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特集・連載

私大の力

<2> 岡本行夫が大学生に残したもの
変化へのスピードと「現場主義」

■自らの奨学金で学生たちを海外派遣

 新型コロナウイルスによる岡本行夫の突然の死は、30年以上にわたる友誼を頂戴した私にとって、まさに晴天の霹靂だった。
 享年74歳だが、最近も、趣味のスキューバダイビング(潜水)をテーマにした小説に新境地を開くなど、旺盛な活動は止むことがなかった。
 外交、安全保障の第一人者としての仕事の一方、日本の若者たちの将来に心を砕き、いくつもの大学に関わった。立命館大学、青山学院大学、東北大学では、それぞれ客員教授や特任教授などをつとめていた。
 立命館大学の追悼文「岡本行夫先生を偲んで」には、次のようにある。
 「2005(平成17)年度からは先生のご支援のもと、『国際社会で活躍する人材養成特別プログラム』を立ち上げ、日本を代表して国際社会で活躍する有為な人材を育成することを目指し、毎年、プログラム生を対象にゼミを実施」
 「ご自身で奨学制度を創設され、アフリカや中東、インド、中国、韓国、アメリカなどに受講生を派遣する海外研修にも取り組まれた」
 その際、岡本が掲げたのは、徹底した「現場主義」だった。語学力を磨くとともに、自らの五感で世界に触れることの重要性を訴え、学生たちが能動的に行動する「プロアクト型」人材になれるよう指導していた。
 大学関係者たちには、「学生が成長する姿を見るのが何よりも楽しい」と語る岡本の姿が、強く印象に残っているという。それは、外務省という組織に居心地の悪さを感じ、一人独立して日本という国の役に立ちたい、と自らの道を歩んだ岡本の信念によるものだった。

■外務省キャリアを捨てて社会支援へ

 1988(昭和63)年、新聞社からの派遣でアメリカ・ワシントンの大学院に留学した私の体験を前回、記した。岡本はこの年7月、外務省の北米局北米第一課長に就任したばかりで、有意義なアドバイスをもらった。
 ワシントンでは「(日本の)外務省にオカモトあり」とその名が響いていることを知るのだが、岡本は43歳で、外務省でのポストをあっさりと捨てて退官してしまう。1991(平成3)年、旧ソ連の崩壊によって東西冷戦が終結し、国際関係の動揺とともに日本社会でも大きな変化の波を予感させた年である。
 当時、シンクタンクのはしりといわれた岡本アソシエイツを設立した岡本は、橋本・小泉両内閣で首相補佐官をつとめるなど複雑化する国際関係の現場に身を投じたが、一方で、大綱化によってアメリカの「占領政策の呪縛」を脱しながら、方向の定まらない日本の大学改革が心配でならなかったようだ。
 晩年、アメリカ・ボストンのマサチューセッツ工科大学(MIT)シニアフェローとして発言をつづけたのは、日本の大学教育を国際水準に引き上げたいとの一途な願いからでもあった。

■次世代の大学の役割に厳しく注文

 デジタル技術を駆使して課題解決の先進国を目指そうという「Society(ソサエティー)5・0」の実現に向けても中核的な役割が期待される大学だが、岡本は物足りなさを感じていた。
 私が取材した大阪国際大学のグローバルビジネス学部の新設記念シンポジウム(2013年6月)の基調講演にも、日本の現実に対する危機意識があふれていた。
 「1989年、時価総額で世界のトップ50社のなかに32社あった日本企業は、いま数社にまで落ち込んでいる。日本の産業はアメリカの3周遅れ、このままでは、やがて起こる第4次産業革命に立ち向かえない」
 そのうえで会場を埋めた学生たちに訴えた。
 「日本人は、目標が設定されてチームワークで進む作業は得意だが、ブレイクスルー(突破力)が必要な作業は苦手としてきた。これからは、アメリカのシリコンバレーのように、ジーパンをはいた若者が一晩でプログラムを書き、新しい価値を創出するような自由な風土に近づかなければならない」
 必要なのは多様性とスピードであり、みんなが同じことをしていたのでは、世界のスピードにはついて行けないことを理解してほしい。
 MITでは毎日、どこかで各分野の専門家を招いたオープンなセミナーが開かれ、活発な議論がなされている。日本では秘密保護法ができる。秘密の「保護」は必要だと思うが、秘密の「開示」の方は不十分だ。
 あらゆる情報にアクセスすることができる。その解放性こそが、教育や科学技術の進歩に不可欠だと思う。日本の弱点は変化に対するスピードであり、先を読む努力が今まで以上に必要になる。
 切々とした岡本の訴えに、学生たちは真剣に耳を傾けた。彼を捉えていたのは、国力の衰えてゆく日本の行く末であり、その運命を担う若者たちへの教育のあり方であった。

■中国とコロナ、国際人に必要な自覚

 大学の授業や講演では、日本を取り巻く東アジア情勢の変化に敏感であることの重要性についても話した。
 「日本はいまだ、周辺諸国と国境紛争を抱え、その点では戦後まったく前進していない」として、北朝鮮、中国、ロシアの3国の「予測不可能」を指摘する。なかでも政治・経済体制の矛盾が目立つ中国との関係の難しさに注意を喚起した。
 「日本、欧米のような資本主義国は、民主主義と市場経済によって政治と経済を動かすのですが、中国では、自らの経済体制を『社会主義市場経済』と呼んできました。かつては社会主義と計画経済で土地も企業もすべて中国共産党の管理下にありましたが、1990年代初めから、政治的には共産党による社会主義を維持しながら積極的に市場経済を導入し、社会主義市場経済という矛盾するシステムを進めたのです」
 岡本によると、現在の中国経済は国有企業と民間企業が混在し、曖昧ながらも、それを機能させている。高度成長をつづけ、いくつもの国有企業が、世界の企業ランキングの上位に顔を出すまでになっているが、その売り上げの大半は中国国内のもので、「巨大ではあるけれどグローバルではない」と言うことができる。
 グローバル企業になれない最大の理由は、共産党支配につきまとう情報の非開示、秘密主義にあり、北朝鮮やロシアと同じような社会の閉鎖体質が「予測不可能」な国をつくり出している。
 今回のコロナ禍が世界的に拡大した責任の一端が、この中国の「秘密主義」にあったことは間違いない。そして岡本自身が、そのコロナによって命を失うという文字通り"予測できない"事態に至ったのである。
 日本の企業は、安価な労働力と広大な消費市場に魅かれて、過度に中国経済に依存してきたこれまでの経営体制を見直している。
 留学生の数でも中国人が突出していたが、アメリカではすでに、中国人の留学生や研究者を制限する政府の動きと相まって、留学生の激減で経営が傾く大学が出てきた。コロナ後の動向によって日本の大学にも、新たな対応が迫られるかもしれない。
 一国では対応が難しいそれらの国々からの脅威に、日米が協力して対処することがいかに重要か。岡本は持論を展開しながら、「学生が国際人として立つためには、この問題と正面から向き合う必要がある」と力説する。そして、それを受けて、学生との間で活発な討論を展開するのが常だった。
(敬称略)
(平山一城)