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特集・連載

私大の力

<1> 建学の精神輝くガバナンスを
個性・特色こそは大学の生命線

■コロナ禍とジョンズ・ホプキンス大学

 新型コロナウイルスの拡大で、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学の知名度が飛躍的に高まった。各国の感染者の数、その世界全体の総数がいくつになっているか、メディアの報道はほとんど、この大学のデータに基づいている。
 1876(明治9)年創設のジョンズ・ホプキンス大学は、アメリカで最初の「ユニバーシティ」だった。「当時もっとも卓越した水準にあったドイツの諸ユニバーシティを範としてできた『ホプキンス』は、はじめから研究を重視し、博士の学位修得のためのプログラムを設けた」(P・ウッドリング著『アメリカの大学』)
 ハーバードやエール、コロンビア、その他多くの高等教育機関が「カレッジ」から本来のユニバーシティに改められたのは、その後らしい。
 しかし、新聞社につとめて13年目に留学することになった私が、この大学を選ぶのはそうした理由ではなかった。第一は、札幌の出身大学の大先輩である新渡戸稲造が学んでいたからである。
 「願わくは我、太平洋の橋とならん」。1884年、できたてのジョンズ・ホプキンス大学に留学するときの新渡戸の言葉に、私は憧れていた。
 新渡戸は札幌農学校(現・北海道大学)を卒業し、21歳で東京大学に入ったものの、そこでの教育に失望してアメリカに向かう。すでに外国人教師から英語で授業を受け、英語でノートがとれる実力を備えていた。
 メリーランド州ボルティモアに大学を築いたのは、地元の富豪、ジョンズ・ホプキンスだった。食糧や雑貨の店から事業を次々と成功させて富を得たが、結婚はせず、全財産(約700万ドル)を大学と病院の建設に寄付した。
 やはり民間の寄付で設立されたハーバード大学の、そのころの予算をはるかに超える金額だったという。

■「冷戦終結」の変化に遭遇した留学生活

 私が学んだSAIS(高等国際関係大学院)は、首都ワシントンにあるジョンズ・ホプキンス大の大学院で、国際関係、国際経済に特化した教育で多くの留学生を集める。民族や年齢、入学までの経歴も多彩で、ワシントンという土地柄もあって、政府の要職や連邦議会の議員秘書へとキャリア・アップを狙う人たちもいた。
 ここでの学び直しが記者生活に多大な恩恵をもたらしたが、同時に、「大学が、社会や人々のために何をしなければいけないのか。どのように変わってゆくべきなのか」ということを考える機会ともなった。
 当時の日本経済は絶好調で、新聞社にも社員を海外に留学させる余裕がまだあった。1989年1月、昭和天皇が崩御し、私はワシントンで平成という時代を迎えたのだが、この年の秋、ドイツを東西に分断していたベルリンの壁が崩れた。
 それを見たあるアメリカ人の学生が私にささやいた。
 「東側を片づけたから、次は日本だ」
 それは、宿敵の社会主義陣営を打倒したアメリカが、次に撃退すべきは、経済力でのしていた日本になるという意味だった。
 帰国して、湾岸戦争の中東やモスクワの特派員をしている間も、この言葉が私の脳裏から消えることはなかった。
 そして学生の"予言"のように、アメリカの対日政策は急速に硬化し、日本はアメリカとの友好関係をいかに保つかという課題をかかえる。経済はバブルのようにはじけ、「失われた10年」と呼ばれるようになる暗い時代に追い込まれた。

■「大綱化」で占領の呪縛から脱したが...

