道によると、共通テスト当日に事件を起こした高校生は現場で、「来年、東大を受験します」「偏差値70台だ」と叫んでいたという。東大や医学部だけがすべて、この少年は人生の他の可能性を考える余裕をなくしていた。
 生涯学習が叫ばれ、大学でもリカレント教育の重要性が増しているこの時代の意味をテレビの関係者も考えるべきだ。少年たちにも、人生に挫折はつきものであり、何度でも学び直しができることを伝えたい。
 そのためには東大を唯一の頂点とみる旧時代の思考から脱却し、まさに「多様性」を尊ぶ社会を実現することである。
 大学で公認会計士に興味をなくした石原も「会計を勉強したことは役に立った。それで都知事になれたということもあるんだから」と語っていた、という。人生の学びで損になるものはない、ということだろう。
 もう1つ、30年前の芳賀のコラムを紹介しよう。
 「毎夏、筆者(芳賀)は玉川大学の通信教育部のスクーリングで講義をする。東京南郊、緑深い玉川学園の広大なキャンパスには、社会の中堅層を形づくっている人たちが全国から参集して面接授業を受け、創立者・小原國芳氏の"全人教育"の精神に接している」
 「この大学では、机上の学習だけでなく、『労作』と名づける肉体労働の修練も必修だ。(中略)他の4年制大学をおえて、この通信教育を受けている学生たちが、夏の面接授業に出席して『初めて真の大学生活を知った』と言うそうだ。かの"くされインテリ"予備軍などは、真の全人教育の衝撃をその頭上に加えて、シンから人格を改造する必要がある」
 どうだろう、現在の在るべき姿を予言したかのようではないか。