アルカディアの風
教育学術新聞で月に一回掲載している、日本私立大学協会からの主張。高等教育の在り方、取り巻く情勢、そして政策に、時宜にかなった声を発していきます。
私大の研究潜在力を活用せよ
2016年に始まった文部科学省「私立大学研究ブランディング事業」は、各大学の目玉となる研究を伸ばし、大学のブランドを高める目的で採択大学に最大5年間の支援を行うものだった。記憶に残っている読者も多いかと思われる。
これはタイプA(地域の経済・社会、雇用、文化の発展や特定の分野の発展・深化に寄与する取組)とタイプB(先端的・学際的な研究拠点の整備により、全国的あるいは国際的な経済・社会の発展、科学技術の進展に寄与する取組)にわかれ、それぞれ各大学の研究面での特色をよりいっそう色濃くしていき、大学の機能強化を促進することが目的とされたのである。
しかしながら、計画途中に文科省官僚の不祥事が発覚。同省は事業の見直しと打ち切りを決めたのだった。
ところで、筆者が全国各地の私立大学を訪問すると、同事業により開始した様々な取り組みが、未だ継続して行われている場面に遭遇する。
タイプAだと、大学の研究力を活かして地元企業と新しい商品を開発したり、大学としての目標を掲げてこの取り組みを育て、地域活性を行っていたりするのである。
財務省や文科省としては、数ある文教政策の1つだったのかもしれないが、当該大学では地域と繋がり、地域を共に創るきっかけを成し、また地域でニーズや必要性があるからこそ、未だ継続して行われているのである。
また、タイプBについても、自大学のユニークかつ強みとしている研究を再確認して、それを発展させるべく努力をしていた。研究というと理工系分野を創造する向きもあるが、人文系の大学も多く採択された。いわば、私立大学全体の研究の底上げ、高度化に繋がり、「私立大学の研究力」という潜在力を大きく引き出したのであって、筆者としては大変意義深いものであったと感じているのである。
たしかに「研究ブランディング」という名称には疑問もあった。「ブランド」は後からついてくるもので、それ自体を目的に研究するというのもナンセンスに思える。自大学の目玉研究を掲げ、それを追求すること自体に意味と意義があると言えよう。
従って、今こそ私立大学の多様な研究潜在力を引きだし、また、伸ばす同事業を復活させるべきと考えるのである。
国立大学はもちろんだが、私立大学の多様な研究は社会のイノベーションの源泉なのである。また、私立大学の研究の高度化・社会寄与こそが、まだまだ国策で伸ばす余地と価値のある領域であると強く主張したい。
かねてより、筆者は私立大学のすそ野の広い地域連携と、より高みを目指す多様多層な研究の高度化こそが大学活性化の両輪であると訴えてきた。まさに研究分野はそれらを同時に実現できるのである。
「私立大学研究ブランディング事業」が中止された事情は、ほとんどの大学には関係がない。文科省も改めてこの事業の復活を試みていただきたい。多様な私学の多様な研究こそが、日本を強くしていくことを強調しておきたい。(H/K) (2960号/2024.04.10)
「高等教育の在り方」議論に注目
昨年末より始まった中央教育審議会大学分科会の「高等教育の在り方に関する特別部会」では、今後の高等教育の在り方について、活発な議論が行われているようだ。特に第3回(2月27日開催)では、共愛学園前橋国際大学の大森昭生学長が「地方における高等教育へのアクセスをいかに維持するのか―地方小規模大学からの提言―」と題して発表した。それは地方の大学にとって大いに意義ある提言であったので、少し紹介したい。
大森学長は、「定員割れは「一部の大学」のことではなくなった」「個々の大学が努力すれば何とかなるというフェーズの終焉」とも言い切っている。まさにこれは地方の大学関係者が何年も前から感じていることであろう。だからといって「半数以上の大学が頑張っていないわけがない」とも付け加える。全くその通りである。地方大学の経営が困難であるのは、放漫経営をしているからではない。急激な少子化の影響と言ってしまえばそれまでだが、都市と地方の構造的問題があると考えるのである。
そして、「地方に大学は必要だ」という共通認識は所与、とも述べる。定員未充足だから、その地域に大学は要らないということでは決してない。これも筆者も永年主張してきたことと重なる。立地する私立大学がなくなれば、その地域から急速に若者は減っていく。経済も縮小していく。衰退する地域にとって、大学は教育・研究・社会貢献以上の役割を果たしているのである。
その後、大森学長は大きく3つの提言を行うが、詳細はぜひ文科省ウェブサイトから資料をダウンロードしていただきたい。ここで筆者が問題にしたいのは、先述の「定員未充足だけど、地域に大学は必要だ」という認識である。財務省や文科省は、この間、「定員充足率が5割を切ると私学助成不交付」「修学支援制度は8割を切ると対象外」など、いわゆる「定員割れ」を悪者にしてきた。定員を集められない大学は社会的な意義がないとでも言わんばかりである。しかし、そうではないことは、大森学長も指摘し、筆者も本欄で何度も主張してきたし、本紙が地域で頑張る大学の取り組みを紹介してきたことからも明らかだ。そもそも収容定員は経営の損益分岐点ではないし、むしろST(教員一人当たりの学生)比は低下する。もちろん、経常費が減少することは大学の活動を低下させることに繋がり、最悪経営破綻は招く。だからこそ、私学経営において多様な財源を求めることを日本私立大学協会では訴えてきたし、その道筋も模索してきた。これまでそれがなかなか成果として結実しなかったことは反省しなければならないが、今後はますますこれを最重要課題の一つと認識して、何歩も踏み込んだ政策提言を文部科学省ほか、地域に関わる関連省庁などにも働きかけていかなければならないという想いを強くしている。
全国の私立各大学においても、地域における課題を本協会に届けていただきたいし、ぜひともこの特別部会の様子をオンラインで傍聴していただきたい。コロナ禍で省庁の審議会はオンライン配信が増え、誰でも傍聴ができるようになっている。学内に一人は政策通の教職員を配置することも重要だと考えている。(H/K)
私学セクター全体の発展を使命に
本年もよろしくお願いいたします。まずは、1月1日に発生した令和6年能登半島地震で被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。特に当該地域の大学関係者におかれては、政府への要望等があればぜひとも私大協にご一報いただきたい。
2000年代に入って、あと1年で四半世紀が経つ。
この間の私大政策といえば、まず断続的な私立学校法の改正が思い起こされる。この意図は、性善説だった私学を性悪説で管理していくということだろう。その極めつけが昨年の改正だ。執行機関としての理事会と、監視機関としての評議員会の位置づけについて、両者の協働が重要としてはいるが、私立各大学の歴史や立地条件、分野や規模の相違など、多様な組織・経営を行う私学の現場を思えば、硬直化と画一化の懸念はぬぐえまい。困難な環境にあっても、スピーディ、かつ大胆な経営判断こそが重要なのである。
一方で、外国人留学生の増加や、社会人学生受入への本格的な検討、デジタル・オンラインツールの高度化等は、大学教育の可能性を広げる追い風となっている。また、新しい給付型奨学金制度の拡充は一定の評価ができよう。大震災や豪雨、コロナ禍といった自然災害は、捉え方によっては、大学の危機管理体制を強化したともいえる。しかし、もっとも重要な出来事は、18歳人口減少と若者偏在・大学全入時代に突入したことだ。もとより不利な競争環境に置かれていた私立大学については、定員未充足が増え始めた。特に、地方の小規模大学は学生が集まりづらく、結果的に大都市部の大規模大学の優位性が加速していった。定員未充足大学に対して厳しい方針に舵が切られつつある。この間、私学助成額はおおむね微減であったが、最大の懸念はこの配分基準であるということは指摘しておきたい。
「人口減少時代なのに、大学数が多い」という言説が社会で聞かれる一方で、2019年、新たに専門職大学制度も始まった。また、収容定員数千人規模で新設を申請しているオンライン大学も現れている。
もちろん、私立大学も更なる努力は必要になる。全国の大学を回って感じるのは、1つにはアピールの弱さである。意義のある素晴らしい取り組みなのだから、もっと自信をもって地元やメディアにアピールすべきであろう。それが直接的に学生の獲得に繋がらなくても、地域住民には確実に伝わり、ひいては大学が立地することの重要性も認知されるだろう。
大学分科会では、『急速な少子化が進行する中での将来社会を見据えた高等教育の在り方について』の審議が始まっている。こうした四半世紀の経緯を鑑みて、ぜひとも教育研究に留まらない私立大学の新しい役割に目を向けていただきたい。特に地域の生活維持における大学の重要性は、2014年頃から始まった地方創生政策で明らかになったのではないか(もっとも我々は20年余りも前から大学と地方自治体等の連携の必要を「地域共創運動」として提言してきたのであるが)。この意味でも、地方衰退を止める最後の砦の1つである私立大学を閉学に追い込むことは、政府や地方自治体にとって自殺行為であるようにも見えるのである。
急激な人口減少の一方、進学率のユニバーサル段階にあって、どのような人であっても高等教育をしっかりと修めて社会で活躍することが必要だ。それこそが成熟社会、そして、課題先進国における必須条件とも考えるのである。年頭に当たり、私学セクター全体の発展こそ使命と心得て今年も活動を強化していく。(H/K)
「合理的配慮」に財政支援充実を
令和6年4月から、いわゆる「障害者差別解消法」の改正により、私立大学は合理的配慮が法的義務となる。「障害者の権利に関する条約」第2条によると「合理的配慮」とは、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と定義される。
障害を理由に当該学生が授業を受けられない、キャンパス生活を営めないとするなら、それは「不当な差別的取扱い」とみなされる。障害学生からこうした障壁を取り除くことが求められた場合は、当事者と大学が建設的な対話によって、負担が重すぎない範囲で柔軟に対応をしなければならない。
現在は、文部科学省では「障害のある学生の修学支援に関する検討会」で現在、第三次まとめを作成中であるし、日本学生支援機構では豊富なデータで何度も研修会・セミナーなどで情報を提供している。
一方、障害を持つ学生は、この10年で4倍にもなるという。特に発達障害・精神障害等の学生の増加が目立つが、これは急に増えたというより、大学のユニバーサル化の時代を迎えていて、これまでにもいた学生たちが顕在化してきたのである。つまり、これからも障害を持つ学生の割合は増えていく。各大学においては早晩、担当者による個別対応のみでは限界を迎えていくのではないか。備えが必要な課題である。
ところで、すでに大学には、文化や宗教が異なる留学生、LGBTの学生、様々な年齢の学生...障害学生に限らず、多様な学生が学問を志して大学に集まっており、個別に対応していたのではなかったか。学生に限らず、教職員も多様化している。我が国の大学の現場では、そのつど施設設備を更新し、創意工夫の授業を提供してきたのである。
そこで私立大学においては、このたびの法的義務化を機に、「そのつどの個別対応」を一気に更新して「誰もがその人らしく学べる大学」に発想を転換していく契機としてはどうだろうか。それこそが昨今叫ばれている「ダイバーシティ&インクルージョン」(D&I)であり、現在のユニバーサル段階(トロウ)において、こうした多様性あふれる環境から、イノベーションや創造性が生まれ、新たな属性の学生を呼び込む可能性も開けるのである。従って、大学においては中期計画で掲げるなど、D&Iを前提とした理念へと転換していくべきとも考えるのである。
もちろん、それには少なくない額の財政措置が必要だ。多様性にはコストがかかる。加えて、合理的配慮が法的義務化されれば、当該学生からの訴訟リスクすらある。一方、私立大学は経営組織体であるため、規模等によってはほとんど配慮できないことも考えられる。ここは大学間のより一層の連携を図るとともに、政府による一層の財政的支援こそをお願いしたいと考えるのである。(H/K)
中教審諮問、実質的議論を
中央教育審議会は9月の会合で、5年前のグランドデザイン答申で提起された政策、高等教育全体の適正規模や設置者別の役割分担など、これまで積み残した議論を開始するとした。筆者は、長らく設置者負担主義の見直しについて声高に主張してきたが、ここにきて本質的かつ最重要な高等教育政策の議論が始まることについては期待をもって歓迎したい。今後も何度か本欄で扱うだろうが、紙面の関係からこのたびは4つに絞って同会合で議論すべき論点を挙げたい。
第1に、これまで行われた高等教育政策の評価である。例えば、一連の大学COC(+)事業について、これにより地域はどの程度活性化したのか。スーパーグローバル大学は?博士課程教育リーディングプログラムは?政府はどのように評価をし、そして、それがどのように次の政策に反映されているのか。
第2に、特に地方私立大学の厳しい経営状況である。高等教育機関の再編・統合といっても、大都市部と地方では事情が異なる。小規模であろうと大学がなくなるということは、そのまま地域の若者が急激に減少し、経済や文化に大きな影響を与えることを意味する。高等教育へのアクセスの確保のみで大学を語るのは、もはや無意味ではないか?そもそもの前提として、再編・統合の対象が私立大学のみであるように論じられるのも首をかしげざるを得ない。
第3に、設置者別の役割分担と国による財政支援の設置者負担主義の問題である。各設置者にはそれぞれ役割があるのであれば、その今日的な意味を根本から問い直し、将来にわたる大学像を示すべきであろう。そして、「高等教育費はだれが負担すべきか」、政府からの財政支援の在り方も諸外国の事例も参考にしつつ、深掘りの議論を期待している。その際、大学の使命は教育・研究・社会貢献であるが、大学は企業や自治体から見れば、地域課題を解決しながら地域の存続に重要なパートナーである点をいかに考えるか?必ずしも従来の使命のみに捉われない発想が必要である。日本私立大学協会では、以前からこのことに鑑み、私学助成の一般補助に「社会貢献係数」を導入する提言をしてきたところである。
第4に、「18歳が人口減少するから大学も整理統合を」という発想の安易さである。人口減少に反して、社会の課題はむしろ増えている。この観点からすれば、むしろ社会課題を解決したり、経済を活性させたりするイノベーションの源泉たる知の拠点(=大学)は拡充・強化されねばならないのではないか。安易な削減論は断固排除されねばならない。
全国各地の課題とその解決法は多様であり、必ずしも政府が作った指針や政策通りにならない。重要なことは画一的な大学政策を廃して、大学個々の創意工夫・多様な価値追求を激励し、将来に亘る高等教育像を構築することである。この意味でも、地方の高等教育の在り様に特化した議論も、例えば、地方中小規模大学に特化したアファーマティブアクションと絡めた議論に期待したい。
もちろん、私立大学もこれまで以上に高度な研究に邁進することや地域ニーズに応えた人材の養成、そして、地域のインフラを担っていかなければならない。そのため、今般の議論においては、より実質的かつ実効的な検討をしなければならないと考えているのである。(H/K)
研究力の高度化に提起
わが国の高等教育構造の特質の1つに、大学の設置形態が国立大学、公立大学と学校法人設置の私立大学が存在していること、そして量的な側面からみれば私立大学がその大層とも言うべき凡そ8割近くの人材養成を担当している点を指摘しておかねばならない。私立大学には現在、全国に620校、学生数は217万人であり、全国において特色のある私学教育を展開しているのである。
このため、小欄(アルカディアの風)においては、全国の私立大学振興の観点から地方創生に果たす私立大学の役割や在り方に係わる文教政策や文部行政への提言等に焦点を当てることが少なくない。
しかしながら多様かつ高度な学術研究を着実に推進する私立大学も多い現状を考えるに、今回は、この点に着目して、以下に提言などをしたい。
1995年に制定された科学技術基本法(現・科学技術・イノベーション基本法)では、「科学技術基本計画(現・科学技術・イノベーション基本計画)」を策定し、現在では第6期となっている。この間に、IT・バイオ・ナノ・環境といった研究分野の重点化が行われてきたのだが、「研究領域の集中と選択」その選択と集中に対しては、研究者から疑問の声も上がっていた。
現在、岸田政権下で推進されている「理工系人材育成戦略」についても、研究領域が偏りすぎとの声も聞く。確かに世界的に見れば、我が国の理工系人材の育成に課題があるのかもしれない。当該分野への政府予算の画期的とも言うべき予算措置の英断には敬意を表しているのだが、しかし、その他の分野を軽視してよいわけがない。
特にこのVUCA時代においては、幸福とは何か、人はいかに生きるべきかといった「人文知」こそが必要となろう。それは矢継ぎ早に登場する高度なテクノロジーに振り回されないための手段でもある。
昨今の高等教育機関における研究推進については、もう一つ大きな課題がある。先日の国際卓越研究大学の選定には東京大学、京都大学、東北大学しか残らなかった。それでは、私立大学の研究は卓越的ではないのかと言われればそんなことはないだろう。科学研究費補助金においては、分野によっては私立大学の採択数が上位に上がる。私大の潜在的な研究能力の証明であろうし、また、地方においては、地域の中小企業の課題を私立大学が解決する事例もしばしば耳にする。そこで、我が国の大学における研究の高度化については、以下の2点を提案したい。
1点目が、理工系人材の育成に加えて、人文系人材育成の政策推進である。政府が掲げる人生100年時代、ウェルビーイングでは「一人ひとりがどう生きるか」こそが問われる。この問いに重要なのは繰り返すが、諸科学の調和を志向した人材養成である。
2点目が、日本各地の地域ニーズに沿った研究への支援である。全国各地では、その自治体等の未来を支える研究に携わる私立大学の姿が見えた。私立大学の多様な研究は地域の課題解決の一助に寄与しているのである。
時代の大変化の局面にあって、我が国が世界の中で重要な位置をしめるためには、多様な価値追求をなす私立大学の学術研究の可能性を一層高めていくことであろうと考える。
(H/K)
地方の事情に合わせた政策を
都市部の女子大学の閉学決定のニュースは、大学関係者に大きな衝撃を与えた。その詳細は不明だが、急速に進む少子社会において、高等教育界の地殻変動の余震ともいうべきもので、今後の私大経営に多くの問題提起を示唆するものである。
全国に展開する私立大学に耳を傾ければ、ポストコロナ禍を凌いでいよいよ新展開をと企図しているものの、地域社会の疲弊・若者の減少に歯止めが利かないとの声が多くなっている。地方で頑張る私立大学に熱烈なるエールを贈る意味から、私立大学が当該地域に立地する意味を改めて整理し、その振興策の必要を訴えたい。
1つめが、地域における高等教育機会の提供である。東京はじめ大都市部や県庁所在地に住んでいない若者に、地元で学べる機会を多く提供している。卒業後には、地元に就職し地域の中核として活躍することが期待される。最近ではオンライン学習がある、という話も聞くが、コロナ禍では実際にキャンパスで大学生活を送る重要性が確認できたともいえる。
2つめが、地域活性の研究・実践機関としての役割である。教職員や学生が地域に出てフィールドワークを行い、地域市民との交流の中で社会関係資本(ソーシャルキャピタル)を高めていく。観光にも結び付け、調査研究から地域活性の道筋を探る。その中で学生は成長する。こうした取り組みを地方の私立大学は以前から地道に行っている。
3つめが、教職員や学生が地域に「いる」ことの意味である。経済波及効果や地域の賑わいなど、若者がいるだけで地域は活性化する。学生が地域の飲食店を使ったり、逆にアルバイトすることで経済は回る。何よりも街が明るいのだ。また、卒業後に地域との関りを継続していけば、「関係人口」にもなっていく。
したがって、私見ではあるが、大都市部よりも地方に立地する私立大学の方が、仮に大学が閉学した際の地域への影響は大きいと考えるのである。
しかしながら、多くの大学からの声は、自治体の支援が薄いとも聞く。いわく所管は文部科学省だからとか、地域には複数大学があり1つを特別扱いできないとか。そうした行政的事情は分からなくもないが、過疎化は切迫しており、立地の私立大学が閉学、あるいは、移転して困るのは当該自治体も同様であろう。以前、大学移転の決定の後、それは困ると言った自治体があったと聞いた。そうなってからでは遅いのである。
法律上、私立大学は所管ではないから地方自治体は支援ができない、ということであれば、支援できるよう法律や条例、制度こそを抜本的に変更すべきではないか。また、もはや東京から全国一律の大学政策を発信するやり方は時代にそぐわないのかもしれない。つまり、地方の事情に合わせた教育政策を審議する場も必要だと考えるのである。時間はない。地方の私立大学が地域に貢献している姿は本紙でも切れ目なく紹介している。私立各大学の一層の奮闘を期待するばかりだが、同時に各首長をはじめ地方自治体の現場の方々には、ぜひとも意識と制度の改革を望む。同時に政府にあっても、私立各大学の地域に根差し特色ある取り組みを鼓舞激励する総合的支援策の実施を期待している。
(H/K)
ChatGPT まずは大学が始めよ
昨年から生成系AIが世界を席巻している。オープンAI社のChatGPTが有名だが、これにGoogleやAmazonなど大手IT企業も追随している。生成系AIは、一言でいえばネット上にある膨大な情報を組み合わせて、ユーザーの質問や要求に「自然に」答える人工知能である。文章、画像、プログラミングのコードなど、これまで人の手で時間をかけて作成していたものが、この生成系AIのウェブサイトやアプリに要求すれば、ほぼ瞬間的に目立った違和感なく生成できてしまう。まずは実際に体験してみることをお勧めするが、例えばChatGPTのウェブサイトで(無料版はあるが登録が必要)、「〇〇について教えて」「この文章を要約して」「今度行うセミナーのアイディアを出して」などと尋ねると、もっともらしく回答をしてくれる。その回答がとても人間らしい表現のため、まるで人と対話をしているような気になることもある。しかしながら、固有の人物や地域、論文などは誤った情報を返してくる場合がある。未だ発展途上ということか、いずれにせよ、回答を丸々信用はできない。今はまだ、文章やアイディア、案内の「たたき台」を作ってくれるツールと考えておく方がよさそうだ。
さて、大学の現場にどのようなインパクトがあるだろうか。2つの文脈で考えてみた。1つが教育研究の現場での利用である。学生のレポートや論文の作成をはじめ、成績評価への活用などがある。レポートや論文作成では「もっともらしい」ため、実際に書いたかどうかは丁寧に読み込まないと判別がつかないとも言われている。現在は学生の使用許可については大学によって分かれているようだ。悩みながらゼロから学術的なレポートを作成することが大学教育であるから、その活用に賛否があるのは当然であろう。だが、社会に出れば生成系AIを使用した仕事は増えるし、進化もしているだろうから、一概に全てを禁止するべきではないだろう。これは各大学ごとにディプロマポリシーや授業の学習目標等と照らし合わせて、ルールを作りながら使用可否を判断していくべきものだと思う。
もう1つが大学の管理運営の現場での利用である。各種申請書や報告書など定型文の生成は、事務作業の低減や負担軽減に繋げることもできよう。よって、ある意味でこの観点での利用は積極的に進めるべきとも考えられる。しかし、同時に、特に欧米で問題になっているのは、著作権や個人情報関連の問題である。ネットの情報を利用しているため、著作権問題の整備ができていないというのである。また、簡単に生成できるからと、効率性や利便性だけで利活用を進めるのはリスクを伴うことでもある。もっとも、中央官庁でもその種の検討が進められているし、いくつかの自治体では既に業務の中でChatGPTを利用する旨を宣言している。従って、大学でも活用の功罪やリスクを大学人の英知を集めて見極める努力が必要であろう。
世界は実に急速なスピードで変化している。まさにVUCA(予測不可能)時代の只中にいる。数々の新しい問題に直面した時に、どのような方針をとり何を表明するのか、その素早さが大学関係者に必要な素養になっている。当然、新しいから様子を見る方針をとっても良い。しかし、ポストコロナ時代の大学は全く新たな問題に直面しているとも言える。「VUCA時代に自主的に行動できる人材の育成」が時代の要請と考えれば、私学人は私学教育の本質を再認識しつつ、まずは大学が、失敗を恐れずに小さくとも行動を始める姿勢をとるべきとも考えるのである。(H/K)
国公私の役割分担の議論を
去る2月24日、中央教育審議会大学分科会から『学修者本位の大学教育の実現に向けた今後の振興方策について』と題した審議まとめが公表された。この3月をもって同分科会の任期が終了、地方大学の在り方をはじめ難しいテーマの方向性が示された。
もっとも、この審議まとめでは、まだ全て議論され尽くしたのではなく、次期に引き継がれていくという。本稿では次期への期待とともにいくつかの課題を指摘したい。
この審議まとめは大きく3つの論点に分けられる。①主専攻・副専攻制の活用等を含む文理横断・文理融合教育の推進、②「出口における質保証」の充実・強化、③学生保護の仕組みの整備である。①については、相当練りこまれている印象を受ける。指摘のとおり、文理融合、レイトスペシャライゼーション...是非とも各大学においては必要とあらば推進してほしい施策である。同時に、やはり指摘のとおり、高校や社会などの接続においての周知と鼓舞激励・支援も欠かせない。これは大学の現場の自主的な取り組み努力とともに、行政的措置はじめ、広く国民的な意識醸成の推進をお願いしたいところである。
