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私大の力

<15> ガバナンス改革会議の混乱 「地方大学の魅力」でも
今年は「不信」連鎖の払拭から

平山一城

 ■最終の文案で「タイトル」が変わる

 「ねえ、もっと魅力的になろうよ」。そう言われたら、誰でも戸惑う。
 「じゃ、いまは魅力がないというのか...」と、反発心も生まれてくる。現状を全否定されたように感じてもおかしくない。
 大学の場合も、そうに違いない。「魅力ある地方大学の実現に向けて」という中央教育審議会(中教審)大学分科会の論議に、そんな訴えがあったらしい。
 昨年12月15日に開かれた第164回会合で、分科会長(筑波大学長)の永田恭介が「魅力ある地方大学」のタイトルから「魅力ある」を外して、「地域の中核となる大学であるために」に改めることを表明した。
 審議は令和2年9月から1年余にわたって続けられ、この日に最終案が示された。次回(2月9日)の会合で正式提示という最終段階で、タイトルを変えるという事態はなぜ起きたのだろうか。
 当初から掲げられた「魅力ある地方大学」の表現を直したことについて永田は「現在の地方大学には魅力がないというのか、という声が出た」とさらりと述べただけで、なぜ、この段階に至ったのかについて会合のなかでの説明はなかった。
 このようすを見ていて、どうしても先の「学校法人ガバナンス改革会議」の最終提言をめぐる混乱を思わずにはいられなかった。根の深いところで「共通したもの」がなければいいが、という危惧だった。
 結論を言ってしまえば、「現場感覚の無さ」ではないか。そのため大学側から「現場を十分に見ていない」との不信感が生じ、会議でまとめた結論が宙に浮いてしまう。
 そうしたモヤモヤが文部科学省の企画段階からあって、各審議会の委員などのあいだでも十分に咀嚼されないまま議論が進められている。そんな違和感だった。
 「ガバナンス改革会議」がまとめた最終案について文科相の末松信介は「教育や研究への影響を踏まえて見直しを加える」として、新たに「学校法人制度改革特別委員会」を設置し、12日に第1回会合を開いた。
 私学団体の関係者も含めたこの委員会で再度意見を交わし、私立学校法の改正案をまとめて今年の通常国会に提出するという。
 ガバナンス改革会議も、「魅力ある地方大学」の場合も、文科省の会議が打ち出した改革案が最終段階になって現場に受け入れられなかった。「魅力ある...」も、タイトルだけでは済まされないと地方大学は考えるだろう。
 この不信感をどうするのか。今年の文科行政に願いたいのは、その点から考えてほしいということ、同じ轍を踏まないようにしてほしいということである。

 ■エビデンスない「もって回った」表現

 大学分科会が「魅力ある地方大学の実現に向けて」というテーマで集中的な議論を進めてきた背景には、現在の日本の課題が「地方・地域」に集中しており、「地域こそ具体的な課題が生じる最前線」との認識があった。
 地域と地方の用語について最終案は、「地方」という語には国や「中央」に対する「地方」、東京圏に対する「地方」という意味合いが含まれ、そうした場合には「地方」を用いる。
 一方、機能的な特性面では東京圏や都市部にも「地域」は存在し、それらと大学との協力・連携が検討対象になるとして、「地域」と「地方」を使い分けたことを説明した。
 そのうえで、地方や地域の活性化に一定の役割を果たすことは必ずしも「地方部」に所在する大学だけに求められるものではなく、「都市部の大学が、その教育研究を充実させるために地域をフィールドとする姿勢が極めて重要」との見方が生まれる。
 永田は、議論のスタートの前提として「どのような大学を、魅力ある地方大学と考えるか」「それは誰にとっての、どのような魅力か」と提起していた。
 その議論の推移を、各大学は身構えるようにして見ていたに違いない。これまでの改革努力はどのように評価されるのか、「誰にとっての魅力か」と問うのなら、この際、はっきりさせてもらうのがいいだろう。
 ところが今回、その「魅力ある」という言葉があっさりと外され、「地域の中核」という表現に変更されたことで、現場には戸惑いが広がる。異議を受けての変更というが、それなら、「魅力」から「中核」に変えることで最終案の内容にどのような変化を加えたのかを明確にする必要がある。
 公的な政策提言には、そうした厳密さが求められるだろう。
 ところが最終案には、「若者にとって地域の大学での学びが魅力を持つに至っていない可能性も示唆される。また、これまでの大学の学びは地域の強みや特色を十分に意識しておらず、地元のニーズを捉え切れていない教育カリキュラムになっているのではないかという声もある」などといったフレーズがある。
 この「もって回った」、あるいは「恐る恐る」といった表現がどこから生まれてきたのか、いわゆるエビデンスを示さなければ大学関係者は納得しまい。
 それが「『地域の中核となる大学』となるための地域ならではの人材育成」での「学修面での課題」と一刀両断されては、改革に努力してきた関係者は立つ瀬がない。
 この、いかにも慇懃な書きぶりに、現場を十分に見ていないという自信の無さがにじみ出ていると言ったら言い過ぎだろうか。

