キャンパス万華鏡
学園草創期編
学園草創期編では、各大学の草創期に想いを馳せてみましょう。創立者の偉大な意志、建学の精神に至るまでの想いのほかに、知る機会の少ないエピソードを募りました。創立者の横顔から、今ある大学の横顔を連ねてみると、これまで知らなかった学び舎の奥深さが見えてくるかもしれません。
柴田徳次郎と大講堂・創設期
【歴史伝える大講堂】
学校法人国士舘(国士舘大学)は、大正6年11月4日、青年大民団本部事務所(現港区南青山)内に夜学の私塾として誕生した。青年大民団とは、当時の世相を憂えた早稲田大学の筑前学生会などが中心となって発足した青年学生社会改良団体ともいうべきもの。国士舘創立者・柴田徳次郎もその一員だった。大正8年11月、国士舘は、青年大民団本部事務所内より、世田谷松陰神社畔に移転するとともに財団法人を設立し、高等部を開設することとなる。写真は、その上棟式が行われた際の大講堂を写したもの。青年大民団の機関誌『大民』四巻八号に掲載された「國士館上棟式記事」によれば、「講堂は(中略)鎌倉時代の講学所に観る如く、或は僧院の堂宇に似て、堂々百有八畳敷。廻廊附、礎石を高くして(中略)純乎たる日本式を発揮せる」と記されている。この大講堂は先の大戦の戦火もくぐり抜け、現在も同地にあり、在りし日の国士舘を伝える貴重な文化財ともなっている。
【緒方竹虎と柴田徳次郎】
国士舘創立当時、柴田徳次郎の知友には、その後も国士舘を支え続けた人々がいた。
中でも最大の理解者であり、庇護者であったのが緒方竹虎だった。緒方竹虎は、福岡で育ち、早稲田大学卒業後、朝日新聞の主筆として活躍した後、衆議院議員に転身し、内閣官房長官・副総裁を歴任した政治家。柴田徳次郎とは、大学の同窓・同郷の縁から親交を持ち、青年大民団でも活動をともにした。写真は、緒方竹虎が昭和31年に68歳で逝去した折り、学生を前に、偉大な功労者を讃える訓話を行っている柴田徳次郎の姿。そして、翌年に完成した体育館には緒方竹虎の肖像画が掲げられた。