一方、②については特にST比の指摘などについて不満が残る。教育未来創造会議ではST比の改善による教育体制の充実について検討するようにとされており、今回の審議まとめが大学分科会からの回答とも捉えられるが、「ST比を質保証における遵守すべき基準として規定することについては課題も多く、更なる研究・知見の蓄積を要する課題」とまとめている。「ST比を質保証に結び付けるには課題が多」く、「積極的な情報公表」と記述するに留めてしまっている。筆者はST比が小さい方が教育の質の向上に繋がるという見方は広く受け入れられているだろうと考えていたが、この審議まとめではなぜこのような結果になったのであろうか。議論の詳細を知りたい。問題は、少子社会が急進展し、また、大学教育の質保証が課題とされているのに、規模拡大で大学の発展が可能となる構造に原因があると考えている。そしてそれは、大学の行財政格差にこそ起因しているのであり、その根本原因の是正策が必要と考える。
最後に「今後の高等教育全体の適正な規模を視野に入れた地域における質の高い高等教育へのアクセス確保の在り方や、国公私の設置者別の役割分担の在り方」についてである。このテーマは時間切れで議論を深められなかった、としている。筆者は特に最後の「国公私の設置者別の役割分担の在り方」について、これまでも注目をしてきた。地方の多様多層な中小規模私立大学に目を向ければ、その多くは地元進学率や地元就職率、教職員・学生の地域貢献に地道に寄与し地域の社会関係資本(ソーシャルキャピタル)に貢献してきている。これまでのこうした事実の評価をまずは行い、改めて大学の設置形態の在り方をはじめその役割分担について議論することが、我が国の今日的重要課題と言えるのではないかと考えるのである。
繰り返すが、次期大学分科会の審議に望むことは、実際の現場の声を踏まえたうえで、私立大学の社会的役割と公財政支出格差にこそ光を当て、議論を積み上げてほしいと願うのである。(H/K)
「新結合」で新しい価値を
政府の「教育未来創造会議」では第二次提言に向け、ワーキング・グループなどで議論を重ねている。テーマは「コロナ後のグローバル社会を見据えた人への投資」で、①コロナ後の新たな留学生受入れ・派遣計画、②卒業後の留学生等の活躍に向けた環境整備、③教育の国際化の促進などについて具体的に審議している。留学生の受け入れ・派遣に積極的に貢献してきた私立大学としても、その提言内容には大いに期待したい。特に国内から海外への派遣はさらにいっそう重要になろう。我が国の次世代には世界に目を向けて知的探求心を育んでいただきたいと願うのである。
同時に留学生の問題を、特に今後の18歳人口激減と関連付けるならば、海外留学生の受入から国内企業への就職、そして、日本定住を推進するこの政策は、単に教育の問題に留まらないのである。場合によっては、将来の日本社会・日本人の在り様を激変する政策になる重要課題である。
もっとも、出入国在留管理庁によると、令和4年6月末現在における在留外国人数は約300万人にもなる。すでに我が国の外国人受け入れは進んでおり、第二次提言の論点整理の内容には特段の意外性はない。
むしろ、現在の国際情勢を眺めると、世界的なレベルで急速な分断と対立が広がっている。これを踏まえたうえで改めてグローバル社会とは何か、日本の役割とは何か、そして、コロナ後の大学の役割は何かを考える必要がある。
振り返れば、日本では約1400年前に聖徳太子が中国を範として仏教を取り入れ律令国家を夢見て以来、明治維新、戦後などを通して、外国人を広く受け入れ、その文化・制度を取り込み、我が国の風土に合わせた形で融合させ、長い時間をかけて発展させてきた。
イノベーションを造語した経済学者シュンペーターは、その意味を、異質同士を組み合わせる「新結合」であるとした。我が国は外国人の積極的な受け入れの意味について、彼ら/彼女らの貴重な知見を日本の文化風土と「新結合」して新しい価値を生み出し、日本経済の活性化に結び付けていくといった、したたかな戦略も描いていくべき時に来ているのではないだろうか。その受け入れの拠点として、あるいは、「新結合」の場としての機能を担うのが大学となろう。
これらを踏まえて、第二次提言の審議過程に目を向ければ、ぜひともコロナ禍で激減した留学生を即急に戻す政策を打って出るべきであるし、初等中等教育段階から、多様性(ダイバーシティ)や包摂性(インクルーシブ)を高める教育という視点は重要になろう。これらの教育に、大学の留学生・外国人教員が果たせる役割は大きい。
繰り返すが、これからのグローバル教育は、単に経済界が求める「グローバル人材の育成」という短期的な視野でみるのではなく、我が国の人口減少に対応する政策であるとともに、これから1400年後の、日本の新しい文化風土をつくる礎(いしずえ)となる政策として捉えていくべきであると考えるのである。
遠い将来の世代に何を残すことができるのか、大学こそが長期的視野で我が国の在り様を考え、その知見を広く示していくべきであろう。(H/K)
出生数77万人の衝撃
昨年の出生数は80万人を割り込み約77万人となる見通しだ。これは国立社会保障・人口問題研究所が予測していた2030年より8年も早い。これを受け岸田首相は「異次元の少子化対策」を進めるとした。何分にもナーバスかつ様々な切り口がある問題であるから総合的な議論の深まりとともに、その効果には期待している。
少子社会が我が国に到来して約25年が経過する。就職氷河期への対応の不十分から、団塊ジュニア世代は十分な所得が得られず、結婚の機会を逃してしまったという者もいる。初等中等教育はもちろん、国立・私立大学への財政支出も相変わらず低い水準であるから、やはり高い教育費を敬遠して子供を産まないという選択者もいるとも聞く。
昨今の政府予算の内訳を見ると、社会保障費が全体の約3分の1を占めている。いわゆる「団塊の世代」が後期高齢者になれば、さらに社会保障費の割合は高くなる。このために現役世代に対して、さらなる増税、保険料率の引き上げが検討されるだろう。
政府からは「人への投資」の掛け声を聴く。まさに時代変化の折々に、教育投資によって難局を克服してきたのであるから、いわゆる「米百俵の精神」こそ我が国の最重要の理念の一つであり方略の基本でなくてはならないはずだ。
子供は国家発展の必須与件であり、少子化が進めば国が破綻してしまうという簡単な事実から多くの人が目を逸らしてきたと言えなくもない。特に地方においては高齢化も顕著であり、2014年の地方創生政策では「消滅可能性自治体」という言葉が政策に躍った。昔は「日本には人しか資源がない」と言われていたが、人(子)すら失われつつあるのである。われわれ大学人は「全入時代」として早期から少子社会の到来を敏感にとらえ、時には地方創生政策への政府提言なども行ってきたのである。昨年の出生数を前に、われわれはこの危機感をさらに加速させ、貴重な若者をしっかりと育成し、一方で多様な財源をきっちりと確保しなければならない。
重要なことは、安心して子供が産める社会であると同時に、すでに生まれた子供が「自分らしく学ぶことができ、誰一人取り残されず、一人一人の可能性が最大限に引き出され(教育振興基本計画部会諮問文)」る教育が受けられることである。ただし、教育現場に目を向けてみると、大学受験の実情から見えてくる変わらない大学観、国・公立大学中心主義の自治体や学校関係者の姿が見てとれる。77万人という危機的な状況を前にして、一人一人の可能性が最大限に引き出される、きめ細かい教育を行う大学の育成と、規模と役割との点検・整理を含め我が国大学教育の全体像の再構築が必要と考えるのである。
もちろん、われわれ私学人も、状況を打破するブレイクスルーを探し続けなければならないのであるが、国の財政支出の在り方を含めて公平公正な高等教育政策、環境整備がより一層必要となってきていると考える昨今である。(H/K)
教育の未来に本質的議論を
政府の「教育未来創造会議」が発足して約1年が経過した。昨年5月には第一次提言をとりまとめ、今後の社会像や目指したい人材育成の在り方を示した。「人への投資を通じた「成長と分配の好循環」を教育・人材育成においても実現し、「新しい資本主義」の実現に資する」との主張には敬意を表したい。
しかし、である。DXやGX人材、理工系人材など、この予測不可能な時代に、非常に具体的な人材像を掲げるのは疑問を感じざるを得ない。予測不可能だからこそ、大学の原点である『真理の探究』を改めて掲げ、主体的かつ創造的に解決できる人材が必要なのではないか。それには、理工系人材の育成のみが重要というわけではないはずだ(「文理融合」等に触れてはいるが)。さらに言えば、問題は小中高等学校に連続する教育目標として、総合的な提案が必要であろう。こうした同提言の偏った捉え方にこそ、大学人はもっと声を上げるべきであろう。
さて、同提言の初めに人口減少が取り上げられているが、確かに我が国の重大事項である。『地方創生政策』では、この大きな要因の一つが地方から大都市部への人口流入とされていた。ここで地方大学に大きな役割があったのだが、あろうことか「経営困難な大学が生じる事態から学生を保護する観点から」計画的に規模の縮小や撤退などがなされるよう経営指導を徹底するとしている。人口流出は当該大学のみに責任があるのだろうか。
そもそも、先述の通り政府が将来的に必要と考える人材を育成するよう大学に政策誘導しても、高校生や保護者は現在の安定した職業を求めて進路を決めるので、志願者が集まらないという事態が起こりうる。
そして定員割れすると政府は私学助成減額などのペナルティを課す。本来は初等中等教育から変えていかなければ、社会はその意味や社会的意義を読み取ってくれない。同提言のごとくに「まず大学が変われ」と言われても、教育はモノづくりとは異なり、一足飛びには変えられないし、経営組織体の私立大学にとっては、実に存亡に係る課題を内包しているのである。
更に同提言では「ST比の改善」が何度も指摘されている。その通り、ST比(教員1人当たりの学生数)が上がれば当然、手厚い教育ができない。しかし政府で採用されたのは、「定員超過については入学定員の基準を廃する」という政策である。中退者分などで合格者を増やせるため、結果的にST比が上がり、教育の質的充実には逆効果になることもありうる。一方で、定員未充足大学への私学助成の停止などの厳格化は更に迅速に進められる。「ST比改善の議論」はいったいいつ行われたのか。「これからの日本に必要な人材」は大都市と地方では異なるのであって、大都市のニーズのみがクローズアップされている感が否めない。
このように、同提言を見ていると、教育再生実行会議の各種提言や「2040グランデザイン答申」といった過去の政策の反省や整合性が顧みられることもなく、よく見ると矛盾があるし、パッチワークな政策となっているように思える。
今後、第二次提言を出すのであれば、特に都市部・地方部の高等教育の調和ある発展を基本とし、例えば「設置形態論」のような本質的な議論をお願いしたいと強く願うのである。
(H/K)
「機関要件」に社会正義はあるか
コロナ禍で始まった修学支援新制度について、その在り方の見直しが文部科学省で審議されている。背景は、政府の本年度「教育未来創造会議第1次提言」と「経済財政運営と改革の基本方針2022(骨太の方針)」である。この中で修学支援新制度は、「大学の経営困難から学生を保護する視点から、計画的な規模の縮小や撤退等も含めた経営指導の徹底や、修学支援新制度の対象を定員充足率が収容定員の8割以上の大学とするなどの機関要件の厳格化を図る」とされている。現行の機関要件の1つに「直近3年度全ての在籍学生数が収容定員の8割未満」という項目があり、この見直しが審議の焦点の1つとなっている。
筆者は、同制度の新設の際、機関要件を条件とすることに反対の立場を取った。なぜ個人補助に「機関」(大学)の状況が条件化されるのか。この度の見直しでもその立場は同様である。筆者の所属する日本私立大学協会がこのたびの検討会議の場で表明した立場を改めて紹介する。
〈学生の経済支援を狙いとする制度においては、機関要件は設けられるべきではなく、むしろ撤廃されるべきである〉〈定員未充足はあくまで経営指標の一つにすぎず、定員未充足の状況を過度に重視することは、国土の均衡ある発展や質保証に向けた先進的な取組をも阻害しかねない〉
筆者が特に重視したいのは、大都市と地方の人口流動の構造的問題である。政府の「地方創生政策」では18歳人口の大都市(東京)流入を抑制することが求められたのではなかったか。この施策の検証なしに、定員未充足の大学がまるで無作為のように糾弾され、責任を大学に転嫁する姿勢はいかがなものか。先述の本協会でも次のように意見表明をしている。
〈人口減に喘ぐ地方から大学教育を受ける機会が奪われ、地方の加速度的な衰退を招来することとなる〉〈定員未充足であっても、経営努力をし、質の高い教育や社会貢献により、地域の貴重な高等教育機関として存在する私立大学に対しては、むしろ国が積極的に支援する発想の転換が求められる〉
このたびの提言等で不利益を被るのは、特に地方であり、様々な実情のある地方の学生である。まず、地方の多くの私立大学生は地元出身者である。また、同制度の対象は家庭所得が基準より低い傾向もある。ある学生の地元大学が制度の対象外となれば、大都市等の対象大学を選ばざるを得ず、下宿による出費も迫られる。学生の経済的課題は学費のみではない。政府の為政者は、地方の急激な人口減少のつけを地方の若者に押し付け、地域格差をさらに拡大させようというつもりなのだろうか。
若者には青春のひと時に都会を体験することは重要で、大学間連携による単位互換制度の創設などがあってもよい。私学団体はかつてこれを「渡り鳥政策」として提案したことがあった。
そもそも大前提として議論されるべきは「国立大学と私立大学の格差」であり、更には学部学生1人当たりの公財政支出格差13倍という不合理を早期に是正することである。
繰り返すが、学生の就学支援を拡大するため、機関要件の撤廃こそ強く望むのである。本協会の表明の象徴的な一文を最後に掲載する。
〈学生の責任ではない「機関要件による制限」に、社会正義を見出すことは難しい〉(H/K)
危機に強い大学づくりを
気候変動(地球温暖化)の影響だろうか、毎夏、全国各地で異常気象、そして、大水害が発生している。本年も東北や北陸、そして、静岡等で深刻な爪痕を残した。まずは被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げたい。
我が国は1年を通じて、地震、台風、大雪など、自然災害が多い。したがって、教育機関では、施設設備の耐震補強などハード面、そして、避難訓練や備蓄品確保、自治体との連携などソフト面での備えが必須となる。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震などなど数え上げればきりがないが、この間の体験を通じて実感することは、学校は学生や教職員の安否確認や立地地域住民の避難など、全国津々浦々で常に重要な役割を果たしてきた。その役割は今後においても変わることはないし、否、むしろ、日本列島の地殻変動が活発化している今こそ、ますます重要となってこよう。
本紙では、私立各大学の危機管理体制について取材・紹介をしているが、危機管理の手法は多様である。例えば、危機管理本部を法人が主導する場合と、大学が主導する場合がある。マニュアル内容は、人文系、理工系(実習や実験がある)など学部構成でも異なる。また、大きな川沿いに立地していたり、海沿いだったりと大学の立地地域によって何を重大な危機事態と想定するかも異なる。過去に大きな災害に見舞われていたり、危機対応に直面した経験があると、大学全体の危機意識は常に高い状態にあるのが一般的である。古い話で恐縮だが、大正12年の関東大震災時には、大学研究室の薬品が散乱し、惨事の原因になったとの文献を読んだことがある。大学はすでにある法令順守を含めて、様々な可能性とともに厳重注意の取り扱いなどが特に求められてもいるのである。
多くの大学が頭を抱える昨今に特有の危機として、サイバーセキュリティやSNSの炎上が挙げられる。前者は大学システムへのクラッキング、後者は学生のツイッター等への投稿炎上である。これらへの対策は今後ますます重要となる。場合によっては政府が財政的支援をして、私立大学のサイバーセキュリティを向上させるべきであろう。
一方、地域の災害対策にも貢献し、地域での存在感を高めている私立大学も存在する。多くの大学が自治体から緊急避難場所として指定されていたり、災害時に学生がボランティアを行う事例は数々の災害復旧現場で見られた。ボランティアを志願する学生への周到な事前教育や訓練を行ってもいる。
危機事態への迅速かつ的確な対応は、2つの意義があるのではないか。1つは当然、「ステークホルダーの生命を守ること」である。2つは「大学ブランドの維持」である。教育研究管理など事業継続も最終的にはブランドの維持に結びつくと考えられる。一方、対応に不備があれば、それは誹謗中傷とともに全国に知れ渡る可能性が高い。
こうした事態を防ぐためにも、全国の事例から有用な取り組みを抽出して、大学に活かすことが重要である。これからも本紙で紹介していくので、ぜひ参考にしていただきたい。
麗澤大学の廣池幹堂理事長は、日ごろから『考えられないこと、考えたくないことを考えるのが危機管理の基本』と教職員に仰っているという。至言である。これは危機管理に限らない。まさに18歳人口の減少こそが大学界の危機事象であり「できれば考えたくないこと」かもしれない。しかし、この危機に対して覚悟を決めて直視し、正面から向かい合う大学こそが、「危機に強い大学」と言えるのではないだろうか。(H/K)
がんばれライブラリアン
40年余り前、筆者はカナダのブリティッシュコロンビア大学の図書館を見学した。広大なキャンパスのほぼ中心部にその建物はあって、広く明るい閲覧室・講義室とともに、豊富な知識技術を持つライブラリアンの支援の下、それらは講義と一体化した運営がなされていた。我が国で大学の質的充実が叫ばれていた折、理想の姿に感じられたものである。
2000年前半から我が国でも「ラーニングコモンズ」が導入され始めている。ラーニングコモンズを図書館と一体化するケースは多い。筆者は過去に大正大学、玉川大学、立命館大学等の図書館を見学したが、それは見事な施設設備であり、ライブラリアンの創意工夫の努力もあって、大学の象徴的な立ち位置を確保していたのである。現在では、多くの大学で図書館を利用した入試や、電子書籍のみの電子図書館など最先端の取り組みを行うなど大学図書館は進化し続けている。
日本私立大学協会は過去に、単位制による新制大学制度の実質化(今日でいう「質保証」)には大学図書館の活用が不可欠との認識にたって、大学図書館研究委員会において長年にわたり研究とともにライブラリアンの養成をめざし、書誌解題を中心に研修会を行ってきた。かつては大学の心臓部と言われ、蔵書数等ハード面での整備を整え、ライブラリアン養成の必要性を提言してきたのであった。このような歴史を踏まえつつ、コロナ禍での経験を勘案するに鑑み、高度情報社会の大学図書館と学士課程教育の連携をいっそう推し進める時機にあると筆者は考える。
先述のような大規模校では、その多くで設計思想から学生の利用までを教職員とライブラリアンが議論しながら整備している。小規模大学でも、机・椅子の配置や小道具を工夫して、学生に活用される自作のスペースを設置するケースもある。
こうした図書館やラーニングコモンズの整備が、大学教育の質的充実との関係において、世界的に低い水準とも言われる学生の授業外学修時間の増加に結び付いているか。教員は図書館を利活用した学修を授業で促しているか。その状況等を検証すべき時期にあるのではないだろうか。また、図書館やラーニングコモンズが学修の場となる中、ライブラリアンと初年次教育や学修支援関連部署の職員の仕事が大きく接近することにもなる。業務の構造改革も一層進める必要があろう。
そして、コロナ禍。極論をすればオンラインで全て学べるテクノロジーが実現しつつある。そこで図書館やラーニングコモンズには、どのような役割が残されているのか。これこそが、オンライン時代の学修者本位の大学教育のあり方を考える際の本質的な問いではないか。私学が心の教育、魂の教育を目標に建学の理想実現の教育機関と考える筆者にしてみれば、アクティブラーニングや反転授業、大規模オンライン学習(MOOCs)など、新しい取り組みが登場しても、学園全体として調和のとれた大学教育の実現が必須だと考えるからである。
それにつけても、この実現には、大学トップをはじめ大学構成員全員の地道な知識・技術・態度の獲得、そして、そのことによって学生の好奇心に火を点けることが重要になるだろう。その先導役としてライブラリアンの方々には頑張っていただきたい。(H/K)
「学習者支援基本法(仮称)」の提案
岸田政権『骨太の方針2022』では、次世代育成の重要性に着目し「人への投資と分配」を掲げ、奨学金の拡大、特に日本版HECS(いわゆる「出世払い制度」)などの検討が明記された。歓迎すべき政策提案であろう。我が国の奨学金と言えば、日本学生支援機構(JASSO)の給付型有利子・無利子の貸与型の奨学金のほか、コロナ禍で新たに「高等教育の修学支援新制度」がスタート、私立高校については一足早く授業料の実質無償化の制度が始まっている。留学では「トビタテ!留学JAPAN」の返済不要の奨学金があり、地方自治体や財界等に目を向けると、学生に給付型奨学金を出す市町村や企業もある。また、税制面では贈与税の非課税制度がある。社会人の学びに目を向けると「教育訓練給付制度」で学費補助が受けられる。私学助成には、学生の「修学上の経済的負担の軽減」という目的もある。
そもそも論でいえば、家計負担に頼る我が国の教育システム、そして、国公立と私立の埋まらない財政支援格差をどうするかという国家の教育論の在り方がまず初めに語られるべきであろう。しかし、本稿では、このたびの「学習者の経済的支援」を主題とする。
まず、一連の経済的支援は、財源や建前上の目的が異なっている。全体的に見ると奨学金制度は(失礼ながら)、パッチワーク的制度に見え、学習者からすると非常に分かりづらい、使いづらいようにも見える。例えば、JASSOが2021年1月に「高等教育の修学支援新制度」の認知度に関する調査を行った。それによると、42・3%の高校生、35・5%の保護者が同制度を認知していた。これを多いとみるか少ないとみるかは判断が分かれるかもしれないが、少なくとも筆者は少ないと感じた。その要因は、やはり制度の分かりづらさにあると考えるのである。
そこで、日本版HECSという学生納付金支援の在り方の検討を機に、これまでの政府・自治体の奨学金の種類や性質を整理して、一元化してはどうかと考えるのである。具体的には、まず理念法となる「学習者支援基本法(仮称)」を制定する。これは、あらゆる学習者の学びを力強く推進するため、経済的負担を軽減する施策を講じることを目的とする。そして、設置形態によらず、学習者の経済状況に配慮した支援、地域性や年齢、学びの特徴(フルタイムか学び直しかなど)を考慮した支援など様々な場合・場面を想定しつつ財源の拡充と一元化をしていくべきであろう。これによって、必要な人に必要な支援が行われるようにする。その結果、そもそもの国公立の教育機関の学費設定も変わってこよう。これは教育機関の機関補助とは全く異なる理念であり、私学助成とは無関係に実施される施策とすることも重要な視点である。
厚生労働省が8月30日に公表した人口動態統計(速報値)によると、2022年上半期の出生数は、38万4942人で初めて40万人をきった。そのような少子化時代で我が国の競争力を高めるのには、ますます必要なのが次世代への教育投資、学習支援である。即急に基本法を制定して、学習者にとって分かりやすく申請もしやすい給付型奨学金となることを望んでいる。
なお、今回は学習者の個人補助に焦点を当てたが、ポストコロナ時代の大学の質的充実が喫緊の課題となっている現状を考えると、大学改革へのインセンティブとなる機関補助の充実とのバランスを考慮した総合的支援の必要性を痛感するのである。(H/K)
設置基準改正「規制緩和」慎重に
中央教育審議会大学分科会の質保証システム部会は3月、「新たな時代を見据えた質保証システムの改善・充実について」をまとめた。一言でいえば規制緩和を目的とした大学設置基準の改正である。注目すべきは、基幹教員制度の導入、教育課程等に係る特例制度、入学定員での管理から収容定員での管理へと改めること...などである。
日本私立大学協会では意見書を提出、詳細は本協会ウェブサイトをご覧いただきたいが、本欄で筆者の私見も交えて一部紹介する。
まず、総論として、これら提言は、多様な各大学の教育と学術研究の「自主性」「独自性」「多様性」が尊重される制度設計になっているか、つまり、我が国の大学全体を俯瞰した制度設計であるか否かが気になるところである。何より国公私立大学の公平・公正な競争環境を実現、多彩かつ重層的な教育学術研究が構成されねばなるまい。その意味からの懸念を抱くのである。
次に各論であるが、まずは基幹教員制度である。柔軟な学位プログラムの構築を実現する、特に人口減少が深刻になる地方の大学においても活用が期待できる提言と考えられる。しかし、基幹教員の勤務体制や給与体系など、大学と教員間でトラブルを避けるためにも、より具体的な議論や例示が必要となろう。
次に、教育課程等に係る特例制度である。質が高く先導的な教育が実現される大学であれば、単位互換やオンライン授業の単位数の上限を緩和する制度である。確かにコロナ禍に端を発したオンライン授業が世界的に広まり一定の成果は得られたが、その学習効果の本格的な分析と検証、議論はこれからではないのか。現に多くの私立大学では対面授業に戻しているとも聞く。したがって、(特に)オンライン授業の単位数上限の緩和は時期尚早のようにも感じるのだが、どうだろうか。