 ■「行革」視点で進んだガバナンス論議

 一方、「学校法人ガバナンス改革会議」の提言が宙に浮いてしまった要因も、有識者(委員)たちの議論が現場から遊離していたことにあるのは、すでに明らかだ。
 この会議は、日本公認会計士協会相談役の増田宏一を座長に組織され、委員(12人)の多くを占めた弁護士や公認会計士らの勢いのなかで、日本私立大学協会副会長(東京理科大学会長)である本山和夫らの必死の抵抗ともいえる反論が、ほとんど踏みにじられるようになったことは本紙でも報じてきた通りだ。その結果が、現在の混乱状態を招いている。
 そもそも、なぜ、このような委員の人選が許されたのか。
 発端は、政府の「骨太の方針2019」(令和元年)で、「新公益法人制度の発足から10年が経過したことから、公益法人としての学校法人制度についても、社会福祉法人や公益社団・財団法人の改革を十分踏まえ、同等のガバナンス機能が発揮できる制度改正のため、速やかに検討を行う」とされたことにある。
 この仕掛け人とされる元厚生労働相の塩崎恭久は、この背景に自民党の行政改革推進本部からの働きかけがあったとしている。また、「他の公益法人と同等」という表現について「当初、文科省の事務方は『ほぼ同等』と主張したが、当時の柴山昌彦(文科相)の英断で『同等』とすることとし、この時点で、大きな方向性が既に決まっていた」と繰り返していた。
 さらに、今回の改革会議の最終報告後のインタビューでは、「文科省内で令和3年3月にまとめられた案が法改正に繋がるものとならなかったため、『骨太の方針2021』で『手厚い税制優遇を受ける公益法人としての学校法人にふさわしいガバナンスの抜本改革につき年内に結論を得、法制化を行う』と明記され、閣議決定された。それに基づいて萩生田光一(前文科相)が大臣直属の組織として改革会議を立ち上げ、法改正に向けた制度改正案づくりを委嘱した」(デイリー新潮)と説明している。
 これを読むと、「文科省の事務方」には、私立大学を他の公益法人と同等に扱うことに抵抗する意見のあったことが推察できる。
 おそらく閣議決定した政策を文科相の下で進めることになり、民間企業や公益法人に詳しい専門家ばかりが委員に選ばれる結果になったのだろう。悔やまれるのは、「ほぼ同等」という事務方の主張を「同等」に書き換えたという柴山の判断である。
 それが「私立大学がキャンパスへの固定資産税など税制上の恩恵を受けているのは、国民の税金を使っていることに等しく、財政学では『隠れた補助金』と呼ばれる」(塩崎)という言説につながった。
 自民党の行政改革推進本部が言いだした。そのことが、大学の在り方をもっぱら「行革(税金のムダをそぎ落とす)」の側面から論じるボタンのかけ違えを生じさせたのではないか。

 ■「創立者の志」こそ教育の質保証の源

 こうして「地方大学の在り方」やガバナンス改革の論議を見てくると、経済合理性ばかりに力点が置かれ、本来多様であるべき大学の姿についての掘り下げた議論がないがしろにされているように感じられる。
 今回、ガバナンス改革会議の最終報告が出ると、多くの国会議員や全国知事会でも反対意見が相次いだ。それは日本独自の理事会制度に対する無理解と、教育内容を無視するかのような審議ぶりへの疑義の声だった。
 昨秋、イギリスのオックスフォード大教授らの著書『日本の私立大学はなぜ生き残るのか』(中公選書)が出版され、日本の私立大学の4割ほどと同書が推定した「同族経営」大学の強さ(レジリエンス)を検証したものとして注目された。
 創業者の家族による同族経営は批判されることもあるが、実は、創立者の志(建学の精神)を受けつぐこの伝統にこそ「強さ」の秘密がある。危機に直面しても大学を守り抜こうとする強い意志力によって、素早く効果的な経営上の決定ができる、と同書は言う。
 私は、この強さは教学の面でも発揮され、創立者の「志」を体現した教育内容によって各大学が互いに競い合い、教育全体の質が高められてきた。それが私学の多様性の源泉であり、日本の高等教育の7割以上の学生たちを育てる基盤となっている、と考える。
 改革会議は、この伝統の理事会システムを根本から覆し、学外者だけで構成する評議員会を最高監督・議決機関にすると結論づけたが、そのことが日本の教育にどのような影響を及ぼすかは考えもしなかった。無責任との謗りを免れまい。
 確かに、現行の私立学校法には、利益相反を起こすことが懸念される仕組みも残されており、そうした点の修正は必要だろう。
 文科省の新たな会議体には、こうした私学の現況を踏まえた公平な議論が尽くされることを期待したい。これまでの「不信」の連鎖を断つときである。(敬称略)