加盟大学専用サイト

特集・連載

私大の力

<7>大沼淳と高田賢三 その運命的な出会い
世界的才能の幸福な「マッチング」

 ファッションデザイナー高田賢三と元日本私立大学協会(私大協)会長の大沼淳、昨年秋、相次いで死去した2人の縁は不思議な接点から始まっていた。大学の入試改革にも大切な示唆となる、そのめぐり合いを...。

■進路変更から「有名デザイナー」への道

 高田が新型コロナウイルスで亡くなったのは昨年10月、自宅のあるフランス・パリでのこと、81歳だった。
 ブランド「KENZO(ケンゾー)」を創業し、世界のトップデザイナーにのぼりつめたが、その少年時代の進路選択には曲折があった。
 高校から地元の洋裁学校を志したものの、男子生徒は受け入れられなかった。しかたなく外国語大学へ進むのだが、「運よく」というべきだろう、その翌年、東京の文化服装学院が男子にも門戸を開いた。
 高田は、さっさと大学を中退して上京し、デザイナーへの道を歩みはじめる。もしもこのとき、文化服装学院の男女共学への転換がなかったら、その才能は、花を開かせる場所を見つけることができなかったかもしれず、世界的デザイナーの誕生もあるいは...と考えさせられる。
 いま、文部科学省で「大学入試のあり方に関する検討会議」が開かれている。
 私大協は、大学入試を従来の「セレクション(選抜)」一点張りから「マッチング(学生の志向と学びの一致)」を重視した仕組みに転換する大切さを訴えている。
 高田の歩んだ道に見えてくるのは、若い人材を育てるうえで、個々の能力を伸ばせるような学びの場との「マッチング」がいかに重要かということだ。
 それは、文化服装学院のような専門学校の位置づけともからんだ「高等教育の構造転換(パラダイムシフト)」を通して、学びの多様性を考えることでもある。
 高田に幸運をもたらしたマッチング、まずは彼が「洋裁」の道に興味を持つようになったきっかけから、見て行くことにしよう。

■念願の洋裁学校で多彩な才能と切磋琢磨

 高田の生家は兵庫県姫路市、姫路城の北東にあった芸者の行き交う花街で、7人きょうだいの三男として育った。1945(昭和20)年夏の空襲で自宅が焼失するなど、戦争の爪痕が残る時代だったが、小学校にあがると宝塚歌劇に熱中する。
 姉たちの少女雑誌を読みふけるような繊細な感覚の少年で、姫路西高校に進んで勉学に励む一方、市内に増えていた映画館に通い、欧米の生活文化に憧れた。
 高校卒業後の進路について、長姉の通っていた神戸の洋裁学校に興味を持つようになるが入学は叶わず、1957(昭和32)年、神戸市外国語大学2部(夜間)に進学する。昼は神戸の貿易会社で働きはじめたところ、入学直後の6月、「文化服装学院が男子生徒を初募集」という雑誌の記事を見つけたのである。
 「大学は退屈でもあり、両親の猛反対を押し切って、夏休みにためたアルバイト代を使って上京しました。ペンキ屋に住み込んで昼は仕事、夜はスタイル画研究所に通ううちに、そんな僕を認めてくれた母が、ようやく入学を許してくれたのです」。高田はそう語っている。
 入学すると、コシノジュンコ、松田光弘、金子功らデザイン科の同級生たちとめぐり合う。のちに「花の9期生」と称される個性的な学友たちと切磋琢磨することで、「日本で一番美しいお城のある街」と高田が自慢する姫路で育まれた美意識が輝きはじめる。
 そして、この日本の伝統に裏打ちされた美的センスを武器に、25歳でパリへ渡り、世界のモードを一新するブランドを成功させた。

 ■入試論議に社会との「橋渡し」の視点を

 実は、一昨年まで私大協会長をつとめた大沼淳が、文化服装学院を中核とする「文化学園」の経営を任されたのは、高田が入学した1958(昭和33)年だった。
 高田は多様性を重視する大沼の学園で、才能を花開かせたのである。
 大沼の手腕で、学園は文化学園大学、大学院大学を擁するまで成長するが、この学園運営でも公職にあっても大沼が心を砕いたのは「高等教育の多様化」であり、文化服装学院のような専門学校、専修学校を大切にすることでもあった。
 私が担当した『リーダーが紡ぐ私立大学史』の取材で忘れられないのは、「高等教育を『富士山型』から『八ケ岳型』へ」とする理念だった。つまり東京大学を頂点とする一極構造を、いくつも頂点のある「八ケ岳」のような多層構造に転換すべきだという意見だった。
 そうしたなかで、昨年スタートした「専門職大学」の制度には批判的であり、次のように訴えていた。
 「なぜ、専門学校を大学教育と同等に扱うことが許されず、性格のはっきりしない専門職大学のような制度が生まれるのか。...、専門学校を高等教育にする。それほど難しいことではありません。学校教育法の『一条校』に位置づけ、そのうえで専門学校のそれぞれの特色を殺さず、発展させられるよう制度設計すればいいのです」
 「(大学への)進学者が1・5%ほどだった私たちの時代、卒業生はそれなりの社会的地位を得ました。50%まで増えた現在では、そんな立場に立つ人はそれほど必要ない。一方で、洋裁店やスーパー、理髪屋、テレビや屋根などを直してくれる人もいなければ、市民生活は営めません」
 いま、そうした職種にも高度な学びが必要になっており、高等教育の門戸を、専門の技能や職種を求める若者たちにも広げ、ニーズに応じて複線化することで、社会との橋渡し役を全うすることができる。
 長年、そうした考えで文部行政の改革を求めてきた立場から、「文科省の感覚」には疑問を持つことも少なくなかった。

 ■「八ケ岳型」で各大学はそれぞれの頂点を

 文科省の大学入試の検討会議でもたびたび意見を述べた私大協副会長、小林弘祐(北里大学理事長)は、同協会の主張を踏まえて次のように言う。
 「少子化時代の大学入学者選抜では、これまでのセレクションの視点からマッチングの視点がより重要であること、すべてがマッチングではありませんけれども、マッチングの視点が今後だんだん重要になってくる」
 建学の精神を大事にして多様で特色のある教育を実践する、それが私立大学の責務であり、入試制度も基本的に、私立大の自主性・自立性に委ねられるべきであるとしたうえでの意見である。
 大学が自らの校風に合った、どのようなタイプの学生の入学を望んでいるのか。「アドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)」とは、砕いていえば、そういうことであり、受験生の側は、その方針や理念を吟味して受験する。
 それが、高田の場合のような"幸せな結びつき"につながることが「マッチング」の最大の眼目になるのだろう。
 自主・自立を謳歌できる私大には、それぞれが個性や特徴を磨いて、自らの存在を社会に堂々とアピールする気概がほしい。たとえ海抜は低く、小ぶりな山でも、高等教育の山岳に自らの足でしっかりと立つことだ。
 山の頂点はまさに多種多様で、「八ケ岳」のように並び立つのが望ましく、受験生たちはそれらの山並みを遠望しながら、自分の希望と適性に合った山道や尾根をたどって頂上を目指す。
 「マッチング」ということばを通して、そんな姿を思い描いている。
(敬称略)
 平山一城