最後に、基盤的経費の配分等の審査基準を入学定員から収容定員へと変更する件である。これは同協会の意見書でも指摘しているように、中退者による収容定員不足を入学者で補填することとなれば、却って過度な入学者調整上の混乱を招く可能性も否めない。さらには、ある年の入学者を定員以上に増やすことは、ST比悪化から教育の質低下を招き、かえって中退者が増加する恐れもある。もちろん、この前提には主に東京の大学の定員厳格化による混乱があったことは承知している。しかし、定員管理の前に、中退予防、中退対策の徹底強化、教育の質の担保こそ真っ先に議論すべきテーマであろう。
以上のように考えると、社会変化に柔軟に対応する改正ではあるが、その社会変化が個別具体でそれへの個別対応に見えなくもない。逆に、どんなに社会が変化しようとも、学修者中心の質の高い教育を提供すべきなのであって、まずもってその実現に向けた取り組みが十分なのか検証する必要もあろう。例えば、人口減少社会において、これまでのような定員増が果たして「社会変化に柔軟に対応している」と言えるのか。
私立各大学の創意工夫の取り組みをエンカレッジする「規制緩和」は歓迎するところではあるが、大学の根幹をなす基準の改正であるから、慎重であることはもちろんのこととも考えるのである。(H/K)
地方私大の声に耳傾けて
文部科学省は、2023年度「魅力ある地方大学の実現に資する地方国立大学の定員増」について、島根大学、広島大学、徳島大学を選定した。昨年度は採択がゼロだった事業である。同事業の批判については、以前にも本欄で日本私立大学協会加盟大学の声とともに触れた。しかしながら、地方に所在し地域活性をも担ってきた私立大学が多く加盟する本協会だからこそ、我が国の活性化に果たす全国私大の振興という立場から、何度も声高に「私大の果たす地方創生論」を主張していきたいと思う。
まず、前提として少子化・高齢化の進行には地域差があり、地方ほど急激に進んでいるため、地方でこそICT化・IoT化を推進しなければならないことは理解できる。しかしながら、それは当該地域のために、当該地域の特徴を活かして推進しなければならないだろう。それは同事業の採択条件にも記されていることである。しかし、今回の採択大学では本当に当該地域のニーズに基づき、「当該地域でなければできない教育」なのだろうか。その取り組みで本当に「地方が創生される」のだろうか。
そもそも、同一地域の私立大学に比べて、国立大学は地元進学者が少ないことが各種データで知られている。当該地域への就職率も低い、あるいは、地方公務員や銀行などに就職するケースが多いと聞く。この状況を改善しようと『大学COC+事業』もあったように記憶しているが、さてその結果はどうだったのだろうか。これまでの地方国立大学の「地方創生効果」総括ができない中で、新しい地方創生政策で国立大学に補助金を出す。定員増をする。政府は、私立大学にはPDCAサイクルが重要だと指摘しているが、一方、政府の政策のサイクルは回っているのだろうか。
地方国立大学が何もしていないわけではないし、頑張っている国立大学があることは承知しているが、しかしやはり目線は地域ではなく政策財源に向いているのではないか。地方創生を目的とした補助金や今回のような措置がない場合、どこまで本腰を入れて取り組むのか疑問である。
一方、地方私立大学の幹部に話を聞けば、当たり前のように「本学が生き残る前提は地域が元気であること」と断言される。地域でのインターンシップ・地域プロジェクトを推し進め、学生に地域企業への就職を促し、地域企業の経営者向けのセミナーをしたり、地域の活性化のために汗をかく姿が見て取れる。地域と大学は運命共同体であり、その中から生まれてきたのが、本協会が長らく掲げる「地域共創」というコンセプトでもあるのだ。様々な建前で国立大学を支援する政府の仕組みにおいて、今回は地方創生を名目にしただけではないのか。(特に地方の)国立大学はどこを向いて教育研究を行っているのか、地方私立大学と同じ覚悟を持ち合わせているのか、それこそを問いたいのである。
今回の定員増政策に限らない。政策決定者は、地方の私立大学関係者の声にもっと耳を傾けてほしい。素晴らしい取り組みを知ることができるし、地域によって異なる実情も見えてくるのである。極論を言えば、民活こそ重要であって、国が一つの制度や基準で多様な大学の営みをコントロールする時代ではないのではないだろうか。
(H/K)
確実な「人への投資」を
岸田政権から去る6月7日、「経済財政運営と改革の基本方針2022」、いわゆる「骨太の方針」が示された。今もってなおイメージのわかない新しい資本主義ではあるが、「人への投資と分配」「科学技術・イノベーションへの投資」など、教育・人材育成・科学技術をより重視する方針は、総論としては歓迎したい。筆者としては、急激な人口減少を迎えている我が国にとって、人への投資は急務かつ必須の問題と考えるからである。ただし、各論にはいくつかの注文をつけたくなる。
まず、奨学金の拡大、日本版HECS(いわゆる「出世払い」)など、学生への個人補助が強調されている。少子化、経済格差の拡大、コロナ禍による経済停滞、ウクライナ危機による物価高騰など、家庭・学生生活への逆風はますます強くなるから、これは当然の措置としても、ぜひとも国立・私立大学生で格差がないようにしてほしい。未だに「国立大学生は優遇されて当然」と考える論調があるが、「新しい資本主義」下では、学ぶ意欲のある人に公正に支援することが当たり前になってほしい。
社会全体の学び直しについては、予算面の措置も主要課題だが、制度面のさらなる改革、規制緩和等が必要になろう。学び直しや社会人学生の増加については、これまで何十年も叫ばれてきた政策である。それにも関わらず期待すべき成果があまり得られないのは、やはり企業サイドの、働き始めてから大学院などに行っても社内の評価に結びつかない文化や、横断的な労働市場が形成されていないわが国特有の今日的課題も大きいように感じる。それにしても、企業が高卒よりも大卒を高給で採用するということは、大学での学びに何らかの期待をしてのことだろうが、仕事を始めてからの学びに何ら価値を見出さないのはなぜなのだろうか。
未来を支える人材を育む大学等の機能強化については、政府が望む分野の人材育成を行う政策を強化するようにも読める。デジタル、グリーンという成長分野、そして、自然科学(理系)分野の人材養成を伸ばしていくという。一方、全国の私立大学は、多様な学部構成で、建学の精神に基づき、地域ニーズに応じて、多様な教育研究を展開している。「政府のニーズに応じる」大学もあるだろうが、それよりも地域ニーズを優先させる大学もあるだろう。願わくば、こうした地域の大学を十分に支援する方策をとってほしいものである。
そして、一番問題視すべきは「私学助成のメリハリ付けの活用」という文言である。これは定員充足率に応じて私学助成にメリハリをつける政策ということになろうが、本欄で何度も指摘してきたように、現場では定員割れだからといって、教育の質が低いわけでも、努力をしていないわけでもない。まさに地方創生政策の要因となった、若者の東京一極集中・都市集中が原因であり、これは大学教育とは関係ない動きである。本気で人口流出を軽減したり地域を活性させたいなら、多様で創意工夫を本領とする地方大学の支援こそ優先すべき政策である。大学はすでに外部セクターとの関係の中で存在し期待をされているのである。
以上、骨太方針への意見を述べてきたが、今年も大変な年回りであることは間違いない。時代への大転換期こそ、創意工夫の私学のダイナミズムが新境地を開拓すると確信している。
(H/K)
私学振興の想い新たに
この3月に文部科学省の「学校法人制度改革特別委員会」と「大学分科会質保証システム部会」から次々と審議まとめ・報告書が公表された。
特に前者は、私立学校のガバナンス改革について不明点も多々あるのだが、八分方の想いながら、新たな局面を迎えていると言える。筆者は、評議員会の機能拡充について十分に納得できたとは言い難い。いや、それ以前に、評議員(会)制度が私立学校法立法当時、私学経営に全きを期すため学内外者の幅広い意見を聴取するシステムとして制度設計された原点があることや、多様な私学の圧倒的多数は、両者の良好な関係を維持しながら工夫をもって運営されている事実をこの法改正が阻害しないか危惧している。いずれにせよ、今秋以降の国会で私学法改正が審議される予定であり、最大級の注目をしているのである。
後者については、あくまで「特例」とはいえ、大学設置基準の緩和の可能性が前進するかもしれないことは、特筆すべきことである。特に「基幹教員(仮称)」は、「教育課程の編成等に責任を担う者であって、常勤の教員や一定以上の授業科目を担当する教員」だという。こうした概念の登場は、学部の根幹となる「学位プログラム」の構築に、有益なものとなるのではと感じるのである。
この2つのまとめに共通する重要点は、教学・経営の両面において、理事長・理事会・学長・学部長・評議員・評議員会・監事という、私立大学経営陣の各役割がますます重要になるということである。これら役職に就く関係者は、関係法令・法規はもちろん、私学教育や私学精神とは何か、その実現の方略をしっかりと身につけねばなるまい。そのためには、筆者が所属する日本私立大学協会において、これまで以上に情報提供と研鑽の機会を設定して、それぞれの役割を果たしていただかなければならない。
その他にも、本年度にあたっては、政府からは、「デジタル田園都市構想」におけるデータサイエンス教育の発展、これまで以上に求められる私立大学の地域共創、研究活動の高度化、はたまた、学費の「出世払い」と言われる「日本版HECS」など、次々と政策の矢が放たれてくるだろう。まさに予測不可能な時代・世界、複雑化する社会において、各私立大学は建学の精神というその存在の根源に立ち返って、学生を教育し、持続的な大学経営を行わなければならない。
その背景にある日本社会はといえば、ますますの少子高齢化に加えて、喫緊の課題としては、エネルギー価格の高騰、徐々に物価も値上がりしている。今、我々教育関係者が全力で考え実行しなければならないことは、未来の日本を支える少子化時代の若者をどのように支援し鍛えることができるのかである。また、それは家庭の経済事情によって左右されてはならないし、その若者の学力のみで支援するかどうかを決定するべきでもない。「誰一人取り残さない」はSDGsの標語でもあるが、我が国の教育政策にこそ当てはまると言えるのではないか。
私学振興団体の存在意義とは、こうした想いを胸に現場で奮闘される私学人を鼓舞激励し、私学振興にまい進することである。これを新しい年度を迎え改めて感じているのである。
(H/K)
私学振興の想い新たに
この3月に文部科学省の「学校法人制度改革特別委員会」と「大学分科会質保証システム部会」から次々と審議まとめ・報告書が公表された。
特に前者は、私立学校のガバナンス改革について不明点も多々あるのだが、八分方の想いながら、新たな局面を迎えていると言える。筆者は、評議員会の機能拡充について十分に納得できたとは言い難い。いや、それ以前に、評議員(会)制度が私立学校法立法当時、私学経営に全きを期すため学内外者の幅広い意見を聴取するシステムとして制度設計された原点があることや、多様な私学の圧倒的多数は、両者の良好な関係を維持しながら工夫をもって運営されている事実をこの法改正が阻害しないか危惧している。いずれにせよ、今秋以降の国会で私学法改正が審議される予定であり、最大級の注目をしているのである。
後者については、あくまで「特例」とはいえ、大学設置基準の緩和の可能性が前進するかもしれないことは、特筆すべきことである。特に「基幹教員(仮称)」は、「教育課程の編成等に責任を担う者であって、常勤の教員や一定以上の授業科目を担当する教員」だという。こうした概念の登場は、学部の根幹となる「学位プログラム」の構築に、有益なものとなるのではと感じるのである。
この2つのまとめに共通する重要点は、教学・経営の両面において、理事長・理事会・学長・学部長・評議員・評議員会・監事という、私立大学経営陣の各役割がますます重要になるということである。これら役職に就く関係者は、関係法令・法規はもちろん、私学教育や私学精神とは何か、その実現の方略をしっかりと身につけねばなるまい。そのためには、筆者が所属する日本私立大学協会において、これまで以上に情報提供と研鑽の機会を設定して、それぞれの役割を果たしていただかなければならない。
その他にも、本年度にあたっては、政府からは、「デジタル田園都市構想」におけるデータサイエンス教育の発展、これまで以上に求められる私立大学の地域共創、研究活動の高度化、はたまた、学費の「出世払い」と言われる「日本版HECS」など、次々と政策の矢が放たれてくるだろう。まさに予測不可能な時代・世界、複雑化する社会において、各私立大学は建学の精神というその存在の根源に立ち返って、学生を教育し、持続的な大学経営を行わなければならない。
その背景にある日本社会はといえば、ますますの少子高齢化に加えて、喫緊の課題としては、エネルギー価格の高騰、徐々に物価も値上がりしている。今、我々教育関係者が全力で考え実行しなければならないことは、未来の日本を支える少子化時代の若者をどのように支援し鍛えることができるのかである。また、それは家庭の経済事情によって左右されてはならないし、その若者の学力のみで支援するかどうかを決定するべきでもない。「誰一人取り残さない」はSDGsの標語でもあるが、我が国の教育政策にこそ当てはまると言えるのではないか。
私学振興団体の存在意義とは、こうした想いを胸に現場で奮闘される私学人を鼓舞激励し、私学振興にまい進することである。これを新しい年度を迎え改めて感じているのである。
(H/K)
留学再開の前倒し願う
岸田文雄首相は、今後3月から、段階的にではあるが、留学生や技能実習生の入国を認めていくという。
新型コロナウイルスによる世界的感染拡大が続くが、この間、グローバル社会の推進において、留学生30万人計画を力強く推進してきた私立大学の立場としては、その政策判断を支持し賛同したい。
感染力が非常に高いとされるオミクロン株については、11月末からの感染拡大時期は、まだ実態がつかめない中で「鎖国」ともいわれる厳しい対策となったことは周知の事実である。
これは少なくとも国民を安心させる効果はあったと考えられるが、与党内からも「科学的に意味がない」(世耕弘成議員)と声があるように、入国緩和は前倒しで検討されるべきだったと言えよう。
翻って、国家安全保障にかかわる留学の意味を再確認したい。海外からの留学生を受け入れ、日本に関心を持ってもらい、日本通になって本国帰国後、日本の応援団になってもらうことは国益そのものと言える。
本国で日本の評判を高め、外交やビジネスのキーパーソンになってもらう。これがひいては、日本の安全保障の一翼を担うとする施策であるし、日本に限らずいずれの国でも採用する国際交流の大義といえよう。
しかしながら、ほぼすべての国において、コロナ禍で留学生受け入れ・派遣を停止せざるをえなくなっていた。特にこのオミクロン株にもっとも慎重に対応したのが日本であった。ところが、多くのメディアが報じるように、日本への留学生の不信感を募らせることになった。「日本からは留学生が来ているのに、なぜ日本には行けないのか」という困惑である。当然の想いである。中には、すでに日本への留学はあきらめて近隣諸国に変更するケースもでてきている。
日本私立大学協会の国際交流委員会は、令和3年12月20日、文部科学省「水際対策強化に伴う対応に関するタスクフォース」に対して、谷岡一郎委員長名義で「外国人留学生の新規入国に関する要望」を発している。その要望は、①新規入国の早期再開②受入れ再開時の隔離施設の変更許可③(地方大学のための)隔離施設への移動及び宿泊費用の援助④事務手続きの簡略化⑤情報の一元化―である(詳細は同協会ウェブサイトを参照)。
このたびの岸田首相の英断に敬意を表するとともに、筆者は改めて政府には前述の項目を強く要望したいのである。当然だが、入国時の感染チェックを万全に行うことは言うまでもないが、留学生を受け入れる大学にあってもその感染対策は一層強化し万全を期す必要がある。
繰り返すが、留学生は我が国の未来の応援団である。日本に興味を持ち、日本を慕って、日本への留学を決めてくれた。卒業時にはさらに日本が好きになり帰国してもらう。あるいは、日本で働いていただく。そうした親日の若者たちを失望させてしまうことは、多くの識者が指摘するように、国益に反することである。
ぜひとも、留学再開時期の前倒しの決断を切に願っている。
(H/K)
「デジタルGP」等の提案
2020年に新型コロナウイルス感染症が世界的流行の様相を呈してきたのがちょうど2年前となる。この間、私立各大学(主に関東圏となるが)がどのような対応・対策をしてきたかは、本紙で克明に記録し報道してきた。ここから分かることは、社会的に問題とされた「大学はオンラインによって楽をしている」といった事態とは真逆のことであった。何人もの担当教職員が「当時のことは思い出したくない」と述べたように、当時、大学の現場は大混乱し、創設以来の危機到来と言っても過言ではなかった。遠隔授業を余儀なくされ、教員は授業準備に追われ、学生はICT環境の構築に追われ、職員はそれらの全面支援に追われたのである。
夏を過ぎると多少余裕が出てきたものの、年末から再び感染者が増加。こうして感染者の増減によって、大学は授業形態を変更せざるを得なかった。そして、感染者の乱高下はまだ続き、大学も振り回され続けている。
しかしながら、新しい希望も生まれた。教職員も学生も「オンライン授業」に慣れ始め、反転授業はもちろん、オンラインならではの工夫をして配信する授業等、多くの大学で多くの教員がそれぞれ新しい試みを始めていた。「誰一人取り残さない」というメッセージが掲げられ、教職員がコロナ前より一丸となった。学生は、教職員よりもオンライン化に馴染むのが早い傾向があり、自粛下においても、学生同士がSNSなどでつながっていたり、オンラインの機器使用において教員をサポートしたという。
「危機をチャンスにではないが、このノウハウは生かしていく」、何人もの関係者がこう述べていたが、それぞれの大学で、オンラインと対面の良いところを融合させ、大学のカリキュラムが再構築され、それがそのまま当該大学の特色に繋がっていくのであろう。
また、地域活動においても、教員、学生が地域のデジタル化を支える例も散見される。遠方で頻繁には訪問できない地域とは、オンラインで繋がり交流や取り組みを行う事例がますます増えると考えられよう。
翻って、岸田文雄首相は、先の施政方針演説において、成長戦略の第一の柱として「デジタル田園都市国家構想」を掲げている。これは、地方からデジタルの実装を進め、新たな変革の波を起こし、地方と都市の差を縮めていくことで、世界とつながることを目的としている。地方の細やかなデジタル実装については、そのニーズに基づいてすでに手掛けつつあると、地方の各私立大学のトップからも聞いている。つまり、デジタル化の波は、地方でもすでに始まっているのである。
この流れをさらに大きな波とするためにも、私立大学への金銭的支援が必要になる。そこで、大学教育のDX化を推進する『スキームD』事業のほかに、地域連携のDXを進める『デジタルGP』や、研究のDXである『私立大学研究DX事業』といった競争的資金の創設が必要と考える。コロナ禍で生まれた「良い事例」を鼓舞激励し、政府の構想を強力に推進することはまさに時代の要請なのである。私立各大学の創意工夫と各地域のニーズに合わせるという意味では、最適の政策ではないかと思うのだがどうであろうか。
(H/K)
多様な現場踏まえたガバナンス議論を
大学設置・学校法人審議会のもとに「学校法人制度改革特別委員会」が設置され、1月12日から審議が行われている。いよいよ学校法人ガバナンス改革に私立学校の現場を踏まえた一定の結論が出されることになろう。ここで、改めて筆者の主張と、学校法人制度改革特別委員会への期待を論じたい。
全国410大学が加盟する日本私立大学協会には、現場から多数のガバナンス改革への意見が寄せられたが、その大部分は、先の「学校法人ガバナンス改革会議」が主張する法改正は必要がないのではないか、令和元年度の改正を基本に私立各大学の自主的改善努力こそが今後とも重要、というものであった。各学校法人の成り立ちは、創業家、私人の共同設立、公設民営など多様であり、また、それを踏まえての現在の経営形態も多様といえる。だからこそ、同協会では、大学事務研究委員会が作成した『私立大学版ガバナンス・コード』(日本私立大学協会憲章)に基づき、学校法人ごとにガバナンス体制を明確にすることを奨励しているのである。
もちろん筆者らは、学校法人ガバナンスの充実・強化に反対しているのではない。長い間、私立大学の現場に基づいて積み上げてきた経験や議論、私学人が時代の要請に応じた着実な改革実践を無視した改革会議の横暴な議論の進め方に抗議しているのである。新しい特別委員会はこの点を踏まえるという前提で、教育機関・学術研究機関の真のガバナンスの姿について論じてほしいと願っている。
そこで、次のような提言をしたい。
1つ目は、社会が求める不祥事の防止が、本当に現行法で対応できないのか、という点である。多様な背景のもとに運営されている学校法人においては、法規制は最小限にしつつ、私大各団体が策定しているガバナンス・コードによって自主的・自律的に決定すべきである。これこそが多様な活力を生むのである。そもそも、令和元年度の私学法改正時の附則第13条では、5か年にわたり検証期間を設けるとして、課題の性質上、慎重かつ良識的な方針を採用していたのではないか。
2つ目は、評議員会の役割についてである。改革会議の提言は全くの暴論と考えるが、社会福祉法人等と同等の評議員会を、最高意思決定機関として監督機関化し、最終的には、理事会と評議員会の相互牽制が必要だとしている。もっとも、評議員会が力を持てば指摘する理事長の暴走が抑えられるかというと、これは甚だ疑問に思わざるを得ない。戦後まもなくして創設された学校法人制度では、建学の精神具現のあらまほしき姿として経営の健全性、意思決定の妥当性を担保する制度として、諮問機関としての評議員制度が創設されたはずである。そして私立大学は、建学の精神具現の全学一致の体制こそが私立学校の原点であり、その目指すべき目標が学生ファーストにこそあることを心すべきである。
なお、理事や評議員が学校法人の法制度や大学に係る総合的な知見を身につけることで、理事会と評議員会とが共によりよい大学を創る(まさに共創する)ことができるのであるから、私見ながら、かかる学校法人の役員については、私学教育の使命、本学の教育目標、経営組織体としての財務・会計基準、総じて学校法人とその設置する私立大学の諸課題についての経営者研修(Board Development)が重要になると考えるのである。
3つ目は、前回にも指摘をしたが、単に不祥事防止という議論に終始せず、建学の精神を具現する私学教育を実現するための学校法人制度の在り方について総合的充実策策定の見地から多様な実態を踏まえ、エビデンスに基づいた議論をしてほしいのである。そのためには、特にコロナ禍を乗り越えた学校法人制度の新しいあり方の探究こそが時代的要請であり、乱暴・拙速な議論は「角を矯めて牛を殺す」結果を招来すると考えている。
いずれにせよ、賽は投げられた。今後の特別委員会の動静を見守りたい。(おわり)
(H/K)
ガバナンス改革議論に期す
新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、文科省「学校法人ガバナンス改革会議(改革会議)」が、昨年12月3日に報告書を提示した。これを受けて末松信介文部科学大臣は、改めて私学関係者(私学団体代表者)を構成メンバーとする会議体「学校法人制度改革特別委員会」を設置して検討開始に至っている。本稿では、特に全国の私学関係者から指摘を受けた当該課題を中心に整理しておきたい。
1点目は、ガバナンス改革の内容である。改革会議では、学校法人の「不祥事防止」の議論に終始しているきらいがある。もちろん不祥事の防止は重要テーマであるが、むしろ「建学の精神を教育研究として最大限に実現する」ための制度改革の視点こそが議論されるべきである。また、改革会議で指摘のあった「社会福祉法人の仕組みを学校法人に適応すればよりよいガバナンスになる」という根拠はどこにあるのか。目的の異なる法人の仕組みを安易に導入することは乱暴極まりない。教育研究を推進するに相応しい制度改善の努力を惜しんではならない。
2点目は、改革会議の設立経緯とメンバー構成である。令和元年以降の「骨太方針」で学校法人ガバナンスの機能強化が求められてはいた。しかし、同年の私学法改正の国会審議では、私学の自主性尊重の観点から、5か年にわたり法改正の効果を検証する旨が附帯決議された。これを反故にしての「骨太方針」である点は看過できない。
通常、法改正を伴う審議の最後段階では「大学設置・学校法人審議会の学校法人分科会」(旧私立大学審議会)で審議される内容だが、改革会議は文科大臣直下で設置された。委員は大学教育には十分に精通してはおられない方々のようであった。審議中は、これからの私立学校の在り方を自由に議論するのに、当事者の意見は必要ないとのことであった。こうした事態は非常に深刻だと言わざるを得ない。
時代に応じて制度の微調整は必要である。しかし、歴史の中で積み上げてきた制度を、簡単に根幹から変えてしまうことは、政策決定のプロセスとして正しいはずもない。なによりも、こうした「結論ありきの強引な会議体」がまかり通ったという悪しき前例を作ってしまうことに危機感を覚えるのである。
3点目は、日本私立大学協会に関わることである。同協会事務局には、全国の私立大学関係者のみならず、マスコミ報道各社からも意見・懸念が寄せられた。筆者らはこうした意見をまとめては、政府及び政権与党に要請しロビー活動を展開した。同協会附置私学高等教育研究所は、2度にわたる公開研究会や、全私立大学対象のガバナンス調査を行った。今回の末松大臣の英断は実に適切と評価したい。
