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特集・連載

私大の力

<5> 追悼・佐藤東洋士私大協会長
私学振興に生涯をかけて
キリスト者の信念と「リーダーの心得」

■「珍しい名前」に親代わりの祖父の遺言

 佐藤東洋士(とよし)、本人によると「2人しか会ったことがない」という珍しい名前をつけたのは祖父だった。両親が離婚したことで、母親の旧姓、佐藤を名乗ることになる彼の父親代わりである。
 旧東京帝国大学(東京大学)の学生時代に洗礼を受けた祖父は、戦前から、日本のキリスト教界に広く知られた人で、あるとき「全東洋をキリストへ」という神の声を聞く。それが東洋士の名前の由来だった。
 「私の名前には、自分のライフワークを受け継ぐものになってほしい、東洋でキリスト教の精神を持って戦ってほしい、という祖父の思いが込められているのです」
 2年前、日本私立大学協会の企画『リーダーが紡ぐ私立大学史②』(発行・悠光堂)で、佐藤の桜美林大学を取材したとき、そう語っていた。
 その佐藤が私大協の会長になり、「これから」というときに突然、亡くなってしまった。関係者の方々のご心痛を思うとともに、私の脳裏には、その本を作る際に何度も会った佐藤の笑顔が蘇ってくる。
 印象に残ったのは、「どんな組織も、それを率いるリーダーのスケール(器の大きさ)を超えることはない」という佐藤の信条だった。
 「だから、自己研鑽を重ね、自らを高めて組織運営に当たるしかない」。私大協会長になったときも、その思いだったはずだ。
 戦後のベビーブーム世代の受け皿として誕生した大学の経営をまかされ、建学の精神に磨きをかけ、「リベラルアーツ教育の桜美林」を私学の最前線に引きあげた。
 対外的にも、コーディネーター(組織調整者)の力量が注目され、高等教育を代表する発言者となるが、そこには、理事会を基盤に私学ガバナンスの理想を追求した姿があった。

■慶応大学を中退、新進大学の発展に邁進

 1966(昭和41)年、4年制の桜美林大学が認可されたとき、佐藤は「半ば強制的に入学させられた」という。
 当時、慶応大学の学生であり、無名の大学に移るのは本意ではなかったが、「東洋士君の家とは、3代のつき合いではないか」という創立者、清水安三の誘いを断るわけにはいかなかった。
 戦争中に中国・北京で生まれた佐藤はこのとき21歳、慶大を中退して、桜美林大学の1期生として4年間を過ごす。卒業後もこの大学に勤め、やがて学長・総長を任されるという人生が始まる。
 キリスト教宣教師として中国に派遣された清水は、「崇貞(すうてい)学園」という貧困に苦しむ子供たちの学園を北京に開設し、佐藤の両親はその教員だった。佐藤の祖父と清水との縁によるもので、「3代のつき合い」とは、そのことを指していた。
 日本の敗戦とともに学園は中国側に接収され、すべてを失った清水が帰国して、東京・町田に土地を求め、1946(昭和21)年、その「復活の丘」で再出発する。その丘には美しい桜の林がある。
 偶然にも、清水が大正時代に留学し、その教育理念に傾倒したのがアメリカのオベリン大学だった。桜の林と「オベリン」、そこで浮かんだ学園名が「桜美林(おうびりん)」であり、以来、崇貞学園とオベリン大学の2つを大切なルーツとした。
 念願の4年制大学を設置した1966年は、第1次ベビーブーム世代の受験のピークで、私立大学の設置数ではこの年が一番多く、それだけライバル校も多かった。
 国の私学助成金もないころで、新設の小規模私大は、定員数だけの入学者では経営が難しい時期だった。
 「受験料や入学金、入学時の寄付金などが主財源だから、とにかく、受験者を集めようと全国を回りました。福島や長野の高校では、腰まである積雪のなかを訪問したものの、寒い廊下で長い時間待たされた。そんな経験もしています」
 苦労を重ねて、1988(昭和63)年の清水の死後、「佐藤の快進撃」と呼ばれる活躍が始まる。2003年に理事長に就任し、学部制を廃止して学群制に移行するなど学内改革を進め、学生数9000人を超える大学へと変貌させた。
 「この構想力と果断さは、どこから生まれるのか」。そう聞かれと佐藤は、清水の残した「建学の精神(キリスト教精神に基づく国際的人材の育成)」のもと、幹部職員や教員・学生らの結束をはかり、信頼を得られたこと、と応えていた。

■コロナ禍で苦しむ加盟校への厚い思い

 常に、キリスト者として「主の小さな僕(しもべ)」であることを忘れるな。佐藤はこの祖父のことば通り、どのような環境変化にも粛々と立ち向かう風があった。
 私大協では2012(平成24)年に副会長に就任、70周年記念事業の実行委員長を務めるなど、厳しさを増す一方の経営環境のなかで私立大学のあるべき姿を追いつづけた。
 世界大学総長協会(IAUP)でも3年間会長を務め、その際には、「隣人たちの痛みを考えて行動する寛容さ」こそが「国際的人材の育成」につながる、という自らの大学の理念を実践した。
 今年7月、新型コロナウイルスが拡大するなか就任した私大協会長として、朝日新聞のインタビューを受け、次のように語っていた。
 「私立大の運営には大きな影響が出ています。それでも大半は、知恵を出して乗り越えつつあります。今後もし倒れる大学が出たとしても、それはコロナ禍の以前から運営に問題のあったケースだけでしょう」
 「とはいえ国の支援は欠かせません。残念なのは、こうした非常事態のときでも、国から支援を受けるには面倒な手続きが必要なことです。緊急時は、申請の負担を軽くする柔軟な対応を求めたいと思います」
 加速する「18歳人口の減少」について、「大陸棚から日本海溝に落ち込むような」(事務局長・小出秀文)危機感を加盟校とともに共有し、高等教育のグランドデザインを描く、パラダイムシフト(構造転換)を加速する。そう誓っていた。

■「画一的な枠組み」に抗して私大の自律を

 「小さな大学の経営は苦しいが、大学を経営面だけで評定するのはどうでしょうか。関係省庁には、ぜひとも、改革に努力する大学の多様な教育の実情を丁寧に見てもらいたい」最近の大学での不祥事を引いて、私学の運営体制(理事会や評議員会のあり方)を変えようとする動きには、あくまで慎重な対応を求めた。
 「ルール違反は協会としても見過ごせませんが、特異なケースを見て、一括して全体を管理するのは問題であり、一部には『問題が起きないよう、何もしないでほしい、と言われるようで、心ある改革の芽も摘んでしまう』との不満が出ています」
 さらには、「立地する地域」や「定員の多寡」といった画一的な枠組みで大学に網をかけるような規制が大学側のやる気をそこなうことも懸念していた。
 私大協は昨年3月、「ガバナンス・コード」を制定し、それを規範として運用することにより、各大学が経営基盤の確かな新しい大学づくりを進めていくことを確認した。
 私立大学の教育・研究・社会貢献の機能の最大化を図り、その社会的責任を全うすることで信頼に応え、さらなる社会支援につなげる。
 私学のガバナンス改革は、それぞれの実情に応じ、公共性と自主性を基本にした自律的な取組みでなければならない。
 「加盟大学が、自らの建学精神に基づいて機能強化を推し進めることを、私大協としてサポートしていく」。最後に、この佐藤のことばを掲げて、ご冥福を祈りたい。
(敬称略)
(平山一城)