 日本の大学を取り巻く環境も激変していた。
 1991(平成3)年、大学審議会の答申を受けて大学設置基準の大綱化が実施され、一般教育、専門教育などの授業の科目区分が撤廃された。
 戦後、アメリカが日本の大学改革の中核に据えたものだったから、「(区分撤廃は)日本の大学が、占領政策の呪縛を脱して自らの考えで教育課程を設計する自由を手にしたことを意味する」(大崎仁著『大学改革』)とされた。
 意識されたかどうかは別として、「大綱化」は、国際社会での東西対立、いわゆる冷戦の終結とともに実施された。そして、日本独自の大学体系が模索されてきたのだが、いまだその完成形を見ることができない。
 とりわけ、90年代に拡大する私大と国公立大との確執が問題となった。
 「大学院の充実と改革」が2001年、小泉内閣の遠山プランに盛り込まれ、「世界水準の大学、トップ30」構想が打ち出された。
 「国公私立という『設置者』の違いでは区別せず、領域ごとの大学の質の評価で」選ぶとされたが、プラン名は「大学(国立大学)の構造改革の方針」とされ、多くの私大、とりわけ学部課程の教育の充実を迫られる多数の私大は、初めから対象から除外されたとにらんだ。
 大学院も重要だが、それは学部教育の質、なかんずく日本の高等教育の裾野を広げてきた私大の充実がなくては、達成できまい。
 当時、日本私立大学協会が設立した私学高等教育研究所の主幹、喜多村和之は「私大関係者は、教育重視の視点から、はたして『遠山プラン』が21世紀の日本の高等教育と研究を真に活性化することになるのか、また、そのなかで文科省はどのような私大政策を考えているのかを問いかけていくべきではないか」と論じた。
 これが、私大の立場だった。

■8割「野党」を軽視してはいけない

 なぜ国は私大を冷遇するのか。批評家、江藤淳は次のように言った。
 「(日本は)私大を過去百年の間、一度たりとも積極的に援助しようと思ったことはない。なぜなら明治の反政府運動の拠点だったから」で、私大出の官僚たちは当時の「藩閥(長州・薩摩両藩出身の指導者)政府」に忠誠を尽くさない。
 だから、「そういう厄介なものはつぶしてしまえ」が一貫した国策だった、という。
 ほぼ半世紀前の大学紛争の渦中の慶応大学百年祭での講演である。
 「独立自尊」をうたう大学の後輩たちに、彼らを鼓舞するように吐き出された言葉ではあったが、私大への国庫補助の増額を求める態度を「なんたるだらしのないことか」「国には頼るな」と、私学の矜持を訴えていた。
 しかし私はこの論に半ば同意しつつも、状況が一変したことを思う。私大協の元会長、大沼淳は私のインタビューに語っていた。
 「戦後の新制大学は、国立も私立もほぼ同数、それぞれ80校ほどでスタートしたが、その後、受験生の急速な増加への対応は私学だけに任された。いま、学生の8割近くは私大に入っており、経営者たちは自ら資金を工面し、ひたすら努力を重ねてきた」(『リーダーが紡ぐ私立大学史』)
 私学には在野精神があり、ときに「野党」にもなるが、江藤淳がいま存命なら、たとえ野党であっても8割近くの勢力となった私大の言い分を、万が一にも"厄介視"するような施策を容認するだろうか。
 国公私という設置者がいて、ガバナンスにも違いがあることが、国民のニーズに応えうる高等教育の多様性を支えてきた。そしていま、さらに進めて、設置者別の役割分担を離れた各大学の個性・特色が求められる。
 茨城県で育った私が遠い札幌の大学を選んだのは、そこに伝わる「若者よ、大志を」の建学のフロンティア精神に魅力を感じたからだった。
 いま全入時代の若者にも、そんなロマンがほしいと思う。若い時分の憧れや夢こそが「学び」への意欲を引き出す。大学に愛着を持つことが、その後の人生をいかに豊かにすることか。寄付をしたいという人たちが増えるも減るも、そこにかかっている。
 私大は、独自の教育理念(建学の精神)を掲げ、それぞれの個性を輝かすことに努力している。夢やロマンの広がる学びの場が、そこから生まれる。(敬称略)


 筆者は、私大協企画・協力のシリーズ『リーダーが紡ぐ私立大学史』を担当していますが、このたび、本紙において「第二の記者生活」をスタートしました。
(平山一城)