新しい会議においても、現場の創意工夫や多様性を十二分に発揮できる法改正でなければ私学人として承服することはできまい。視野の狭い「改革」で、現場の旺盛な意欲を失わせてしまってはならない。新たな高等教育像が模索される今、このことを痛切に感じているのは筆者ひとりではないと確信している。(つづく)
(H/K)
人口減少下での大学連携
日本私立学校振興・共済事業団から公表された令和3年度「私立大学・短期大学等入学志願動向」の結果は衝撃だった。統計上初めて入学定員充足率(入学者数÷定員数)が昨年度比で2・80<MG CHAR="ポイ","ント" SIZE=100.0>低下し99・81%と100%を割り込んだのである。この要因は首都圏の定員充足率の厳格化の影響が当然考えられる。とはいえ、長期トレンドとして18歳人口減少の一方で、専門職大学の制度化、新設大学・学部・学科による入学定員数の増加、そして、今回のコロナ禍等、来るべくして来た結果なのである。
ここで頭をよぎるのが、平成30年の答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」である。その4章「18歳人口の減少を踏まえた高等教育機関の規模や地域配置」では、「教育研究活動の共通点をもつ国公私立大学の複合システムを活かして、我が国の高等教育の発展に国公私全体で取り組んでいく必要がある」、「人口減少がより急速に進むこれからの20年間においては、地方における質の高い教育機会の確保が大きな課題となる」などと書かれてはいる。しかし、具体となると「地域における高等教育のグランドデザイン」「地域連携プラットフォーム(仮称)」を連呼するばかりで政府としてのグランドデザインや具体策に欠ける。18歳人口の急激な減少がいよいよ現実となりつつある今こそ、改めて政府は、より具体的なグランドデザインとその必要政策の立案を断行する必要がある。
その際に重要なのは、やはりグランドデザイン答申に書かれた「多様性と柔軟性」である。この担い手は、建学の精神や多様な地域の要請に応じた現場の創意工夫がすでに全国に多様な教育研究を生み出し続けている私立大学である。この活力を損なわずに若者の人口減に対応するために、2つの提言を述べたい。
1つが、国立大学の役割と規模に関連する提案である。大都市圏への若者流入を抑制するべく、大都市圏の国立大学の入学定員を縮小させる。特に研究大学を自負する国立大学は、大学院大学化して研究力の向上に努めるべきだ。地方国立大学の定員増が話題になったが、少子化社会の到来のもとでは、大都市の国立大学の定員減やグローバル化対応への転換、さらには設置形態を超えた国立・私立大学間の連携などを模索すべきであろう。もちろん、地域によって18歳人口や大学学部の分布は異なる。大事は、文教政策にあっても「官から民へ」の時代潮流に応え、大学人及び関係者の知恵出しが求められているということである。
2つが、公立大学の役割と規模に関連する提案である。この30年で公立大学数は約2・5倍に増加した。そして、私立大学から公立化した公立大学では、その地域からの進学者が減少する傾向にあるという。このことは、答申の「地方における質の高い教育機会の確保」に繋がるとはいえないのではないか。地域人材や地方のリーダー人材の養成は、地方や地域に根差した私立大学もまた大きな役割を果たしてきた実績がある。公立大学は私立大学と連携して、地域の活性化に貢献するかが、今、問われているのではないか。なお、公立大学人気の大きな要素が学生納付金額の安さであるなら、私立大学についても自治体から学生納付金の補助という形で実現はできると考えるべきであろう。
このたびの「入学志願動向」では、入学定員が少ない小規模大学の定員充足率ほど落ち込んだ。しかし、小規模大学で話を聞けば、どこも「強みは柔軟な機動力」と胸を張っていた。ならばこそ、地域のニーズや時代の要請に応えた、しかも設置形態を超える大学間の柔軟な連携が必要であり、そこにも政府及び地方自治体の大いなる財政的支援が期待されるのである。
(H/K)
岸田新内閣への期待
令和3年10月4日、岸田内閣が発足した。8日の衆院本会議では、内閣発足後初の所信表明演説が行われた。本稿では、この所信表明演説をもとに岸田新内閣への期待を綴りたい。
まず、岸田総理は、「健全な民主主義の中核である中間層を守り...政府が大胆な投資をしていく」としている。今日の我が国の発展の礎となった「分厚い中間層」の養成については、日本私立大学協会では、これまでの私立大学の功績の一つとして認識しているところであり、岸田総理がこの層の支援を掲げたことは私立大学関係者としておおいに評価したい。
成長戦略の第一の柱には、「科学技術立国」の実現を掲げている。これは復活とした方が良いのではないだろうか。1995年に科学技術基本法が施行され、科学技術基本計画が策定されるようになった。しかし、その後は国立大学の法人化、同時期に施行された運営費交付金の削減等とともに、主に科学技術分野の日本の総論文数が減少していったという主張がある。筆者も一部同意するが、私立大学も我が国の科学技術政策を支えてきたことは述べておきたい。この事実を踏まえ、年度内に設置するという10兆円規模の大学ファンドについては、多様な価値追求をなす私立大学も対象に加え、純粋に研究力の底上げを目指して頂きたい。
「デジタル田園都市国家構想」にも触れている。これは、地方からデジタルの実装を進め、新たな変革の波を起こし、地方と都市の差を縮めていくものだという。特に地方では、地域のDX化をけん引している私立の工業系大学もある。ぜひともこうした地道だが堅実な取り組みにも、光を当てて頂きたいものである。
「子供から子育て世代、お年寄りまで、全ての方が安心できる、全世代型社会保障の構築を目指す」ともしている。社会保障は、知識技術の習得による職業力の向上や生活の豊かさの追求も含まれているはずである。よって、全世代型社会保障の実現にあたり、大学こそがより強力なパートナーであると考えて頂きたいと考えている。
また、大学卒業後の所得に応じた「出世払い」を行う仕組み(日本版HECS)も実現するという。これについては国立大学生と私立大学生で、学費補助額に差をつけないようにお願いしたい。先述の通り、中間層支援を掲げるのであれば、我が国の大学生の8割が通う私立大にこそ、この政策の中心と想定すべきであろう。
「東日本大震災からの復興なくして日本の再生なし」と掲げるのは我が意を得たりである。例えば東北工業大学は、被災地の学術機関として自ら被災している中で、いち早く「復興大学」を立ち上げ、学都仙台コンソーシアムの参加校が連携しながら事業を推進してきた。自然災害大国の我が国において、防災の知見が集積してきた大学を重視することは当然の政策と言ってもよい。
紙面の都合ですべて書ききれないが、ほかにも「学校法人ガバナンス改革会議」の動向についても強く注文を付けたいところである。同会議の拙速な進め方は将来に禍根を残すことになるだろう。
岸田総理は演説の最後に「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」と述べた。政府の大学政策において軽視されがちな私立大学を、今度こそ「みんな」に含めて頂きたいものである。
(H/K)
2020年度を総括し説明を
3月まで本紙で不定期連載していた『コロナ下の意志決定』には、日本私立大学協会加盟大学の理事長・学長に多数ご寄稿を頂いた。この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。この総括でも触れられていたが、緊急時の大学意思決定においては、やはりトップリーダーによる問題の全体像や本質を見極める資質や決断力が重要であることは言うまでもないが、事態の進捗に応じた柔軟な判断と実行力が重要だと痛感した。加えてこの間の各校の状況を振り返れば、社会や大学ステークホルダーへの意思決定プロセスの説明も不可欠であった。
周知のとおり、昨年4月以降ほぼ全ての大学で、政府の緊急事態宣言に伴う学生の大学入構制限、そして、オンライン授業への移行を決定した。本協会では、他の大学団体とも共同して「オンライン授業展開」への旗を振ったことも思い返される。緊急事態では平時と異なり、意思決定のスピードが求められる。学生、教職員の命を守るためには、少数の幹部の責任において早期に決断することは当然である。
後期授業の方法も全国の私立大学で対応は様々であった。特に関東近辺の各大学の対応は、本紙でも紹介しているように、大学トップの教育観、安全観、オンライン授業その他の実現可能性などを判断材料として方針が決定していったようである。
そして1年が過ぎ、2021年度を迎えた。ここで各大学が行うべきことがある、と筆者は考える。すなわち、2020年度のコロナ対応の総括と、大学ステークホルダーへの説明・報告である。コロナ禍はまだ進行中であるので、"2020年度の"としている。試行錯誤の取り組みと膨大な労力をかけた私立大学のコロナ対応は我が国に誇れる営為であったと筆者は考えているが、やはり学生・保護者も我慢を強いられたことも事実であろう。
昨年1年で、大学当局は何を考え決定し、また、教員は学生に何を語り伝えてきたのか。昨年1年を教訓、あるいは、糧として今後の大学教育をどのように構築するのか。コロナ後の大学教育の姿、それはとりもなおさず、大学制度自体の変容(筆者は大学史上の大きな潮目と呼んでいる)を意味している。そして、大学経営がコロナ禍に少しずつ慣れつつある今だからこそ、当時を振り返り大学の責任者としての反省や誓い、そして、ステークホルダーに対して納得感があり共感が得られる丁寧な説明を行わなければならないと考えるのである。それがリスクコミュニケーションであり、今後も永続的な大学経営を担保し、ステークホルダーと信頼関係を維持していくための重要なポイントになるであろう。
また、コロナ禍の詳細な記録を残すことは、大学にとっても、再び新型感染症が流行したり、あるいは自然災害に見舞われ、緊急時の大学経営を余儀なくされたときの指針として利用できるはずである。いずれにせよ「2020年度は大変だった」で済まされるべきことではないであろう。
大学ガバナンスでも重要なことは、意思決定に係る工夫と学生に寄り添うコミュニケーションである。この点にこそ心の教育を行う私学教育の精髄があると考えている。
連携法人の利点は明らかか
文部科学省は、「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申を踏まえ、「大学等連携推進法人」の設置を可能とすべく大学設置基準等の一部を改正する省令等を施行した。
これは国公私立大学という大学の設置形態の枠組みを超えて、大学等の機能の分担及び教育研究や事務の連携など、各大学等の強みを生かした連携ができる制度であるという。早速、この3月には全国初となる大学等連携推進法人「一般社団法人大学アライアンスやまなし」が誕生している。
ところで、上記の「国公私立大学の枠組みを超えて」という部分に注目したい。全国を見渡すと、部分的・限定的ではあるものの、すでにある地域の国立大学と私立大学、地方の国立大学と都市部の私立大学の連携など、国私間の大学連携事例は増加しているようにも感じる。
教育面でのリソースを大学間で融通し合って教育力を強化することは、学生にとっては良い効果と言える。大学、いや、大学人が一致協力して日本の若者・学生を鍛え上げるという視点に立脚するのであれば、もはや、同じ地域内の国公私立大学間で争っている余裕はないというのは正論である。しかも、この動きは、私立大学の経営戦略の新たなステージとしても歓迎したいと思うが、思索を一歩進めると根本的な懸念がないわけでもない。
つまり、私立大学における大学間連携とは建学の精神具現との関係でいかなる意味を持つのかが先に問われねばなるまい。また、全国の大学の厳しい経営環境を克服する決定打となり得るか、地方創生施策と関連して各地で進められる産学官民プラットフォームの構築、そして、この仕組みを活用する際の手順は明確になっているのかなど、筆者は未だに理解に至らず不明である。
さらに付言したい。20年近く前、筆者は全国組織の私立大学団体にあって、地域社会とそこに立地する私立大学は共に地域社会の将来を創造する関係であり、地域活性の原動力として「地域共創」運動を展開した。その過程から、学問分野や設置形態、その地域を超えた「地域と大学」との連携事業が展開されたことも承知はしている。その際に最大の障害となったのが、設置形態の違いからくる「ガバナンスと財政の問題」であったと記憶している。教育交流では学納金も問題であった。国の財政支出・学生一人当たりのファンディング格差(13倍)を要因とするものだが、このたびの大学等連携推進法人ではこの点にも改善方策が講じられているのだろうか。
しかるべきように、教学面・財政面ともに当該大学にとって大きな利点がなければ、連携法人を利用する経営判断は難しいのではないだろうか。
時代の大きな転換点、ウィズコロナ・アフターコロナが叫ばれる昨今である。
この連携法人施策が積年の課題である、国私間の国費支援格差の是正や教育費の家計負担軽減をはじめとする高等教育政策のパラダイムシフト実現の端緒となることを願ってやまない。
(H/K)
新年度を展望する
令和2年度を振り返れば、まさにコロナ一色であった。令和3年度4月末の状況を見ると、本年度もその影響は大であろう。全国の私立大学の現場を振り返れば、見通しが立たない状況に焦燥感と戸惑いの連続で、毎日が難しい決断だったと思う。日本私立大学協会にも入学式・卒業式は実施すべきか、対面授業は可能か、いかにして大学教育の質を担保するかなど全国から様々な照会や要望が寄せられていた。
希望もあった。感染拡大への対策として、新たな取り組みを行う大学は少なくなかった。オンライン教育はもちろん、新しい生活様式(ニューノーマル)をいち早く教育に取り込む動きもあり、元気づけられた。新型コロナは、発想の転換、逆境を力とするしたたかさ、すなわち大学の底力が試された1年だったと総括できるのではないか。
新型コロナは、大学の教育研究の在り方をより多様にした。規模や地域、学部構成と共に、遠隔/対面の比率も、今後の重要な差別化戦略となろう。受験者の大学選びの指標の1つとして定着していくかもしれない。
こうした現場の模索に対して、政府及び文教関係国会議員には、学びの継続に係る照会や請願活動が活発に行われた。結果として、高等教育機関へのコロナ対策予算には様々な配慮があった。この点は評価できよう。特に学生個人への修学支援策では、アルバイトができない、家庭の経済状況が悪化したケースでの財政支援は一定の成果があった。
しかし、である。この間の政府の高等教育政策はどうであったのか。「面接授業の比率を増やすように」との文部科学省からの通達は、各大学の自主性・主体性に水をさすもので現場を混乱させた。何より地域や規模等を考慮しない画一的なやり方は、少々乱暴というそしりは免れられない。また、以前に本欄で話題にした「地方創生を目的とした地方国立大学の定員増」にいたっては、このコロナ禍において緊急性の高い政策だったのだろうか。具体の政策遂行は文部科学省に委ねられるのだが、地方現場の混乱回避を願うばかりである。
まだある。紆余曲折から始まった大学共通テストの改革の審議は未だ議論の着地点が見えないし、政府肝いりの「10兆円ファンド」政策は、それ自体厳しい国家財政下、画期的な成果と評価できるのだが、具体の実行段階をめぐって数々の問題指摘もある。「私立大学等改革総合支援事業」による政策誘導が多様な現場の活力を削いでいるのではないか、という疑問の声も聞かれる。ゆめゆめ、「国立大学優先の政策」であってはならないし、多様な学術振興策・高等教育全体の振興策が待たれるのである。
アフターコロナの大学政策については、2018年の「グランドデザイン」答申でも謳われたように、「大学の多様性」こそをその出発点とし、政府は各大学の現場の取り組みをエンカレッジする基本方針を打ち出してほしいものである。我が国の高等教育の活性化は、「政策誘導」型から、現場の取り組みに寄り添い財政的にエンカレッジする「現場促進」型への方向転換が求められていると痛感している。
最後に、古稀を超えた立場として考えることだが、若年層への感染力も高いと言われる変異株が広まる中、ワクチン接種は未来を担う子供や学生の優先順位こそを高めてほしいと願うのは手前勝手だろうか。
(H/K)
心の支えを形作る教育を
コロナ禍で、大学のオンライン教育やデジタル・トランスフォーメーション(DX)への機運が高まっている。それに伴い、世界へのアクセスがより容易になり、大都市圏を中心に大学のグローバル化がより加速することになるだろう。しかし、言い古されたことではあるが、この多文化共生社会において、日本の若者に必要なのは、自らの精神性を認識し鍛えることではないかとも感じている。(予め明記するが、筆者はここでナショナリズムを喚起したいわけではない)
恐らく多くの日本人は、「自分は無宗教である」と考えていると思うが、米一粒やトイレにも神がいるという「八百万の神」の価値観、本居宣長が源氏物語から読み解いた「もののあはれ」という感性、司馬遼太郎が見抜いた「名こそ惜しけれ」という武士道の規範は、この文化風土で培ってきた精神性をうまく表現したものと言える。
そして、西行が詠んだ句「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」。どういう神仏が祀られているのかは知らないけれど、ありがたくて涙がこぼれるという心境は、どんな宗教のどんな神仏でも感謝するという、多くの日本人の宗教観そのものではないかとすら思うのである。
こうした例示は、日本で生まれ育ったならば、何となく感ずるものがあるはずだ。どの神仏かにこだわらないことは、「無宗教」とはまた異なるようにも感じる。そうした古来よりの日本人の精神性を見つめなおし言語化して認識することこそが、多文化共生社会、そして、理性や科学を重視する(筆者が思うに行き過ぎた)啓蒙主義的な現代において、改めて重要であるように思うのである。
この3月で東日本大震災から10年が経つが、この災害による関連死は約2万人にもなるという。当時、否応なく自分たちの「死生観」を突き付けられたわけだが、「無宗教」と自認する我々は、明確な答えを持っていたのだろうか。翻って、高齢化社会、災害多発国と昨今は命に係わる課題が多い。繰り返すが、日本人としての精神性を今こそ直視すべき時期なのではないのだろうか。
一方で、自死を選ぶ若者が後を絶たない。その数は世界的にも高いという。それは貧困など社会的要因も大きいが、これまで心の支柱とすべき精神を形作る教育をおろそかにしてきた影響もあるのではないだろうか。「宗教」とは言わないまでも、自らの心の在りよう、持ちようを探索・探求し、それを保持することで、恐怖や不安に苛まれてもそれを跳ね返す強さを身に付けることができる。そうすれば例えばカルト的な新興宗教に、心の隙間に入りこまれることもなく、薬物依存症など青少年を蝕む問題も払しょくできるはずだ。そして、そうした精神作りは大学においては、特にリベラルアーツこそがそれを担うべきと考えるのである。
昨今のSTEAM教育、グローバル教育、ICT教育などはいずれも新時代を生き抜く若者にとってどれも重要である。しかし、これまで述べたように、自分とは何か、日本人とは何かといった探求が伴わなければ、人材育成における画竜点睛を欠く危険性をはらむと言えるのではないか。我が国の教育の根本命題と考えるのである。
(H/K)
地方国大定員増の波紋(下)
前号では、地方国立大学の「特例的定員増」問題の経緯を振り返るとともに、日本私立大学協会鶴衛副会長の意見を紹介した。本稿では、この問題に対して全国から寄せられた加盟大学の声を紹介し、最後に筆者の意見を述べたい。
「もし地方国立大学の学部定員増が必要であると考えるならば、(略)すべての高等教育機関を対象として、地方の特色・ニーズ等を踏まえた人材の育成、研究開発等に必要な大胆な改革などに取り組む必要がある。STEAM人材特化には疑義が残るが」「地方では、私立大学に比較して国立大学は全国から受験生を集めている傾向がある。また、各地方での大学教育供給量は、国立大学よりも私立大学が大きく貢献している。地方創生のためには地域に根差した私立大学の強化政策の方が有効である」「(国立大学の)定員増を実施したとしても、その人材は地元に魅力ある仕事がなければ、地元にとどまることなく大都市に流出するだけである。若者にとって魅力ある地域産業の振興と創出こそが優先課題であろう。なぜ国立大学の定員増なのか理解に苦しむ」「地方国立大学の就職状況を見ると、その定員を増やしても若者の地方定着につながらない。どのような議論の結果、このような政策選択がなされたのか甚だ疑問である」
紙面の都合上、全ては紹介しきれないが、これらの意見とその行間から垣間見える「いらだち」こそが地方私立大学の率直な感想と言っていい。
筆者からは、更なる問題点を指摘したい。我が国社会は未曽有かつ急速な少子高齢化社会が進行している。平和で自由な成熟社会を今後とも継続・発展させていくためには、一にも二にも人材養成に頼らねばならないことは自明であり、特に高等教育の役割は重要である。他方、我が国社会における都市部と地方部との調和ある存続・発展方策もまた重要である。
高等教育の役割及び期待が一層高まりをみせていることは当然であるが、それゆえに我が国の現状や将来予測、さらには高等教育の実像・実態に基づいた議論や政策提案が重要となってくる。
大学についてみれば、その8割を私立大学が担当しているのであり、その大宗を語ることなく「特例的な地方国立大学の定員増」問題が、地方創生との文脈で論じられたことには、まことに残念至極というほかない。
そもそも、政府の「地方創生政策」は2014年から始まり、地方国立大学を中心に大学政策が試行されてきたが、その成果や検証結果を未だ聞いていない。くどいようだが、今回の地方国立大学の定員増提案と大学COC事業の政策としての接続性等は如何ほどなのか。本協会では、すでに19年近く前から(地方創生政策の実施以前から)「地域に根付き、地域と共に地域を創る」私立大学の重要性に着目して『地域共創』と命名し、全国の私立大学の取り組みを支援してきた。ある意味において安倍政権の地方創生政策の基礎を築いてきたとの自負もある。本紙でも『地域共創の現場』として地方私立大学の多様な取り組みを紹介してもきた。また、それらの取り組みを一層加速する方策を私立大学基本問題研究委員会(担当理事=黒田壽二金沢工業大学学園長・総長)で研究し、様々に提案等を行ってきたが、具体的には私立大学等経常費補助金に『社会貢献係数』の導入の提案もした。
「地方創生に資する魅力ある地方大学の実現に向けた検討会議」の「取りまとめ」では、「地方を支える知の拠点として(公立・)私立大学が重要な役割を果たしている」、「国立大学は「学費が安い」「家に近い」以外の価値を創出しない限り、(略)生き残りは難しい」とも述べている。であるなら、依然横たわる、学生一人当たりの公財政支出の理不尽な国私間格差(約13倍)にメスを入れ、公正・公平な競争環境実現や大学の役割・使命・費用対効果、さらに言えば大学の設置形態論にまで議論を進め、我が国の将来像実現に果たす大学政策に期待したいのである。私見ながら、幾多の困難を抱えながらも、自助努力で地域に寄り添う私立大学にこそ大きな支援を行うべきではないかと考えている。
(H/K)
地方国大定員増の波紋(上)
全国409の私立大学が加盟する日本私立大学協会本部には、年末から、ある政策への問い合わせが相次いでいる。地方国立大学の「特例的定員増」問題である。特に地方私立大学の現場では、大きな不安とともにこの問題が受け止められ、そこでは率直かつ切実な現場の声となっているのである。そこでこのたびは、上下2回に分けて、この問題の経緯を振り返るとともに、いくつかの大学からの意見を紹介し、最後に筆者の見解をも示したい。
令和2年7月、政府のまち・ひと・しごと創生本部では、『まち・ひと・しごと創生基本方針2020』を決定した。その方針においては、地方活性化に関する目指すべき方向性や期待が記載されているのだが、特に具体的に提案されたテーマが地方国立大学の定員増であった。しかし、全国各地において、特色ある教育研究を進め、その立地する自治体、産業界、金融機関、NPO等民間団体と連携を図って、文字通り地方創生に対処してきた私立大学、そこに学ぶ学生の立場に立てば、あまりに唐突な国立大学偏重の政策提案と映ったに違いない。
9月には、地方創生に資する魅力ある地方大学の実現に向けた検討会議が新設され、第2回の同検討会議では、各団体のヒアリングが行われ、本協会からは鶴衛副会長(広島工業大学理事長・総長)が出席し、意見を述べている。
そのポイントは、「国立大学の定員増は私立大学・公立大学にも多大な影響をもたらすため、まずは中教審「グランドデザイン答申」(平成30年11月26日)で提言された国立大学の役割・使命及び費用対効果を検討したうえで、国立大学の適正規模が議論されるべき」というものと、「STEAM人材の養成は、国公私の設置形態や、都市部・地方部の別を問わない公正な支援制度の下で行われるべき」というものであった。
鶴副会長の指摘には思わず筆者は膝を打った。「グランドデザイン答申」における規模適正化や国立大学の役割等といった議論と、地方国立大学の定員増による地方政策との整合性は一体どこに認められるのか。国立大学においてSTEAM人材の養成が必要であるならば、従来通り、現行の総入学定員の範囲で各国立大学学部のスクラップ&ビルドを行えばよい―などの思いが共有されていたからである。
さて、昨年12月の「とりまとめ」では、地方国立大学の定員増について、次の選定要件が指摘されている。
①「特例的」定員増を行う必要性が認められる大学に限ること②地方公共団体や産業界などと緊密な連携がなされる大学に限るなど、地方創生に資する一定の要件に基づいて適切に審査・選定すること③具体的な要件を中教審で検討すること④従来の運営費交付金とは切り分けて質の高い教育研究を行うために必要となる経常的な支援を行うべきこと―の4点であった。
これに対する全国の私立大学の声の詳細は次号において紹介する。結論を申し上げれば、我が国高等教育の8割を担当する私立大学の振興(活用)策が示されず、しかも、全国各地の地方創生の実情を斟酌することなく地方国立大学の定員増のみを提言することは、現場に混乱を引き起こすのみならず、私立大学の退場を助長すると言わざるを得ないとの悲鳴なのである。(つづく)
(H/K)
コロナ禍 3つの論点整理
令和3年の新年は、かつて経験したことのない大変化を予感させる幕開けとなっている。まずは1日も早いコロナ禍の終息を願うばかりであるが、私学振興の基本課題も山積みである。急ぎつつ、しかしじっくり構えて対処せねばと考えている。
我が国で新型コロナウイルスがニュースで報じられ始めて、およそ1年が経過した。現在、大都市部を中心に感染者数の勢いは止まらず第3波を迎え、我々はこれまでにない大流行を目の当たりにしている。全国の私立各大学では、その土地土地の事情に応じて、さらにはこの1年間の蓄積を踏まえて様々な対策を講じている。未曽有の困難のもとで学生や教職員を守り、果敢に大学の使命を全うしようとする多くの大学人・私学人に心から敬意を表し激励のエールを贈りたい。
新年初めということで、本欄では新型コロナに関わる問題を3つに整理して論じておきたい。
1つ目が、「コロナを超える(Beyond Corona)」という視点である。4月、5月など前期は、コロナへの「緊急対応」だった。やむなく授業を遠隔化したが、そのノウハウの蓄積を経て、これをむしろ次の大学教育の柱に位置付ける大学も少なくないのではないか。大学の「デジタルトランスフォーメーション(DX)」は以前から指摘されてはいたが、早期実装を実現する契機とすべきであろう。また、経営サイドにおいても、DXを余すところなく活用し、経営の効果的、効率的活用を目指すべきである。このようにコロナへの対応であった取り組みを一転、コロナを超えて、新しい改革の緒へと接続していく視点が肝要と言える。
2つ目が、「コロナに隠された問題(Behind Corona)」である。これはコロナ禍のインパクトによって覆い隠されてしまったかのように見える、「以前よりある課題」に改めて注視するということである。18歳人口の減少、グローバル化、ICT化、地方創生、教学マネジメント、教育から学習への転換...などはコロナによって優先順位の後方に押しやられてしまったが、決してなくなったわけではない。コロナへの対応がひと段落した段階で、今一度、抜本的に取り組まなければならない。この中には、例えばDXによって解決する問題もあるであろう。
3つ目が、「コロナと共に(With Corona)」である。感染拡大に波があるように、感染者数が抑えられる時期があれば、猛威を振るう時期もある。前者であれば対面授業、特に実習や実験等を行い、時間をかけた合議のうえで意思決定を行える。後者となれば、遠隔授業に移行し、トップへの情報集約、少数による意思決定というスピードが重要となる。この常時と非常時の大学教育・経営は異なることが明らかになった。常時と非常時のガバナンスやマネジメントは異なるという点を学内で共有し、これをどのような基準でどのように意思決定するかの学内コンセンサスを整備しておく必要があろう。
これら3つの切り口はそれぞれ完全に切り離されているのではなく、それぞれ密接に結びついてもいるが、全国の地域や規模、学部構成などによってクローズアップすべき話題は多様となるだろう。世界的に終息が見えないコロナ禍ではあるが、この時期こそ大学人は、大学千年の歴史に想いを馳せ、新たな大学像の構築をめざすとともに、特に私学人は私学の原点、私学とは何か、いかにあるべきかをはじめ、多くの今日的課題の解決策について、叡智を結集する千載一遇のチャンスとすべきだと考えるのである。
(H/K)
"私学教育"は遠隔で可能か
文部科学省調査によると、後学期では、ほぼ全ての大学で対面授業を実施、うち8割が対面と遠隔の併用を予定し、また、全ての大学で施設利用が可能となり、全面的に可とするのは約3割になるという。たしかに9月半ばころまでは、初等中等教育機関が対面授業を再開している中で、大学の腰が重いと批判されることが多かった。しかし、これまで学生のクラスター発生などは学内で感染したわけではないのに、所属大学が非難されるケースが多々あったことを考えると、大学が再開に二の足を踏んでいたことはもっと理解されてもよい。学生や教職員の生命と健康を守るための措置がこれほどまでに非難されるべきものではないだろう。
そして、対面授業を再開するにしても、教育効果や学生の成長という点で、全ての授業を対面で再開してよいのかという疑問もある。遠隔授業は大講義室での授業の代替になるばかりか、「反転授業」に不可欠である。また、いつでもどこでも何人でも授業が可能だとすれば、授業の休講や履修の抽選等もなくなる。今後、学生の深い理解や成長、あるいは、学習の継続という点で、遠隔授業が単なる新型コロナ対策から、教育の質の向上に必須のツールとして認識されていくべきであろう。
一方、私学教育の根底にある「魂を揺さぶる経験」は遠隔授業で可能なのか、という疑問がある。教員と学生の、濃密で臨場感のある対話の時間こそが重要と考えるならば、「対面授業でしかできない」こともあると思うのである。
両々の事情を勘案すると、感染者数が拡大するなど非常時には「ストップ・アンド・ゴー」の原則、つまり、基本は取り組みを止めつつ徐々に歩みを再開していく。感染者数が減少し非常時を脱したときには「ゴー・アンド・ストップ」の原則、つまり、基本は取り組みを進め、何かあれば止まるという方針が必要なのではないか。
これらは当然、大学としての経営戦略や財政計画にも連動する。遠隔授業や、対面と遠隔を同時に行うハイブリッド型授業の質を高めるのであれば、どうしても人的・経済的コストが増加する。つまり、今後、当該大学がどのような教育を描いて対面授業と遠隔(オンライン)授業を組み合わせていくのか、という戦略立案こそがまず重要となろう。
このように、経営組織体である私立大学にとって、対面授業の再開は、学生・教職員の健康の確保、学生の教育機会の確保以外にも、大学としての存続と発展とに関わる経営戦略にも関わっており、それらは表裏一体の関係にある。クラスターが発生して社会的に批判されれば、次年度以降の志願者に影響するかもしれないし、大規模大学が遠隔授業重視なら、本学は対面授業重視といった差別化を選択する大学もあるかもしれない。当然、感染の地域格差も考慮しなければならない。
大学の対面授業再開には、上述の全ての課題を解いていった先にあるものだということを多くの人に理解してほしいと願うのである。
(H/K)
「アフターコロナ」に向けた検証を
7月上旬には一旦終息しかけたかと思われた新型コロナウイルスの陽性者数が、特に首都圏で再び増加し始めているようだ。これまで幾度も問題提起したが、対面授業が徐々に再開する中、各大学におかれては、くれぐれも細心の注意と対応を行って頂きたいと思う。
このコロナ禍で、ほとんどの大学が遠隔授業を開始した。文部科学省の最新(7月1日現在)の調査によると、私立大学においては、面接(対面)・遠隔の併用が492大学、遠隔授業が187大学で、私大全体の82・4%が何らかの遠隔授業を行っていた。(「遠隔」とは必ずしもオンラインのみを指すものではないが...)
筆者が所属する日本私立大学協会では、役員会は5月末よりオンラインで実施している。本協会は全国組織であるため、一堂に会するコストや労力が低減できる点は良かった。しかし、役員にどこまで伝わっているかわからないという不安は常に感じた。恐らく、遠隔による授業も同様であろう。遠隔授業のメリットは無数にあるだろうが、同時に対面授業にもメリットがある。こうした対比は各大学で今後、評価・検証が進められていくことと思う。当然、これは単に新型コロナウイルス対策として考えるのではなく、学生の学びを最大限に引き出すために、対面と遠隔をどのように組み合わせて新しい教育を創り出すか、という新たな大学像を巡るテーマであり私立各大学の教育風土・環境の下で熟考すべき重要テーマなのである。
すでに社会の一部では、「アフターコロナ」を巡る議論が始まっているようだが、まずは「第1波」での自大学の判断は妥当だったのか、問題があったとしたらそれは何であったのか、上記のように遠隔と対面の教育において、各大学で出来ることと出来ないこと、学生のために大学組織の中で変えるべきことと戻すべきことをじっくりと検証・改善(PDCAのC)することが重要ではないだろうか。その上で、「アフターコロナ」を見据えた今後の学園の戦略を再構築していくことが重要となろう。(もっとも、第2波が来れば、更なる再々構築が必要になるかもしれない。そうした緊張感の中で大学ごとの叡智の結集が必要となってくる)
私立大学は多様であるが、このたびの新型コロナの影響も各都道府県(市町村)において多様である。東京都は増加傾向である一方、岩手県は未だ感染者ゼロを維持している。このように感染者が少ない地域であり、また、大学としても万全の対策を取っているのであれば、全面的な対面授業に戻すといった判断もあり得る。逆に、感染者が多く、また、通学する学生数も多ければ、全面的な遠隔授業の継続は妥当かもしれない。こうした各自の判断は、学部構成や学生の学習習慣の有無、あるいは、教育方針や先述の地域特性などが関わるので、全国一律とはいかないのである。
従って、このコロナ禍の大学政策は、地域性も非常に重要になろう。都道府県や市町村との連携、連絡、相談を綿密に行い、教育・研究・社会貢献において新しい大学の在り方を模索して頂きたいと願うのである。
(H/K)
私大協 佐藤会長の新体制の下で
本紙前号で既報のとおり、筆者が所属する日本私立大学協会の福井直敬会長(武蔵野音楽大学理事長)が5月末日をもって退任し、6月1日付で佐藤東洋士副会長(桜美林大学理事長・総長)が新たに会長に就任した。ここで改めて本協会の意義と、佐藤新会長へのご期待を申し添えたい。
本協会は、昭和21年12月の創立以来70有余年にわたり、一貫して私立大学の振興を使命として掲げている。加盟各大学の充実・発展はその重要な使命であるが、そのための視点には当然にも世界の中の日本、そして、日本の中の各地域のそれぞれ調和ある発展が前提であり、遠眼細目、時代の進展と国民の負託に応じた大学の崇高な使命達成が課題となる。
また、中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」でも重要なキーワードとなった「高等教育の多様性」は、608校(令和元年5月)もの私立大学が「総体として多様性を成す」という視点が重要である。
多様な地域に立脚する多様な専門分野の多様な私立大学の存在こそが、我が国の高等教育の多様性と言える。つまり、高度化し複雑化する新時代には特定の大学のみが存続すればよいのではなく、都市部・地方部の立地地域や規模の大小、歴史の長短、専門分野の違いを超えて、その規模は小さくとも、新しい取り組みに果敢に挑戦し続ける大学に政策支援の光を当て、高等教育全体の調和的発展を推進していくことが持続可能なこの国の活力の原動力となってくるものと確信している。もちろん、大学の高度化促進とともに、である。私立大学こそが新しい社会、成熟社会における価値であって、本協会はここを強く強調しておきたい。
一方、我が国では、少子高齢化、グローバル化、AI化が進行する中で、昨今では大地震、台風・水害などの自然災害、そして、今回のウイルスのパンデミックなど激変に晒され、大学はこれまでになく翻弄されている。この国難を大学人の叡智によって克服し、人類史上にない新しい大学像の出現が希求される。そのために大学は、「コロナ以前」に戻すのではなく、あらゆる可能性を追求すべきであろう。
現在、私立各大学は、新型コロナウイルス対応で苦難の日々を送られているが、ウィズコロナ、アフターコロナを見据えた戦略の立案が必要になる。その際に必要な視点は、当然ながら、私立学校の原点である「建学の精神」に立ち返り、ここから新しい時代の教育・研究、社会貢献を構築していく「不易流行」の発想である。
新しい時代の本協会は、佐藤新会長のリーダーシップのもとで、私立大学の多様性と、その多様性を担保する各大学の「建学の精神」を改めて重要視しつつ、激動の時代を一致団結して乗り越え、新時代の大学像を模索していかなければならないと考えるのである。
(H/K)
アフターコロナ社会に必要な能力
政府は5月25日、全都道府県の緊急事態宣言を解除した。具体的な休業要請解除は各都道府県の判断にゆだねられるが、すでに再開している加盟大学もあると聞いている。大学立地の自治体等と緊密に連絡を取り合って頂ければと願う。
さて、日本私立大学協会では、本年度の重要事業の1つ、各種研修会の実施を取りやめることとした。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、今後、急激な新型コロナウイルス感染者の発生(クラスター)による第2波、第3波が押し寄せる可能性は非常に高く、ふたたび緊急事態が宣言されることも考えられるからである。しかしながら、私学振興上の課題が山積であることや、新型コロナウイルスの終息後(いわゆるアフターコロナ)の社会構造の大変革を考慮すれば、今後の各種専門委員会の調査・研究事業等について、インターネットを活用した調査・研究手法をもって共通課題の解決にむけた取り組みや情報提供は、一層強力に推進していかねばならないとも考えている。
ところで、各大学においては、FD・SDが義務化されているとはいえ、この状況下では、「3密」が確実になる対面研修はほぼ不可能といってよい。従って、FD・SDも、現在、各大学の授業等で採用されているように、オンラインで行うようになるのであろう。
もっとも、アフターコロナ社会において、「オンラインスキル」は教職員にとって必須になると考えられる。オンラインで学生の相談にのったり、卒業論文指導をしたり、複数の教職員で議論したり、動画を編集して学生や高校生、保護者に説明したり、海外のスタッフと二か国語でコミュニケーションをとるといったスキルが日常化してくるのである。更に普遍的には、メンバーとチームワークを構築して議論するスキル、ネット上で協働で作業をしていくスキル、あるいは、複数ある会議ツールをそれぞれ問題なく操作するスキルなど...これらを獲得することが、まずもってのFDやSDになっていく。
私立大学の諸課題に対応するための解決策は、この社会情勢やそれらスキルの延長に考えらえるのであって、「ビフォーコロナ」のそれとはまったく異なるものになるかもしれない。この地殻変動は大学に限らず社会全体で起きているから、教職員が獲得すべき新しいスキルは、同時に大学が学生に身に付けさせる「新しい社会人基礎力」にもなるのではないだろうか。すなわち、「本学の学生は卒業時に、オンラインでチームワークを形成し、オンラインで皆で作業を行っていくスキルがあります」ということが、企業採用者へのアピールポイントになるであろう。また、一方、入学時にこうした技能を持つ学生を選抜することも考えられる。つまり、アフターコロナにおいて「3つのポリシー」に新項目をつけ足したり、再構築することが必要になるかもしれないのである。
だがしかし、併せて銘すべきことがある。それはオンラインの光と影の問題である。多くのデジタルネイティブに欠けているとされる、人間本来の体温の感じられる、リアルでしか伝えられない体験による教育も忘れてはならない。この変化は、急激ではあるが必要な変化であると言っていい。各大学においては、単にこのコロナ禍を乗り切るだけの対策とせず、広く大学戦略の中で、この教育の原点をしっかり踏まえた検討が必要だと考えている。
(H/K)
コロナ禍
コミュニケーション増やすこと肝要
政府は、去る5月4日緊急事態宣言の延長を決定した。
また、多くの大学では、11日の月曜日から授業を始める等新しい動きが出始めているが、この間、毎週のように新型コロナウイルスをめぐる大学の環境は目まぐるしく変化している。このドラスティックな変化に対して、私立各大学では、関係者が知恵を出し合いながら、遠隔授業や在宅勤務を進めていると聞いている。
文部科学省はじめ関連機関からは、様々な通知や見解が示されるとともに、補助金・奨学金などの説明がなされている。また、日本私立大学協会においても、同省等と密に連絡し、私立大学の現場への配慮を促しているところである。
特に、4月末には、馳浩教育再生実行本部長、世耕弘成参議院幹事長(近畿大学理事長)、萩生田光一文部科学大臣、岸田文雄政調会長、松野博一総務会長代行はじめ、文教関係国会議員に、主に補正予算についての要請活動を展開した。
その内容は、▽学生納付金の減額・返還要望への対応▽学生の学修継続に向けた迅速な財政支援▽遠隔教育に向けた環境整備の拡充・促進▽遠隔授業では実施が困難な「実習」等への対応などである。
要望・懇談時には萩生田文科大臣から、各大学は学生支援のためワンストップの相談窓口をわかりやすい連絡先で設営してはいかがか(ウェブサイトでは探しずらい)といった提案があった。
困難な状況下で学生の学修意欲を低下させることなく本学の学生に対し、教職員全員がその支援を積極果敢に実践しようという文科相の熱いメッセージと受けとめた。望むところであり、師弟の情愛こまやかな私学教育の原点回帰の重要性を再確認した次第である。
ところで、社会情勢を見ると、学費、特に施設設備費等の一部返還を訴える運動が展開されている。「学費とは何か」「そもそも学費は誰が負担すべきか」といった基本論に繋がる問題でもあり、冷静な論議が必要である。一方、生活に困窮する学生も多数おり、こうした状況については、国の財政支援の実現とともに、日本学生支援機構の奨学金を申請するなど、学生に働きかけていただきたい。同機構からは、申請については柔軟に対応する旨も伺っている。
長期にわたる対応が確実視される、この新型コロナウイルス禍において、私立大学として最も大切にすべきことは、自大学の学生と教職員の健康と命を守りつつ、各人の希望や夢を実現する教育・研究環境を提供することであろう。この状況下でこそ、大学役員と現場の教職員の方々、そして学生が、強い信頼関係を構築して互いに支えあっていくことが肝要だと考えている。そのためには、学長・学部長から改めて、学生・保護者に、受け取りやすい媒体で、こまめに状況を発信して、コミュニケーションを増やしてくことが肝要である。
私学振興団体としても、私立各大学のこのような取り組みに対する積極的な支援の促進と公的支援の実現とに、全力を傾注する覚悟である。
(H/K)
大学での集団感染(クラスター)回避のための要諦
去る7日、安倍晋三内閣総理大臣は、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、大阪府、兵庫県、福岡県と地域指定し、緊急事態宣言を発出した。全世界レベルでの事態の深刻度を考えると、現在は平時ではなく「非常時」であるという認識が必要であり、組織であれ個人であれ可能な限りの冷静かつ周到な対策が待ったなしである。
全国組織の日本私立大学協会は、新型コロナウイルス感染症対策を、2月当初より、加盟各大学から寄せられた意見等を踏まえ、文部科学省に要請活動を行ってきた。主なものを列挙すれば次の通りである。
①卒業・入学式の取扱い②授業開始時期や学修時間の取扱い③遠隔授業の実施体制整備のための財政支援④経済的困窮に陥った学生への財政支援、奨学金の拡充と手続きの弾力化⑤留学生の受入れ・派遣の扱い(出入国管理規制の弾力化)と財政支援⑥国の学校基本調査等実施の改善・工夫⑦理事会・評議員会の開催要領の弾力化など。
これらにかかる要請に応じて文部科学省は、これまで数次に亘る事務連絡及び通知を発出している。全国の私立大学はそれらの通知等に基づき、機敏な対策を講じているようである。世界的大流行の只中にある新型コロナウイルス禍での初めての対応に、不眠不休で取り組んでおられる現場の実態には深く敬意を表さねばと思う。
今後の情勢は、なお予断を許さず、不透明極まりないものだが、大学での授業開始、部活動開始の時期を迎えては、大きな懸念がある。各大学ウェブサイトを見ると、大学関連の感染ケースについては、学生の行動から広がる事例が多いように見うけられる。多様な学生の活発な行動管理はほぼ不可能に近いが、今後、大学から学生・教職員を問わず感染者を出さない、断じて集団感染は出さないといった固い決意のもとに、感染拡大を回避するための最大限の努力が必要となる。
重ねて申し上げるが、私立各大学においては、「現在が非常時であること」を共通認識として、学生と教職員の健康と命を守るとともに、大学のステイクホルダーへの配慮、コンプライアンスへの十分な対応をしつつ、引き続き大学の使命達成のため迅速かつ的確な全学一致の意思決定と果敢な対策を講じて戴きたいと願う。
かかる各大学の努力とともに、大学における感染症拡大防止のための医療等学術研究の成果が大いなる事態収束の契機となることを祈念しているのだが、同時にまた、新型コロナウイルス対策とその影響が示唆するものは、さだめし今後の世界と時代を変え、社会激変の潮目となり、大学自体の大変革となっていく契機となるであろう。
いささか不謹慎かもしれないが、この国難を克服した次の時代にも深い想いを馳せたいと考えている。
(H/K)
大学の数は多いのか
私立大学の数が多いという。
朝日新聞(令和2年1月27日付朝刊)の調査によれば、全大学長の3分の2が『私立大が多すぎる』と回答したという。経営者として競争相手が少なければ良いと考えるのは分からなくもないが、この結果を全国の大学人や外部者はどう捉えるだろうか。
そもそも「大学の数が多い」という話題は、時代とともに何度も現れては消えているように思う。人口減少社会において、定員未充足大学は支持されていないのだから必要ないのだという論拠にもなっている。筆者はかねがねその主張に対して異論を抱いている。
大学が常に時代の先達の役割を果たし、学術研究の成果やその多様な機能をもって時代を拓く人材の養成を果たしてきたことを想うと、新時代の開拓、文化の継承に必須欠くべからざるものが大学であって、現代という高度化・複雑化の時代においては、その役割はますます重要性を増しているのである。社会が高度化・多様化すれば、大学もまた高度化・多様化せねばなるまい。問題は大学の質であり、質を伴う大学の量こそが希望であり、全国の私立大学は様々な困難に対峙しながらも全学の知恵を結集して、かけがえのない存在たるべく努力しているのである。
確かに私立大学といっても、総合大学から単科大学まであって、規模の大小、分野の違い、歴史伝統の長短、立地の違い、そして、建学の精神等は全て異なっている。「大学の数が多すぎる」とは、どこの何を指しているのか。いかにすべきと言っているのか不明である。
大学進学率がとうに5割を超えたユニバーサル・アクセスの時代において、一昨年前の「グランドデザイン」答申では、高等教育の多様化が強く主張された。多様な教育を支えるのは多様な大学にほかならない。願わくば、机上で数字を眺めるのではなく、地方に出向いて教育の現場をつぶさに見てほしい。地域に出て、地域の人たちと汗をかく学生や教員の姿を目にするはずだ。それは地域を支える将来のリーダーの育成である。
日本社会は、あまりにも「定員充足率=教育の質」という誤った認識に囚われすぎてはいないか。立地地域の高等教育事情や学部構成に関係なく、定員未充足なら全て必要ない大学なのだろうか。決してそのようなことはない。定員充足に悩む地方私立大学は、地方のリーダー養成や地方創生に懸命の腐心をしているのであって、未充足の要因を大学のみで説明するには不十分だ。その大学がなくなれば、若者の流出は加速し地域の劣化は火を見るより明らかである。地方における大学立地の意味や役割は、大都市のそれとはまったく異なり、むしろ増加するとみるべきである。
大学や在学者を単なる数合わせでしか見られない現状は実に残念と言うほかない。
要諦とすべきは、わが国高等教育の設置形態に着目して、その今日的役割を見直すとともに、国立・公立・私立大学間の財政支援格差を是正し公正な競争環境を実現することである。
この基本を踏まえ、大学政策及び行政は大学をつぶすことではなくこれを育て活かすことであると考える。
(H/K)
2020年代こそパラダイムシフトを
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
2020年は、私立大学にとってどのような年になるだろうか。
振り返れば、2009年頃に18歳人口減少により大学全入時代が到来すると言われ、多くの私立大学の撤退が予測された。しかしそれに反して、私立大学は学生や地域に真摯に向き合い、経営の充実と発展の道を邁進し、V字回復・蘇った大学も少なくなかった。建学の精神の具現、教育刷新、学術研究面での多様な成果、活発な地域貢献など目覚ましく、経営上の苦労を全学一致の活力として活路を見出してきているのである。
2014年には、日本創成会議(座長・増田寛也氏)が2040年までの将来推計人口を算出し消滅可能性のある都市を公表したが、それよりもはるか前、地方の私立大学は、一方で、学生本位の教育、地域密着の研究、そして地域社会への貢献という新しい動きに果敢に取り組んでいたのである。政府が大学の機能別分化や多様性の必要性を説く以前に、民間の私立大学は創意工夫の取り組みを展開してきていたと申し上げても過言ではない。
そして、2018年、中教審は「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申を公表した。大学は多様性こそが重要との見解を示し、多様多層な学生重視の教育展開を訴えた。また、この答申では、日本私立大学協会が長年主張している大学公財政支出の費用対効果の検証や、リカレント教育の推進、大学の果たすべき教学マネジメントの重要性なども指摘した。2020年という節目以降、政府の思惑とは別に、私立大学の自主的で多様な価値追求の動きはますます加速していくことだろう。
しかし、こうした中で、昨年には私立学校法の改正や修学支援新制度の発足等が決定し、結果的に私立大学全体の多様な動きを抑制してしまっているのではないかとの危惧も指摘されている。また、膨大な提出書類処理に追われ、本来業務(教育研究の質的充実)に支障が出てきているとも聞く。もちろん、違法行為は断じてあってはならないが、現場の多様性を軽視した政府の一元的な法規制や取り締まりが、エネルギッシュな私立大学の取り組みを阻喪することについては、警鐘を鳴らさねばなるまい。
更に、今年からは学校法人制度そのもののあり方の検討が始まる。戦後の我が国の復興を人材養成の側面から大きく支えてきた、世界に誇る学校法人制度の検討は、ユニバーサル段階と言われる今日的状態の中で改善・鼓舞激励する議論や、大学の設置形態論を基本に位置づける議論の深化を期待するとともに、今後の私学振興にとっての最重要課題に位置付けた取り組みが必要である。
本協会は北海道から沖縄に至る全国の現場の声に真摯に耳を傾け、私学振興の一丁目一番地である、「国私間格差の是正(公正な競争環境の実現)」を高く大きく掲げ、このことは数年来提唱する高等教育政策のパラダイムシフト(私立大学に重きをおく高等教育政策への構造的大転換)の実現に尽力していく。2020年代はそれを着実に実現させる10年にしていきたいと筆者は考えている。
(H/K)
"無償化"から考える教育費負担の在り方
高等教育の教育費の在り方、さらには奨学金制度を巡って、大学現場とその周辺から様々な意見が寄せられている。
その主たる原因は本年10月1日に予定される消費増税分を財源として、高等教育アクセスのための一部学費無償化が政府主導で実現することによる。当初、高等教育進学者の全員が対象となる画期的な、否、革命的な制度と目されていたのだが、その後の関係方面の調整の結果、対象学生は住民税非課税世帯(世帯年収270万円未満の者)を基本に、それぞれ準ずる世帯(同300万円、同380万円)への適用となった。そして、この点は新制度創設の趣旨との関係でかなり問題があると思うのだが、対象大学について、四つの厳しい機関要件のクリアが課せられることになった。
目下、所管の文部科学省では、制度運用に係る詳細な調整作業が進められている。各大学から提出された申請書に基づき機関要件を審査し、この9月末にはその結果が公表される予定と聞く。OECD諸国の中でGDPに対する高等教育への公財政支出割合が最低水準であることはご承知の通りであるが、今回の政策が我が国の高等教育進学者への支援施策として、高等教育への公財政支出を拡充するという観点からは歓迎すべきであろう。しかし、今後の高等教育の進展のためには、教育費負担の在り方を巡って、次に指摘するような重要課題がある。つまり、①高等教育進学者の教育費(学費)は誰が負担すべきか②大学は国立、公立、私立(学校法人立)とある中で、教育費・学納金に対する公財政支援には大きな格差があり、その是正策をいかに考えるべきか③巷間で使用される「授業料」とは何を指すのか、その定義④今回スタートする高等教育の一部無償化施策と現行の授業料減免や奨学金の各制度とは整合性が取れているのか、という基本的問題である。
筆者は、文部科学省の「私立大学等の振興に関する検討会議」の委員を務め、その場でも幾度となく主張し、また、先の中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」に関しても、本紙はじめ各所で疑問を呈してきたが、そのたびにこの議論は深められることなく先送りされてきた。少子高齢社会、グローバル社会、AIの時代などと言われる大激動の時代にあって、高等教育政策の重要課題は公正な競争環境の実現であり、その1丁目1番地の課題が教育費負担を巡る公財政支援の在り方だと考えている。前述の①~④の課題について、さらに掘り下げた検討が必要であり、国民的な議論の高まりが必要であると考えている。
次回は②国公私立大学の教育費・学納金に対する公財政支援について、③「授業料」が何を指すのか、について論じたい。
(H/K)
留学生問題に見る高等教育政策の貧困
大量の所在不明者が明らかになった留学生問題を背景に、文部科学省と出入国在留管理庁がその取扱いを巡り新たな方針を示した。留学生の在籍管理を徹底すること、退学者や除籍者、所在不明者の報告や実施方法を見直すことなどが盛り込まれている。
筆者は、かねがね留学生が日本で学び、日本の文化・歴史・風土に興味・関心を抱き、生涯に亘って日本と出身母国との友好関係を築く存在として重きをなして頂きたいと考えているので、その意味において、留学生政策とは、単に教育政策に留まらず、重要な外交政策であり、国の安全保障政策にも匹敵する国家的重要事と考えている。その理念をもって、日本私立大学協会は創立以来、私立大学の国際交流・協力には意を払ってきている。
特に近年はASEAN諸国の私立大学との友好関係を深めてきたし、加盟各大学の国際交流事業や留学生の受け入れ、派遣事業の増進に腐心してきたのである。
一方、加盟大学の現場はというと、留学生に多くを学んでもらうべく、様々な努力をしている。たとえ日本語能力の低い留学生であっても、時間と労力をかけてあの手この手で日本語能力をはじめ、日本での生活適応力を付けさせている。すでに全国の大学の現場では、多様な留学生に真摯に向き合っており、その方法も多様である。「大学のユニバーサル化」とは、何も日本人の学生のみに適用されるわけではない。
東京の高みから、十把一絡げに留学生を扱うべきではないのである。そもそも問題は、卒業後の日本語レベルや学力をはじめとする人間力の育成であり、入学時点のものではないはずである。ぜひ、関係省庁には、そうした多様な留学生教育の実情をより丁寧に見てほしい。
もちろん、留学生管理に問題がある大学が存在することは否めない。しかし、大事なことはいくつかの問題大学を管理するために、心ある取り組みを行う大学にまで規制を強化することは、こうした現場の取り組みの足を引っ張ることにもなるのである。辛辣な言い方だが、政府のやり方は、「何も問題が起きないように、何もしないでほしい」と言っているようにも見えるのである。
これは留学生政策のみならず、私立学校法の改正を始め、昨今の政府の政策すべてに言えるのである。政府が問題と考えるほんの一部の私立大学・学校法人を取り締まるために、全私立大学・学校法人に法律の網をかける。こうした手法が、私立大学全体の活力を奪ってしまうのである。
この根本的な背景には、何度か本欄で述べてきた通り、高等教育政策の貧困がある。私立大学の多様な活力を伸ばすのではなく、問題校を出さないことに注力してしまうということは、長期的な視点に立てば、日本の高等教育の競争力を低下させることに他ならない。
政府は縦割り行政の弊を廃して、国家百年の計を共有し、成熟国家日本の進路とされることを切に望む昨今である。
(H/K)
令和こそパラダイムシフト実現を
新しい元号が「令和」に決まり、5月1日から元年を迎え、改めて平成が私立大学にとってどのような時代だったか、残された課題は何かを考えてみた。
まずは18歳人口である。平成4年に204.9万人のピークに達した後、減少の一途をたどった。逆に平成元年度の大学数は499校、平成30年度は782校なので、平成の30年間で283校、1年で約10大学が開校している。多くが私立大学だが、短期大学から4年制大学への再編も多くあったことは言うまでもない。平和な時代の下で社会の高度化や成熟化が進み、新たな課題の出現に応えて民間の教育創造のエネルギーが開花した時代ともいえる。
もちろん、この大学新設の影響を色濃く受けた地域とそうではない地域がある。地方ほど18歳人口減少の影響を受けやすいため、定員未充足問題は地方でこそ先行している。他方、都市部における定員超過率規制問題も種々の議論がある。改めて大学における「定員」とは何か、いかにあるべきか、ゼロベースで検討しなければなるまい。加えて、都市と地方の調和ある発展の型が教育界のみならず衆知を集めて形成される必要があろう。
一方、政府は新自由主義の流れから、大学は「事前規制から事後チェック」へ、つまり、7年に一度の認証評価が義務化された。更に平成の後半からは、政府の財政悪化や社会保障費の拡大懸念から、私学助成や国立大学運営費交付金といった、いわゆる大学運営に係る基盤経費への政府予算は削減され、国公私共通の競争的資金配分が開始された。
産業構造の変化や社会が求めるニーズから、多種多様な学部が生まれたのも平成の特徴と言えるだろう。特に医療福祉系学部の増加は目を見張る勢いであった。
これらを勘案すると、18歳人口減少の時代に入り、いよいよ私立各大学が、その存続をかけて、あるいは、建学の精神の実現に、様々な創意工夫を凝らすことに試行錯誤し始めた時代だったとも総括できる。
一方、平成の政府の諸政策は私立大学の経営面及び教学面に対して様々な義務を課し、大学への統制力を強めてきたのではないか。私学の自主的な改善努力のための指導・助言といえば聞こえは良いが、私学のダイナミズムを阻喪する懸念を抱くのである。行政と私立大学との関係は適度な緊張関係の下で旺盛な民間の教育的情熱を一層「サポート・バット・ノー・コントロール」することこそ尊重されてよい。
こうした中、新しい令和の時代には何を求めなければならないのか。それはやはり、平成の終盤から筆者が主張してきた「高等教育政策の構造的大転換(パラダイムシフト)」である。国立大学と私立大学の学費格差、補助金格差の是正であり、公正な競争環境の実現である。
我が国高等教育全体を俯瞰した問題の整理、あるべき姿の提示が必要だし、私学振興に引き寄せて考えてみれば、「国立大学だから良い、私立大学はその次」とする、世間のイメージ払拭と、「良い大学が良い」と実績で評される時代を実現していかねばならないと考えている。
(H/K)
現場に根差した教学マネジメント論議を
「教学マネジメント」の確立・推進が、昨年末の中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」の提案として審議されている。大学教育の充実・私学振興の重要課題であることは間違いない。これまでも多様・多彩な私立大学の教育は、建学の精神の実現を目指しつつ、自主的かつ創意工夫の教育改革を積極的に展開しているのだが、残念ながら、そうした私立大学の取り組みは、どうも社会の理解が十分とは言い難い。その確立・推進には、多様・多彩な私立大学の取り組みを広く紹介しつつ、これに魂を吹き込む、参考としての提案を期待している。本稿ではすでに先行する全国の私立大学の状況紹介と、教育における課題等を論じたい。
私立大学の創意工夫の教育成果は、我が国が世界に誇るものではあるのだが、カリキュラムの設計方法やその運営・評価・改善については、これまで現場の知見が重ねられてきたとは言えないのではないか。かつて、シラバス作成の義務化において、当時も問題指摘をしたことだが、シラバス自体は立派に作成されていても、その学部・学科における一貫性という視点や建学の精神の具現との関連性、果ては大学の財務計画を含む中・長期計画との整合性は考慮されていたかというと、甚だ疑問で変化への対応に追われていたように思う。「教学マネジメント」の確立は、そのような轍を踏むことなく各大学で機能分析と段階的実践、更には各大学の立地や規模、分野等の個別事情に十分な配慮が必要であり、大学ごとに切磋琢磨する機会の醸成に結びついてほしいと願っている。加えて言えば、その方策は決して画一的なものではないはずである。
そこで、本紙では、2018年度に『グッド・デザイン・カリキュラム』を企画した。2017年度までは『教授法が大学を変える』という企画を行ってきたが、これは授業の「教授法」が変わることで大学教育が変わっていく、その取り組みを応援しよう、という趣旨のものだった。全国の日本私立大学協会加盟大学から多数の応募をいただき、日本高等教育開発協会(佐藤浩章会長)というFD専門家で構成する組織の協力を得て、これまでに様々な実践事例を紙面で紹介することができた。
このたびの『グッド・デザイン・カリキュラム』は、カリキュラム改革の実践事例に焦点を当てている。3つのポリシーの策定が義務化され、各大学学部がどのようなカリキュラムでそれを実現しようとしているのか。学生が最も成長できる「科目の配置(カリキュラム)」や「履修の柔軟性」が担保という側面を重視している。
奇しくも、中教審の「教学マネジメント特別委員会」とちょうど軌を一にして始まった企画である。「カリキュラム改革こそ大学教育改革の本丸」とも考えているが、それは教員同士の教育目標の共有と連携、大学構成員の協力一致こそが不可欠と考えるからである。
もっとも、政策よりも先行して現場では素晴らしいカリキュラムも垣間見られる。本企画は今後、数年続けていく予定で、加盟各大学においては、是非とも積極的な応募をお願いしたい。
(H/K)
受け入れ難いブランディング事業の縮小
2018年度私立大学等経常費補助金交付では、定員未充足大学の特別補助が「圧縮率」をもって「突如」として大幅に減額された。本件については昨年5月の本欄において、全国の大学から寄せられる"憤怒"の声を紹介した。二度とかかる事態が起こらないようにと願っていたのだが、「突如」の再発である。2016年度と2017年度に5年で「私立大学研究ブランディング事業」に選定されたものが、2019年度までに突如として短縮されたのだ。
この理由の詳細は目下追跡中だが、表面的には文部科学省職員と東京の大学の間の、この事業に係る不祥事が発端であったに違いない。
なにゆえにこの事例をもって、事業自体の縮小という話になるのか、合点のゆく説明がない。迷走極まりない文部科学行政に、採択された全国の私立大学からも驚きと戸惑いが、筆者のもとに寄せられている。架けた梯子を外されるとはまさにこのことである。特に、採択を受けた私立大学は、地元の自治体や産業界等関係者との連携のもとに詳細を詰めてきているのであり、当該大学自体の信頼をも失墜させるような話である。採択大学の声を代表すれば、断じて受け入れることができない話である。
今後の人生100年時代、地方創生政策を担うのは間違いなく地方の私立大学でもある。その政策方針と矛盾してもいる。
そもそも大学の数は多いのか?その適正規模を議論するはずの先の中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」では結論が先送りされてしまった。その中で専門職大学は設置が推進されている。こうしたパッチワーク的な政策の先に、政府は何がしたいのかさっぱりと見えてこない。
そもそも定員未充足が、あたかも唯一の大学を評価する指標のように扱われる風潮には「NO!」、と何度でも声を挙げたい。
教育の質が低いから、地方創生に寄与していないから、定員が充足していないのではない。むしろ逆で、地方の急激な人口減少を背景に、地方の私立大学は教育の質を高めて地域の人材を育成しているのである。
人口減少を背景にして先細る地域インフラの維持を、各私立大学も支えているのである。
そもそも高等教育への財政支出や設定される学生納付金に明確な格差がある中で、定員未充足の私立大学から退場させる政策は、全くもって不条理であろう。東京の論理で画一的に大学を判断するというのは、多様性や柔軟性を重視した先の答申にも合わない。
全国の私立各大学の創意工夫の足を引っ張るのではなく、これを激励し育成し促進させる政策こそを望みたい。
(H/K)
新たな地域連携プラットフォーム形成への提案
全国406大学が加盟する日本私立大学協会は、地方や地域の活性化に果たす大学の役割の重要性に着目して、すでに15年余前から「地域共創」運動を展開してきている。これは地方や地域と大学との関係とは「ともに時代を創造する良きパートナーである」との認識のもとに大学機能の活用を国や自治体に政策提言をしたものであった。
この提案は、その後文部科学省に採用され、各種Good Practice事業、大学COC事業、同COC+事業へと広がり、今日では私立大学等改革総合支援事業タイプ5「プラットフォーム形成」へと発展している。「地域共創」運動が、少子高齢社会やグローバル社会の到来の下で、すなわち我が国の大きな構造的変化局面において、大学は連携して地域の中核となるプラットフォームとしての機能を強化すべきとの政策に結実していることは実に意義深い。大いに推進していくべきと考える。
昨年末に中央教育審議会から答申された「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」で提起された地域連携プラットフォーム(仮称)の形成もこの延長であろう。しかしながら、現在進行中の私立大学の現場の声としては、「結局、地元の国立大学や公立大学が中心的立場に置かれている」「だからといって、リーダーシップを発揮するわけでもなく、形骸化した事業になっている」といった懸念が聞こえてくる。もちろん地域に依るが、地域プラットフォームの建前は国・公立大学だが、実態を担っているのは私立大学というケースもあろう。まずはこうした「建前だけ」の事業にならないように気を配ることが必要である。
もう一点は、「地域連携プラットフォーム」における中小規模私立大学の役割についてである。大学によっては、地域全体(例えば県全体、市全体)は荷が重いかもしれないが、ある専門領域におけるプラットフォームを事実上担っているケースはあるのである。例えば、北海道科学大学は、積雪寒冷地域に特有の問題を解決する研究開発の拠点となっている。山口県の徳山大学は、健康福祉分野で周南広域都市圏の関係者を繋いでいる。別府大学は、文化財保全という分野で、九州一円の自治体等と連携しているプラットフォームである。
これらはいずれも「私立大学研究ブランディング事業」に採択されているものもあり、その実績が地域に認められ、その分野の産官学民等の関係者が集う「プラットフォーム」を形成している。
地域のあらゆる課題に対応する地域連携プラットフォームは難しくても、ある特定分野においては、中小規模私立大学はプラットフォームとしての機能を担えるのである。いや、むしろ、その機動性やレスポンスの速さを考えれば、こうした分野別プラットフォームを多数形成し、その総体として、地域連携プラットフォームであるとした方が、実質的な機能を担えるだろう。従って、「地域連携プラットフォーム(仮称)」政策については、中小規模私立大学の特性や多様性を生かした、「領域のプラットフォーム」の形成を政策の中に織り込むべきと考えるがいかがであろうか。
(H/K)
今こそ国私間格差の是正を
文部科学省の将来構想部会から、2040年の高等教育のあり方を示す答申案が示された。読んではみたものの、現代的課題に対する短期的な視点かつ過干渉とも思われる提言が少なくないとの印象も拭いきれない。
戦後70年以上が経過し、変化し続ける社会の節目で折々に大学教育に係る政策が打ち出されてきた。しかし、それらの中心を担うことが期待されたのは常に国立大学であり、私立大学は半ば調整弁のような扱いでもあった。そのため戦後の私学振興運動とは、私立大学の独立性の確立と私学助成の創設・拡大の歴史であったとも言える。
そして現在。少子高齢化・人口減少、Society5.0の到来など、やはり日本社会は大きな曲がり角を迎える。この背景から誕生した前述の答申案ではあるが、そもそも、教育の将来構想の前に、日本の将来構想が必要ではないか。そして、この答申案に描かれる私学振興政策といえばもっぱらガバナンス改革や、定員未充足私立大学の統合・廃止問題ばかりが俎上にのぼっている印象が否めない。「多様性が重要」としつつも、いま既にある多様な私立大学の在り様すらカバーできていない。筆者も委員として参画した「私立大学等の振興に関する検討会議」でも同様の感想を得た。いったい、「私学振興」はどこに行ってしまったのだろうか。
このたびの将来構想に対しての、筆者は何度となく、成熟した日本社会の礎(いしずえ)は、多様な大学教育から成り立つという信念から、「私立大学を基幹とした高等教育政策の構造的大転換(パラダイム・シフト)」を訴えてきた。
私学振興政策の一丁目一番地は国立大学と私立大学の公正な競争環境を整備するための国私間格差の是正である。学生一人当たりの公財政支出が13倍もの開きがある現状をいつまでも放置し続けてはいけない。その文脈においても国立大学、公立大学の規模や費用対効果こそ再検討すべきであろう。とにかく大学の可能性を最大限引き出すための踏み込んだ審議を行い、公正な競争環境の実現に道筋をつけ、大学の役割分担や機能強化が必要と考えている。
また、地方の私立大学にとって、私学振興は待ったなしの状況である。大学は地域の未来を担うリーダーを育成するとともに、地域を共に創るパートナーである。大学が閉鎖になれば、急激に地域はシュリンクし、それは地方創生再生策にも反する。定員未充足や赤字経営という状況のみで、地方私大の価値を評価するべきではない。
今こそ、筆者が先達から学んできた私学振興の本懐に立ち戻りたい。繰り返すが、それは貧弱な我が国の高等教育への公財政支出の大幅な増額であり、国立大学・私立大学の政策的・財政的格差の是正であり、私立各大学が創意工夫により、建学の精神を実現する支援の充実である。筆者はそれらの私学振興策を添えて「高等教育政策の構造的大転換」の実現を、と主張してきたのである。
是非とも全国各地から改めて私学振興の声をあげて頂きたいと願う。
(H/K)
国主導の私大経営論議に反対
昨今、学校法人が設置する私立大学の経営の在り方についての政策論議が盛んである。
大学ガバナンスの強化、中長期計画・戦略の策定、教学マネジメントの構築、大学連携・再編・統合論議、早期の撤退判断...どれも私立大学経営にとって極めて重要なテーマと言えよう。しかし、この展開には一抹の懸念を抱く。「建学の精神」が異なり規模や立地や専門分野が異なる私立大学を十把ひとからげに論じ、結果として政府による一律の経営指導を招来するのではないかという懸念である。
人口減少期が本格化する時代において、全国には経営状態が厳しい学校法人が設置する私立大学が存在することは事実ではある。「突然の閉鎖」回避のための議論は確かに必要な備えではある。だがしかし、その出現のかたちや内容はまちまちとなろう。ゆえに、かつての私立大学審議会なき今、教育と学校経営に造詣の深い私学人多数をメンバーに加えた有識者で構成する会議体での総合的かつ慎重な検討が必要な重要局面なのである。
言うまでもないことだが、大学とは、企業(の製品)とは異なり、教育方針に賛同して集った若者の学び舎であり、また、卒業生の心の拠り所でもある。「定員未充足だから廃止して「新製品(新大学)」を作ればよいのだ」という、短絡で安直な数字や金勘定で判断すべきものではない。まずは相乗効果やコスト削減を目的とした、大学間の地域内・広域の連携、教学・事務組織の連携に踏み込んだ検討が必要であろう。
また、立地・近隣の関係自治体との関係も再構築すべきである。特に地方に立地する中小規模の私立各大学は、地域の存続・発展という使命も担っている。経済効果や若者の存在という意味で当該自治体は、これまで以上に重要なステークホルダーである。当該地域の将来像(夢や希望)を熱く論じ、これに果たす大学のビジョンを語り、しっかりと説明責任を果たし、運命共同体であることを繰り返し伝える必要はあろう。
積極・果敢な経営努力も従前に増して注力が必要である。創意工夫の将来展望、学部学科構成や定員の見直し、教学面の徹底的な改善充実は必須であろう。具体の提案をしておきたい。この問題の取り扱いは、日本私立学校振興・共済事業団の活用が期待される。特別に新しい組織を作る必要はなかろう。
このように、私立大学経営と今後に係る課題は山積みである。一足飛びに「大学の廃止」を議論することは暴論であり、その前にやれること、やらねばならないことは山ほどある。繰り返すが、備えは必要であり、何より在学生の学習の継続を第一義に、新しく発生する課題やリスクを考える必要がある。リスクマネジメントは、最悪の事態を想定して備えることこそが肝である。これらは私立大学として、あくまで自らが自主的に判断すべき課題なのである。
(H/K)
将来構想への4つの論点
本年6月28日に、文部科学省中央教育審議会の将来構想部会から「今後の高等教育の将来像の提示に向けた中間まとめ」(以下、中間まとめ)が公表された。
この中間まとめの末尾には、今秋の答申に向けての検討課題として、基盤的経費など教育費負担の在り方、設置認可やその審査、認証評価制度の改善、国公私の設置者別の役割分担・規模の在り方等が記されている。
筆者はこれまでも本欄において、高等教育の将来構想の検討に対して、成熟社会の高等教育の姿(設置形態論含む)や、その規模と配置、財政支援の在り方などが重要であると指摘してきたのだが、これらの課題は悉く検討課題とされた。この残された課題こそが、このたびの本丸であると考えるのだが、更に深めて頂きたいと願うばかりである。
以下に改めて4つの論点を示したい。
1つは、今後の我が国高等教育の全体像をいかに描くかという点である。国際比較や大学千年の歴史に学ぶ点も数多く存在しようが、我が国の特色ともいうべき国立・公立・私立という大学の設置形態論や学校教育法規定の設置者負担主義の原則を含めて抜本的な検討が必要ではないか。
2つは、第1の指摘の延長上の課題と言えるが、国公私立大学の役割の明確化である。社会のニーズに応える機動的な私立大学は、多様な価値追求・人材養成に定評がある。重厚な国立大学の学術研究実績も重要だが、費用対効果の面からの検討も欠かせまい。学部定員を削減し大学院大学化などの重い提案も過去にはあったが......。
3つは、残された検討課題にもあるが、高等教育への国の財政支出の抜本的拡充方策と教育費負担の在り方の問題である。国立と私立の学生1人当たりの国費投入格差は13倍である。この公費支援格差の是正策を、学費無償化等の議論も含めて検討し、公正・公平な高等教育政策として示すべきであろう。
4つは、地方に立地する中小規模私立大学を今後の時間軸において支援する方策として、補助金配分基準の検討を行うという問題である。定員充足率を大きな補助金配分基準とするのには問題がある。地域で重要な役割を担う中小規模私立大学の貢献に水を差す政策であり、地方創生政策と真っ向から矛盾している。
「学術大学こそ大学であり高等教育の中心を担う」という前時代的価値観を脱して、2040年の人材育成を大学が担うために、新たな価値転換(私立大学を基幹とする高等教育政策のパラダイムシフト)について、待ったなしの時間ながら、今からでも抜本的な審議を求めたいし、今後も更に論点を提示したい。
(H/K)
評価基準にも「多様性」を
筆者はこれまでも本欄において、中央教育審議会の将来構想部会の審議に対し、設置基準の在り方、官から民への時代潮流の下での適正な大学規模の在り方、更には大学間や設置形態ごとの大学の役割、連携方策の在り方の重要性と必要性等を提言してきた。中間まとめが近いと聞くが、今回は重要なキーワードだという「多様性」について考えてみたい。
私立大学はこれまで、「多様性こそ私立大学の大きな特徴の一つだ」と主張してきた。各大学を設置している学校法人はそれぞれ建学の精神、そして、関係するセクターのニーズに基づいて教育・研究・社会貢献を行っている。多様な建学の精神、多様な地域、多様な歴史、多様な取り組み...。法人化したとはいえ、国の意向が未だ強く働き巨額な交付金で運営される国立大学とは異なる特徴である。従って、高等教育政策に多様性を打ち出すのであれば、私立大学を中心とした高等教育政策に転換してくことが最適・最短の近道である。まさにそれこそが筆者がここ数年来提唱している「高等教育政策のパラダイムシフト」なのである。
もっとも、全国に600余存在する私立大学の多様性全てを把握できるわけではない。総合大学と単科大学、大規模と中小規模大学、都市部と地方部の設置など様々であるし、その教育研究の特色や広義の意味の大学経営も区々である。存在意義である「建学の精神」が多様であって、その実現を目指す教育組織体が私立大学であるから当然であろう。今回の審議結果が、「多様性の実現」を叫びながらも、具体的政策になれば、これまでと同じように画一化の強要や国立大学・ブランド大規模大学を想定したものに帰結してしまわないことを願うばかりである。我が国の高等教育をいかに発展させるか各大学の成長を促すかの時間軸への考慮(あまり時間もないのだが)も非常に重要である。
こうした大学の多様性を政策として推進するには、その評価基準も多様でなければならない。例えば、私学助成の評価基準に、全国で行われている大学の多様性を反映させる必要がある。しかし、本欄で取り上げた通り、財務省が平成29年度私立大学等経常費補助金配分に実施した「蛮行」はどうだろう。特別補助の圧縮率に、「定員充足率」というたった一つの評価軸を乗せてしまった。
そして、財政制度等審議会の会議資料によれば、今年も補助金額にメリハリを付けていくのだという。教育の質を高める、補助金額にメリハリをつける、それ自体を筆者は完全に否定するものではないが、「高等教育機関の取り組みにおける多様性」との整合性はどうするのか。
定員未充足でも、地域に大いに貢献している大学は全国に多数存在する。日本私立大学協会では、「社会貢献係数」を一般補助に導入すべきだと政策提案もしている。これも一つの「多様性の評価軸」だと考えているのである。
全国の大学を回ると、地方の大学こそ、実に多様な取り組みを行っている。政府が目指す多様な高等教育の姿の一端は地方にこそあるのではないかと考えるのである。まずは政策立案者こそが足を運んで、その現場を眺めてほしい。
そして、じっくりと全体像をとらえた高等教育政策のパラダイムシフトを実現してほしいと願うのである。
(H/K)
私大ガバナンスコードは盾と矛
404大学が加盟する日本私立大学協会は、3月27日開催の春季総会(第148回)で、「私立大学版ガバナンス・コード(仮称)(案)」を加盟大学の理事長・学長に示し了承された。
これは、平成29年度において、本協会の大学事務研究委員会(水戸英則担当理事・二松学舎大学理事長)が「ガバナンスワーキンググループ」を設置し、検討を進めてきたもので、私立大学経営において指針とすべきガイドラインとしてまとめたものである。私立各大学におけるガバナンス機能については、法令等での一律な規制ではなく、私学の自主性を踏まえ各大学の実情に応じた自律的な取組として推進されるべきものという基本的な考え方に基づいて作成された。すでに、加盟各大学宛に「日本私立大学憲章」の名称をもって発出されているのだが、広く国民や一般社会に対しての周知にも努めたいとしている。
次の点は強調しておきたい。水戸担当理事が総会で、「加盟大学の実情に応じ、公共性と自主性を基本とした自律的な取組として活用されることを期待する」と説明したとおり、このコードをもって加盟大学を縛るといった類のものでは決してない。私立大学の本質は建学の精神の具現を目的とする自主性にあり、しかも私立大学はその歴史も規模も立地場所も専門分野も異なるのであり、その経営手法は様々である。決して画一的なコードに馴染まない。そもそも、一千年の歴史を有し教育・研究を使命とする大学組織のガバナンスとは何か、筆者は未だ適切な解釈にはおめにかかっていない。このコードは、現行の私立学校法や学校教育法を再確認する観点から、また、今後取り組むことが望まれる項目を列挙する形・内容で構成されている。
このコードを検討するに至った背景には、昨年5月に公表された私立大学等の振興に関する検討会議での検討結果や、それを受けた形での中央教育審議会等の審議動向が挙げられる。ここ数年の間、同審議会等は、私立大学の未整備のガバナンスが大学改革を妨げてきたという認識で進められているという側面が強い。
従って、各大学においては、むしろこのコードをうまく活用していただきたいと願っている。先述の通り、関連法規を列挙しているので、例えば、新任の理事・評議員・監事等への研修ツールとしても利用できる。あるいは、FD/SDで、「自大学にとって重要な項目は何か」を検討する叩き台にもなろう。
本委員会の検討時にも議論されたことではあるが、このコードは、外部圧力から私立大学を守る「盾」であると同時に、学内の役員や教職員への研修ツール、大学改革の一助としての「矛」でもあるとご理解をいただき、活用をいただければ幸いである。
なお、この私大団体による自発的なコードの策定は、私立大学の健全経営と発展とを推進する効果的な手法ではあるのだが、同時にまた、忘れてならぬ課題がある。文教政策の最優先の課題とも言うべき、今後の高等教育の在り方に関連する規模や設置形態を巡る検討である。わけてもファンディングに係る国公私立大学間の格差の是正は急務であることを付け加えておきたい。
(H/K)
安直・唐突な特別補助「圧縮率」
去る3月に実施された平成29年度の私立大学等経常費補助金交付において、唐突に定員未充足大学の特別補助が「圧縮率」をもって大幅に減額される事態が発生し、大学によっては6割もの減額があったという。
404大学が加盟する日本私立大学協会事務局には、全国からこれについての批判、戸惑いの声が多数寄せられた。ある地方大学の事務局長は、「苦労して獲得したのに、定員充足大学と未充足大学とで差を付けられる根拠が理解できない。悔しくてならない」「資金繰りや自治体等への経費支出に困難を極めている」と胸の内を吐露された。つまり特別補助が増額するはずが、「メリハリある配分の必要(財務省)」により、助成金が突如として減額されたのである。途中ではしごを外された関係者の落胆、怒り、モチベーションの低下がいかほどのものだったかは想像に難くない。一体、政府、特に財務省は何を考えてこのようなあ暴挙に出たのだろうか。地方創生、人生100年時代構想において、私立大学の役割への期待を感じる一方で、その構想とは裏腹な政策が行われており、全く理解しがたい。
政府の一方的な都合が、特に地方で教育・研究・社会貢献に熱心に取り組む大学のやる気をなくさせたとあっては、果たして何のための政策であったのか、どのように申し開きをするのだろうか。角を矯めて牛を殺す結果とならぬことを願うばかりである。
それにしても、昨今の補助金行政において、「定員充足率」が最大の指標となっていることに首をかしげざるを得ない。政府はこれから大学教育の質の向上に力を入れ、私学助成も学生数や教員数などの量ではなく、教育の質こそを問うていくのだという。筆者は、そのこと自体は賛成であるし、大いに進めていくべきとも思う。しかし、教育の質=定員充足率という構図は、いささか論理が飛躍していないだろうか。教育の質を問うのに、なぜ定員充足率という量を問うているのか。定員未充足といっても、その背景は様々である。特に地方の大学にあっては、そもそも地域自体の人口が減少している。仮に大学がなくなれば、更に若者の減少は加速する。地方ほど、地域で大きな役割を負っているのである。また、昨今の私立大学の公立化でも見られたが、教育内容は変わらないのに、公立化によって志願者は激増した。この事実だけでも、教育の質を定員充足率のみで測定することに無理があることは十分に理解できよう。問題はこの国の高等教育費負担がその設置形態において、容認しがたいまでの格差・家計負担依存に支えられていることである。地方私学の定員充足率を上げたければ、私学助成などの機関補助はもちろん、学納金を補填する奨学金等の充実や定員の一時預かり制度の創設、大学の基本的枠組みを定める設置基準を改正させればよいということにもなる。
繰り返すが、教育の質の重視、大いに結構である。しかし、定員充足率を最大の成果指標に用いることは、無用な混乱を招くばかりであり、拙速・短絡的すぎることを強調しておきたい。衆知を集めた尺度づくりが必要である。
(H/K)
"機能別分化"は私学になじまない
時代の転機に立つ今こそ私立大学の時代であり、高等教育政策の構造的大転換(パラダイムシフト)を政府に求めたい。
中央教育審議会の将来構想部会は、2040年に向けた高等教育構想、すなわち、グランドデザインを審議している。筆者はこの紙面でも多くの提言を行なってきたが、要諦をなすべき課題の検討は未着手である。この審議は今後のわが国、高等教育の根幹に関することであるので、今一度改めてここ一番の主張を繰り返しておきたい。
それは設置者別の規模・配置と役割であるのだが、私学の自主性との関係で懸念される問題も発生しているのである。大学の設置者は、学校教育法第2条の定めにより、国立大学は国、公立大学は地方自治体、私立大学は学校法人と定められていることはご承知のとおりである。(このこと自体は実に忸怩たる思いがあるのだが)これまで文教政策は国立大学中心で、私立大学はその補完的役割と捉えられていたようにも思える。例えば、国立大学総定員数は、戦後一貫してあまり変化がなく、ベビーブームなど18歳人口の増減は私立大学で「調整」してきたのである。言い換えれば、我が国の戦後の目覚ましい経済発展は、私立大学が担ってきた「分厚い中間層の人材養成」に依ることは万人の認めるところであろう。
しかし現在は、少子高齢社会、国際競争力や経済が衰退しつつあり、現状の設置形態や構造を是とする高等教育政策に限界が見え始めているように見える。昨今、国立大学は文部科学省の政策により三つの機能別に運営方針を定めた。国立大学はその経緯や投入されてきた資金から、国益に適った運営がなされるべきなのであるが、そのようにはなっていない。加えて、地方創生の大合唱を耳にすれば、地域内での最適化こそが重要かつ優先課題であって、国立大学の中での最適化の政策は魔訶不思議である。そして今般、私立大学にもそれと同等の機能別分化を求めてきているようだ。近く、集中審議が始まるとも聞く。
建学の精神をよりどころとし、多様な価値追求をモットーとする私立大学に、官製の機能別分化を求めることは画一化を招来する懸念がある。私立大学は時代の細やかなニーズを捉えて役割を果たしてきたのだし、社会が求める、考えうる機能は果たしてきている。つまり、私立大学が「機能別分化」しているとすれば、現場のダイナミズムの結果であり、政府主導の目標・計画ありきではないのである。このことは昨今の大学の新増設の実態が証明している。
そして、国家財政が逼迫の折、政府が効率的な大学経営を望むのであれば、官から民への政策潮流を基本に据えて、私立大学振興を大学政策の中心に据えるべきであろう。多様な教育研究の質的充実を目指した「高等教育の拡充」と、世界水準を目指した「高度化」との二つの方向性を示しつつ、現場のダイナミズムに委ねることが何より重要なのである。
(H/K)
いざ改革の成果を示すとき
安倍晋三内閣総理大臣の高等教育アクセスへの高邁なる政策提言である、2兆円の「新しい政策パッケージ」が明らかになった。しかし、その制度設計を巡って、趣旨(学ぶ意欲があっても経済的理由で進学を断念する者を救済)とはかけ離れた提案がなされているようだ。即ち、この提言の恩恵に浴する学生は、進学先の大学が、①実務家教員の採用(実践科目の開講含む)、②産業界(?)出身の外部役員の登用などの条件によって選別されるというのである。その条件をクリアできず選に漏れた大学での当該学生は、総理提案の「授業料の減免」や「給付型奨学金」の受給は不可能となる。摩訶不思議な制度というほかない。今後、十把一からげにこの制度を全ての大学に当てはめるのであれば、多様な改革を進める大学にはブレーキがかかり、結果として角を矯めて牛を殺すことにならぬか心配である。現在、文部科学省で詳細な制度設計が検討されているので、願わくは安倍総理の描いた理想が具体の実行段階で学生救済の一点で実現されることを切に願うばかりである。
もっとも、昨今の高等教育政策の議論や提言においては、このたびの政策に関わらず、産業界や財務省主導とおぼしき改革論が盛んである。遠くは平成26年の文部科学省「大学のガバナンス改革の推進について」(審議まとめ)や、現在、将来構想部会で審議中の高等教育のグランドデザインなどにも顕著であろう。その根本的な背景となる主張は、「大学は社会(特に産業界)のニーズに応えていない」、「大学数の増加は質の向上を伴っていない。むしろ劣化していないか」という点に尽きているように思う。これを起点に、様々な大学改革要求が政府の政策として推進され、実行しなければ交付金・補助金を削減する、という構造になっている。
しかし、大学はいつから産業界中心の社会のニーズだけに応える機関になったのだろうか。産業界の要求する「即戦力」は、変化の激しい時代においては即、陳腐化するとも言われる。ここは一つ、豊かな教養と弛まぬ意思・情熱に燃える、変化の対応力を備えた人材養成の成果にこそ期待したいと思うのである。筆者が心配することは、政府や産業界が、「大学は社会のニーズに応えていない」という論調を繰り返すことで、社会全体が大学に対して根深く強い不信感を抱いてしまうこと(すでに抱いてしまったか)である。
実際、様々な大学改革を行ってきた結果、ここ十数年で大学は劇的に変化した。社会で評価される(昔ながらの)大学像と実際の現場の大学像がかい離しているようにも見える。身を切る大学の改革現場を可視化するため、教育・経営情報のウェブサイトでの公開、日本私立学校振興・共済事業団の「大学ポートレート」など、すでに私立大学も様々な努力を行っているし、筆者の関係する日本私立大学団体連合会でも、昨年には「私立大学の多様で特色ある取り組み」という冊子を刊行して、その見える化や広報に努めてきた。
今後も、私立各大学の多様な改革成果・現場を社会に根気よく伝えていかなければならないと考えるのである。
(H/K)
人生100年時代のリカレント教育
政府は、昨秋、「人生100年時代構想会議」を発足させた。一億総活躍プランからの流れの中で、教育の無償化・負担軽減、リカレント教育、人事採用の多元化などを審議している。
同会議の有識者であるロンドンビジネススクールのリンダ・グラットン教授は、100年の人生で必要なものの一つに「教育」を挙げている。現在のように人生において、「教育」、「仕事」、「引退」というステージが直線的に訪れるのではなく、個人の状況に応じてそれら三つのステージを行ったり来たりしながら、多様な価値追求を行っていくのだという。この中で大学は、リカレント教育を担う重要な役割が求められている。
もっとも私学振興を職務とする筆者の立場からすれば、何をいまさら、という感がしないでもない。リカレント教育は、幾度も言葉を変えながら政策の俎上に上り、文部科学省自体もこれらへの対応上、「生涯学習政策局」を筆頭局にしてその推進に努めようとしてきたのではなかったか。これらは何故遅々とした経過を辿ったのか、この点の検証こそがすべての始発点だと思うのである。
我が国が戦後の復興、追いつけ追い越せ時代を終えて、いまや成熟社会を迎えている中、教育機関に求められるのは、画一化された教育から、新たな地平を切り拓き、創造する、多様な価値追求を可能とする教育の推進である。しかし、教育機関だけでこの社会改革は達成できまい。社会構造、産業構造の改革と共に進められねばならない。根幹には国民の意識改革もある。その意味から、このたびの「人生100年時代構想会議」の検討は、次代の日本社会の種々の課題を整理し、それぞれの役割・使命を明らかにしてほしいと願う。重ねて申し上げるが、歓迎すべき検討が始まったと期待したい。
当然、財源の問題はある。しかし、自由民主党が昨秋の選挙公約の中で、基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化目標を先送りしたように、この政策の中で我が国の未来にとって必要な投資はぜひとも行ってほしいところである。
そして、こうした政策の大転換時代においては、私立各大学は振り回され巻き込まれることなく、原点を見つめ直すことが何より重要である。すなわち、学校法人、私立大学とは何かといった命題から、今後、数年は中心となるかもしれぬこれらの政策を俯瞰してみることが必要である。まずは自らの建学の精神、そして、現在の強みや弱み、連携、人脈、取り組みの蓄積など、様々なリソースを総動員して、こうした時代の大転換に向かっていかねばならない。
今年はいよいよ18歳人口が急速に減少していく下り階段の一段目となる年回りである。まさに激動の時代が始まる。その準備は私立各大学にできているだろうか。本協会としても、特に加盟大学の取り組みと課題について、丁寧に国民に周知し、その政策提言を政府に要望していきたいと考えている。
(H/K)
定員割れ大学の助成減額には反対
「定員未充足(定員割れ)の私立大学は私学助成を減額すべき(退場すべき)」という世論がある。まず、これには明確に反対したい。そのいくつかの根拠を提示する。
1つ目に、大学定員数は、大学教育の基本的な枠組みである大学設置基準という省令において定められているが、その基準が今日的に妥当か否かという点をそろそろ抜本的に検討すべき時期が訪れているということである。少なくとも私学経営という観点からは問題なし、とは言えないのである。
2つ目に、定員割れに関わる指摘は主として「教育」に対してなされるのであるが、「退場すべし」の議論には、大学の3つの使命のうち「研究」と「社会貢献」が考慮されていない。特に地方においては、大学は高等教育へのアクセス機会であり、地域シンクタンクであり、地域インフラを担い、雇用の場でもある。地方における私立大学の役割の大きさを鑑みるに、もはや成熟社会において、その維持・発展のために不可欠であり、国立・公立と同様に「公的機関」なのである。「私立は勝手に設置して勝手に経営しているのだから行き詰れば勝手に退場すべし」という議論は、我が国高等教育の全体を顧みない断片的な視点からの、いささか傲慢な主張にも感じてしまう。
3つ目に、政府の2つの大きな政策に反していないかという点である。「地方創生政策」では、自治体との連携による地域の振興に果たす大学の役割の重要性が指摘されているのであり(もっともこの政策以前から自治体との連携を行う私立大学は多い)、「人生100年時代構想会議」では、その立地が都市部であれ地方部であれ、社会人教育、生涯学習など「リカレント教育」の担い手として、大学の役割が大きく期待されている。
加えて、定員割れによる学生数の減少は、1人当たりの教員に対する学生数(ST比)が少なくなり教育環境が改善されるという意見もある。経営状況は、経常収支差額等の指標により判断されるべきであり、例えば2割程度の定員割れを、経営努力で乗り越えている私立大学は全国に多数存在している。
多くの私立大学の定員割れは、次にあげる外的要因が大きい。
1つ目が地方から都市への若者流出であり、これは、大学立地地域における就職先、アルバイト先、居住環境に大きく左右される。大学がいかに努力しようとも、これらの改善がなければ若者は地域には留まらない。2つ目がその地域の進学率である。今後の日本を鑑みて、進学率の低い地域をそのままにしておいて良いのか。地域を愛しその歴史文化を継承し、新たな産業創生を行う地域リーダーの育成は喫緊の課題である。3つ目が学生納付金格差である。私立大学の公立化で志願者が激増するケースがあるように、国公立との学生納付金格差は私立大学にとって最も不利な条件なのである。私立大学の定員割れを問題にする前に、国公私立の格差を是正して公正な競争環境を実現しなければならない義務が政府にはある。
定員割れと教育内容や地域への貢献度は必ずしも一致しない。先に挙げた外的要因は、当該大学の努力だけでは如何ともし難い。こうした状況の中で、「定員割れの大学は私学助成を減らせ、退場せよ」という議論はあまりにも短絡的ではなかろうか。
各地域で、それぞれの事情に応じて高等教育機関も存立している。机上の数字合わせに終始して、現場を見ない議論は本質的ではあるまい。本年も、こうした論調と徹底的に議論していきたいと思うのである。
(H/K)
総動員した組織力を
大学設置基準の改正により大学職員を対象とした研修、いわゆるSD(Staff Development)が義務化された。ここでのSTAFF(職員)の定義は、学長はじめ教育職員(教員)や従来の事務職員に加え、技術職員も含むとされ、従来のSDとは異なり、大学経営の担い手としての職員ということである。しかしながら私立大学の現場では、難しい大学経営や地域事情といった背景から、教員のみならず職員が、すでに経営の重要な担い手として位置付けられているところは多い。重要な学内会議において職員は発言ができず陪席のみでは、結局のところ大学の総力を結集した経営はできない。職員の役割が年々高まる中での、この改正は当然であったと言える。
これまでは1人のリーダーが力技で大学を経営することもできた。しかし、2018年という18歳人口急減時代の始まりを迎え、大学経営に必要なのは組織力であると言えよう。組織内で学生をも巻き込んだ大学構成員が、建学の精神という志のベクトルを合わせて知恵を出し、共に掲げたビジョンに向けて協働しなければならない時代なのである。そのための、経営陣、教員、職員、学生、保護者、地域、全てを巻き込んだチーム、あるいは大学コミュニティとしての協働、すなわちFD、SD、BD(Board Development)を統合した「UD(University Development)」が必要なのである。学生の未来のために何ができるか、あるいは、大学の今後について学内で大いに議論し、それを中長期計画として策定し実行する、つまりPDCAサイクルを回していく。そして、こうした議論に加わることで、経営が「自分ごと」化し、冒頭に述べた通り、個々人のベクトルが合わさってくるのである。
小規模大学であっても「隣は何をするものぞ」という縦割り組織は少なくない。優秀な人材という「ないもの探し」をするのではなく、現在ある大学内人材を総動員して歯車を噛み合わせれば必ず大きな力が出せる。
繰り返すが、大学力とは組織力である。教職員が合同で研修を行う大学もまた、地方中小規模に多い。
改めて申し上げたいのだが、私立大学は時の教育潮流に対抗して新たな識見を持って、固有の教育理想の実現のため、創設された組織体である。こうした組織創生の原点を再確認しつつ、大学構成員の総力をもって邁進することこそが私立大学の理想の姿である。
「一人はみんなのために」。2019年にはラグビーのワールドカップが開催される。ラグビーで用いられるこの有名な言葉は、大学経営にも当てはまると言えよう。(H/K)
専門職大学とは何者か
新たな高等教育機関である「専門職大学」制度を設立する法改正案が今年の第193回通常国会で成立し、設置基準が急ピッチで整備されているという。
筆者は、去る4月21日に、衆議院の文部科学委員会の場で、この件について参考人として意見聴取に臨んだ。その際にも述べたことだが、新しい高等教育機関の発足については紆余曲折の経緯があったことも承知しているし、高等教育への多様なアクセスへの新たな機会が生まれる点は評価したいが、今なお「新たな専門職大学とは何者か」という点において不明な点等が多い。大学団体の職員としては、今一度、論点を整理したいと思う。
一つ目が、既存大学・短期大学との整合性である。制度上は、アカデミックな従来の高等教育機関に加えて、ヴォケーショナル(職業的)な高等教育機関であると説明されている。しかし、資格取得、職業養成は、多数の既存大学ですでに行われていることであり、今、このタイミングで新機関として設立する明確な理由が、あまりにも弱い。つまり、現行法の中で十分に取り組みが可能なのである。この点は、さらに政府・文部科学省による丁寧な説明が必要と考える。
二つ目が、現在、審議されている設置基準関連についてである。現時点では、おおよそ大学設置基準とそれほど変わらないものになるだろうと言われているが(そうであるならなおさら既存の大学でよいと思うのだが)、「大学」を名乗るからには、学位の世界共通性のもと教育・研究・社会貢献の質を保つ仕掛け作りが必要であって、その設置基準は職業高等教育の基本的枠組みを規定するのであるから、安易な緩和基準であってほしくはないというのは大学団体の驕りであろうか?
三つ目が、私学助成についてである。仮にこの新機関が発足するのであれば、既存の私学助成とは別枠による財政措置をしてしいと以前より訴えてきた。この点は、衆参両院の付帯決議にも採用されて明記されている。政府も、その要望を(なるべく)実現するように努力をすると述べているが、重ねて訴えておきたい。
四つ目が、東京一極集中の是正との整合性である。東京23区の大学は、定員増の抑制政策が行われているが、例えば、専門職大学であれば設置可能になるのであろうか。さらに言えば、全国的にどの程度の専門職大学新設を見込んでいるのか。これは高等教育の規模の問題にも関わってこよう。この問題は社会人や留学生の受け入れ施策とも同種の問題である。
いったん発足した教育機関は軽々に中止(廃止)することはできない。内閣府主導で見切り発車の新制度には前述の通り、更に詰めなければならない課題がある。この点は中央教育審議会の「高等教育の将来構想」で議論すべきことでもあるが、ことここに至れば小さく産んで確実に大きく育てる思想が重要になるだろう。関係者の英知の結集を望みたい。(H/K)
県ごとの高等教育計画策定を
地方創生という政策課題が熱い。そこでは地元進学率や地元就職率が重要視されている。それでは、県と私立大学が共に協力してこれらの数字を伸ばそうとしているかと言うと、どうもそうでもないという話を複数の地域から聞く。
地域の中小規模私立大学は、それぞれの地域にあって当該地域の若者に高等教育機会を提供している。それゆえ、地元進学率・地元就職率は高く、地域のリーダー人材の育成という重要機能も果たしている。学生が地域に飛び出し地域活性化の課題を発見し、様々な知見から解決を目指している事例も増加傾向だ。日本私立大学協会は平成18年から、大学と地域とは良きパートナーであり地域活性化の原動力であるとの認識のもとに、「私立大学の地域共創活動」を推進しているが、これらの事例は、ようやく実を結びつつあるとの感慨を抱く。地域の高等学校などと連携し、高大接続の取り組みを広げている私立大学も数多い。地元進学率は、結果的にこうした地道な取り組みによって高まっていくのだと考えている。
しかしである。当然にも地域には依るが、肝心の都道府県側が地元私立大学に対して連携・協力の意思が乏しいようだ。ある地方の私立大学長は、「国立大学や公立大学こそ地元定着率が低い。地方創生政策においては、地元の私立大学は強力なパートナーになれるはずだが、県は足元を見ていない」と非難気味に述べていた。
こうした傾向が様々な地域で起きているのだとしたら、なんと不幸なことであろう。東京で私学振興の執務を行う私どもからすると、遠い昔に死語と化したはずの「官尊民卑」の傾向が見え隠れする。
全国知事会は東京の人口一極集中を背景に、東京23区の大学の定員増抑制を訴えている。その意図することは分からないではないが、若者流出を食い止めたいのであれば、各知事の地元の私立大学にも協力を要請して、国公立大学への財政的支援同様の支援を私立大学にも行い、その豊富な知見を活用し、若者の地元定着率を高めて頂きたいものだ。筆者らは地域・地方大学の学生と都心大学の学生の相互交流(欧州のエラスムス計画的な政策)も提案しているのだが、ほかにも有力な手立ては存在していよう。県内高等教育機関を紹介したパンフレットを作成し、県内高校生に配布するなどの方策も考えられる。特に、長野県の「高等教育振興基本方針」のように、県の高等教育計画の策定は、ぜひともお願いしたい。
地域が急速に衰退する中、地域活性化はこれまでのように地域における官尊民卑の意識のままに、国立大学に期待を寄せ続けていれば持続していけるのだろうか。筆者はそうは思わない。地域のために汗をかく私立大学に注目して、産(産業界)・学(大学等)・官(自治体)・金(金融)・民(NPO)など、いわば地域の総力を結束した取り組みが必要だと考えている。このプラットフォームの構築こそが一筋の光明であろう。(H/K)
大学の成果をどう示すか
「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)2017」をはじめ、高等教育の無償化の議論が盛んである。しかし、財務省の審議会等では、セットとして大学教育の質の向上も合わせて言及している。そして大学は、その教育成果を提示せよ、とのことである。
「大学の成果とは何か、どう見せるのか」は古くて新しい問題でもある。この問いに対する大学関係者による回答は、「大学の成果はすぐには分からない」ということになろう。教育は、材料を組み立てればすぐに製品ができるものではない。若者は大学教育の中で自らの内面的思考を展開させそれぞれに成長していく。どのような刺激で自発的に学び始めるかは学生一人ひとりで異なる。また研究にしても、予測して起こせないから「イノベーション」なのである。乱暴だがいつ役立つかわからない、そういうものが基礎研究ではなかったか。
日本はいつから明快な短期的成果ばかりを求める国になってしまったのだろうか。もちろん、過去には「大学のレジャーランド化」という批判に甘んじたこともあった。それをもって何もしていない、と指摘されたこともあった。しかしそれは社会、特に産業界から求められていたことでもあったのではないか。
時は流れ、社会も政府も大学教育の厳格化を求め始めた。大学はそれに応じて教育を充実させてきた。恐らく筆者の学生時代、それは既に半世紀も昔のことだが、その時代よりも今の若者たちはまじめに、そして、熱心に勉強をしている。教員も同様であって、リメディアル教育やアクティブラーニングなど教授法の改善に追われている。留学をする学生も明らかに増加した。しかし、まさに先述の理由により、「大学は変わったのだ」というエビデンスを簡単に提示することは難しい。
難しくはあるが、これだけの「大学の成果」を求める声を、やはり放っておくことはできまい。大学の成果とは何か。国民や時代が要請する今日の大学とは何か。私学団体では昨年度、「明日を拓く私立大学の多様で特色ある取り組み」という小冊子を作成、まさに見える化を図ったのである。Ⅰ.教育の質的転換、Ⅱ.地域社会の振興・活性化、Ⅲ.グローバル化の推進、Ⅳ.イノベーションの推進という4つのテーマに区分し、規模や地域別で約150の多様な私立大学の成果を提示した。紙面の制約から全てを紹介できなかったが、当然、本冊子は今後も更新を重ね、充実させていく予定である。
私立各大学の現場レベルでも、コンピテンシー評価や国家資格試験の合格率といった数値的提示や、ルーブリック、ポートフォリオによる質的提示の試みが多くなされてきている。「それでも十分ではない」というのであれば、何を示せばよいというのだろうか。逆にご教示を願いたいものである。
教育は、国民総評論家と言われるほど、誰もが一言語りたいテーマである。そして、概して「自分の受けた教育」を基に語ってしまう。それゆえに間口は広く奥は深い。関係者の真摯な熟議を望みたい。(H/K)
東京一極集中是正を考える
政府の地方創生政策では、人口の東京一極集中の是正が目標の一つに掲げられている。昨年末、全国知事会が「東京23区の大学・学部の新増設の抑制」を提言して以来、内閣官房に「地方大学の振興及び若者雇用等に関する有識者会議」が設置され、その是非が精力的に議論されてきた。
去る2月には、日本私立大学団体連合会がヒアリングに呼ばれ、佐藤東洋士桜美林大学理事長・総長と住吉廣行松本大学学長が会議に臨んだ。二人からは全国に展開する多様な私立大学の実態を踏まえた多様な意見や提言が開陳されたのだが、一般紙は、私大団体連は「抑制には反対」の立場を取ったと書き連ねた。その報道をめぐり全国から様々な意見が寄せられた。本稿では、これらの真意を含め、その全体像を考察してみたい。
大学教育は「量から質へ」と叫ばれて久しく、その質的転換の推進を第一義と考えた取り組みが活発である。地方の私立大学については、本紙で常に取り上げるように、本質的な大学改革に切り込み、地域や時代の要請に応えた教育の質的転換を行っているところが多い。地域活性化に貢献して地域の大きな信頼を得ているのである。従って、高等教育全体を鑑みれば、地方部・都市部立地の大学の調和的発展の基盤形成や地方産業・社会の総合的な再生こそ優先されるべきであろう。
しかしながら 一方、次のような有力な反論もある。すなわち、私立学校の自主自立的な営みに対して、政府の強い管理を認めてしまってよいのか。東京の大学の新増設抑制は、私立大学の多様な価値追求の阻害にもなるし、特に東京の中小規模私立大学が発展する道を塞ぐことになる、という意見である。
従って、少子高齢化、グローバル化社会の進捗をみながら、5年計画・10年計画に期限を限定しつつ、暫定的な措置として、収容定員を変えずに、学部の改組を行う「スクラップ&ビルド論」はバランスが取れているとも考えられる。
しかしである。この問題のさらに源流を辿れば、「高等教育政策の貧困」に突き当たる。すなわち、「若者の東京一極集中」は、なぜか大規模私立大学のみが問題視されているのであり、ここに国公立大学は登場しない。私立大学の新設抑制論よりも、国立大学の地方移転こそ、地方創生に効果が期待できるのではないか。繰り返すが、私立大学よりも市場原理を受けづらい国立大学こそ地方移転し、東京で私立大学ができるところは私立大学が担当すればよいのではないか。今こそ、国策を遂行する大学たる国立大学がその責務を果たす時ではないのか。
「高等教育に関する将来構想(グランドデザイン)」については、こうした課題こそきっちりと議論すべきであり、今こそ高等教育政策の大転換を望むのである。(H/K)
機関補助と個人補助のバランスを
引き続き、いわゆる「高等教育のグランドデザイン」について、四つ目の論点を提示したい。それは機関補助と個人補助に係る大学支援の在り方の問題である。
機関補助としての私立大学等経常費補助金と国立大学運営費交付金は、大学の発展と存続を支え、ひいては日本の高等教育・研究の質的充実を支え続けている。
私立大学等経常費補助金は、昭和45年、164億円の行政補助金として政治主導で始まった。当初は①私立学校の教育条件の維持及び向上並びに②私立学校に在学する幼児、児童、生徒又は学生に係る修学上の経済的負担の軽減を図るとともに③私立学校の経営の健全性を高めることを目的として私立大学総経常経費の2分の1補助を目指し、昭和50年7月、議員立法として法的根拠を得、以来、文教関係議員の特別な理解と尽力により増額の一途を辿ったが、昭和55年の補助率29.5%をピークに下降し続け、財政逼迫のあおりも受けて平成27年にはついに9.9%と2ケタを割り込んでしまったのである。さらに、一般補助から特別補助への付け替えも頻繁に行われている。
他方、個人補助は学生個人を対象とする奨学金であり、これまで政府は主に貸与型奨学金、授業料減免制度の充実を図ってきた。これは昨今の家庭の経済状況(貧困)を鑑みて、給付型奨学金制度や所得連動返還型無利子奨学金が新設され、無利子奨学金の大幅拡充が決定されている。
この支援は基本的には歓迎されるべき方向である。しかしながら、これらは大学への基盤助成としての機関補助の充実とともに措置されねば、大学の健全なる発展は達成されない。この点はどれだけ強調しても強調しすぎることはないと筆者は考えている。国大・私大を問わず、卒業生は我が国の持続的発展のマンパワーとして原動力を担っていく存在なのである。この点についても、理解を深め改善の努力が必要である。
昨今、懸念される意見もある。それは財源論に関連するものだが、機関補助を削減して個人補助を充実させるといったものである。
言うまでもなく大学には教育・研究・社会貢献の三つの役割が求められているが、個人補助は「教育」に大きく属するものといえる。よって個人補助の充実は、合わせて研究、社会貢献の財政的支援も充実しなければ片落ちの議論となろう。さらに付け加えれば、機関補助たる私立大学等経常費補助金の一般補助に「社会貢献係数(仮称)」を導入して地方中小規模私立大学の経営努力に応えることや、個人補助については、せめて教育費相当分については国立大学生と私立大学生で同額の補助となる財政措置を行うべきとする主張は、筆者がこれまで様々な機会において繰り返してきた見解である。
いずれにしても、国立大学・私立大学間の機関補助格差・個人補助格差を野放しにしておいてよい道理はない。当然、財源問題があるので、両者はバランスをみながら、大胆に再構築されるべき時代を迎えていると考えるのである。(H/K)
今こそ"渡り鳥"制度展開を
今号では、「高等教育のグランドデザイン」について、三つ目の論点を提示したい。それは、学生の流動化施策についてである。
中央教育審議会大学分科会が公表した「今後の各高等教育機関の役割・機能の強化に関する論点整理」の項目「教員・学生の流動性の向上」には、「学生が所属する高等教育機関以外での学修や高等教育機関間の転学は多くはなく、都市に立地している大学と地方に立地している大学との学生同士の交流なども一部を除いてほとんど行われていないなど、学生の流動性は低い状況にある。(略)学生・教員の流動性を高めるための方策について検討する必要がある」と書かれている。
日本私立大学団体連合会では、2009年に公表した「私立大学における教育の質向上~わが国を支える多様な人材育成のために」の中で、都市部の大学生と地方部の大学生との交流を「渡り鳥」制度として提案した。この要諦は、本紙2674号(平成29年2月1日号)の本稿でも触れたが、要するに、1年ごとに大学を渡り歩き武者修行をするのである。学生の知見を引き延ばすだけではなく、大学にとっても教員の能力開発、ひいては教育の質保証・評判に繋がる。
当時は画期的なアイディアであったが、全国的な実現には至らなかった。また、政府では、日中韓で「キャンパスアジア」を進めていたが、大学院生レベルのごく限定された政策であった。
昨今の地方創生の観点からも有力な切り札になると考えている。都市と地方の大学が交換留学をすることで、都市部の学生は地方の課題を、地方の学生は都市部のアイディアを知ることができる。学生は四年間を同じ場所で過ごすのではなく、在学中に都市と地方を交流しながら学んでいくことができると言える。
こうした試みは、すでにいくつかの私立大学ではスタートしていると聞いている。半年や一年など長期ではなくとも、夏休みや春休みなど休暇期間中の滞在プログラムでもよいだろう。つまり、海外留学と同じ程度に国内にむける短期留学制度も整えていくべきである。また、国内留学中の学生の住居等については、大学の学生寮のほか、地域の空き家を利活用するなど、自治体等との連携も図る必要があろう。
無論、現実には克服すべき多くの課題がその他にも存在する。設置形態に係る課題、大学財政の課題、単位の認定・接続の課題、カリキュラム編成上の課題等々、一朝一夕には解決は難しいものばかりである。しかし、100の困難を嘆くよりも、海外の事例や先行する私立大学の取り組みを参考にしながら、大胆に構造的な大転換を志向して一歩を踏み出すことが今必要な重要ごとだと考えるのである。(H/K)
国私間13倍の公費格差是正を
前回に引き続き、いわゆる「高等教育のグランドデザイン」について、二つ目の論点を提示したい。それは学生納付金とこれに対する公的財政支援に係る問題である。
比較の適正性を考えてデータは2014年を使用する。ご承知の通り、わが国の国公私立大学の学生納付金(年額・初年次)は国大生約80万円、私大生約140万円で、その差は約2倍である。公大生はほぼ国大並みである。あえて授業料とせず学納金の比較としたのは、授業料の定義が同一ではないため、後述する論点からも、むしろ家計負担格差の点からこの比較がベターと判断したためである。
次に、わが国の大学生一人当たりの公財政支出額(2014年)は、OECD平均各国の99万円(2012年)を大きく下回り、69万円(加重平均)となる。しかし、これを国私立大学に分けると、国大生は218万円、私大生はわずか17万円で、その差はなんと13倍(!)となる。こうした国立大学に裕福な家庭の子どもが進学する傾向にもあると言われる社会的矛盾や、今日までに果たしてきた私立大学の公教育に資する社会的役割を鑑みれば、この非合理な格差は看過できるものではない。
国公私立大学が真に切磋琢磨して競争し、教育の質、学習環境の充実が大学選択の基準となるためには、この金額格差を埋める授業料減免、給付型奨学金といった学生への経済的支援や基盤助成の抜本的拡充が必要になる。ある地方の私立大学では、先行して国立大学と同額の学納金で入学できる支援制度があるが、大学全体で考えると、それにも限界があると考えるのである。
一方、社会を見れば、「わが国の大学数は多すぎる」、「私立大学は営利企業のようなものではないか」といった疑念の声すら聞く。高度にして成熟する知識基盤社会やグローバル社会の実現にとって、大学機能の強化と多様な人材育成が必須の重要事なのであって、これらの意見や批判はあまりに的を射ていない。私立大学はそれぞれの建学の精神のもと、学納金等を用いながら教育・研究・社会貢献に日々邁進している。その一端はこれまでも本紙で紹介しているところである。
諸外国に目を向けてみれば(外国比較は軽々しくすべきではないが)、米国の有名私立大学の寮費・食費など含めた学納金が年間約700万円にもなる。しかし同時に、手厚い給付型奨学金等が整っているとも聞く。他方、韓国や台湾では、学納金額は政府が一律して決めるそうだ。わが国はと言うと、学納金、否、授業料はいかに積算されているか、あるいは、国の財政支援の根拠もまた不明である。等しく公教育を担当し、国立大学も法人化された今、大学生への国の公財政支出は、公平に配分されるべきであろう。せめて教育費に係る部分だけでも公正性が担保されるべきである。
このテーマは今日のわが国の高等教育の基本問題であるだけに、着地点(無償化?)を見定めつつ、現実に横たわる国公私大間の13倍の公財政支出格差の是正は、高等教育予算全体の拡充を目指す方向において、早急にも実現したい課題である。(H/K)
高等教育の規模と配置を考える
中央教育審議会大学分科会の「今後の各高等教育機関の役割・機能の強化に関する作業チーム」で、いわゆる高等教育のグランドデザインの議論が始まっている。現状に基づくその改善議論も必要だが、我が国の将来展望に基づく大学をはじめとする高等教育の基本構造の在り方や全体の公正な教育行財政の実現を大胆にゼロベースで検討した、画期的な提言を期待したいものである。
筆者としては、いくつかの論点をぜひ議論し深化させてもらいたいと願っている。
このたびは、「高等教育の規模と配置」の在り方を論じてみたい。
今後縮小していく我が国の人口動態と国公私立の高等教育機関の分布やその行財政をいかに考えるかという問題である。もちろん、地域によってそれは異なるから、県単位、あるいは、東北地方、中部地方といった「地方区分」単位で議論をする必要もあろう。明治維新から一五〇年、成熟した平和国家を実現したとはいえ、そして、国家財政逼迫の折、また、官から民への政策潮流に呼応して、その公財政支出の抜本的拡充と国公私間の格差解消を、規模と配置の角度から検討して欲しい。率直に言えば、国立大学の学生定員は現状のままでよいのか、教育行財政における設置者負担主義の原則は、もはや時代遅れではという問題意識である。
その際、旧帝大のように研究を志向する国立大学は、大学院大学化して研究に特化して世界に伍する研究型大学を目指してはどうだろうか。私立大学は、各自の建学の精神のもと、特色のある学術研究活動の推進も重要事であろうし、人間形成を志向する人材育成にしっかりとした軸足を置き、地方の国公立大学と連携しながら地域のリーダー人材を育成する等の視点から独自の専門教育・地域貢献活動を行うという方向性も考えられる。いわば、県内・地方区分内での機能別分化である。専門分野ごと、あるいは学際領域の開発という視点もあろう(例えば医歯薬系などでは先行事例もある)。
こうして各地でカラーを出しつつ、学生には流動性を持たせて、例えば、エラスムス計画のように、1年目は東北地方の私立大学、2年目は九州の国立大学、3年目は関東の私立大学、といったように全国を巡る教育ができる仕組みの構築も十分に検討に値する。無論、その実現には、各大学の教育研究の質の画期的充実が必要であり、その教育改革を担保するナンバリング等も必要となってくる。実はこの仕組みは、鈴木典比古元国際基督教大学長(現国際教養大学長)が、2009年に日本私立大学団体連合会で提唱した「渡り鳥政策」そのものでもある。高等教育のグランドデザインの検討にあたっては、こうした「連携と流動化」をキーワードにした量と配置の検討が重要と考えるのである。
次に、学生納付金の論点であるが、紙面の都合により、この点は次号に譲りたい。(H/K)