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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.228
公共性の危機は私学の危機―公共性と建学の精神

主幹 瀧澤 博三 (帝京科学大学顧問)

 教育学術新聞の新年恒例である、日本私立大学協会の諸先生方による新春座談会に、司会者として参加させていただいた。そこで提起された問題は、私学の経営問題、私学助成、質の保証など、私学にとって基本的であるとともに切実な課題ばかりであり、今、私学が如何に困難な環境下に置かれているかを痛感させられた。中でも、私学の基本理念とされている「公共性」の問題に話題が進んだことには、私学の危機が、私学の存在の根源的なところに及んでいることを想わされたしだいである。
 「私学の公共性」は、私立学校法第一条の目的規定と教育基本法第六条の「公の性質」の規定によって制度としては明確にされ、一方、個々の大学としては、大学設置の趣旨であり目標である「建学の精神」が公共性の表明であり主張である。また、設置認可も公共性の理念を支えているものと言えよう。しかし、大学の大衆化とこれに伴う市場化、サービス化と言われる大学の変化は、私学の公共性の理念に対する国民の理解に、少なからぬ揺らぎを与えてきたように思われる。更に、国の構造改革の一環としての大学政策の市場原理主義への偏向は、教育の個人的なメリットの側面のみを重視し、教育の公共的な役割を視野の外に置く風潮を生んでおり、私学の公共性の理念はいっそう風化していく恐れがある。
 今回は、新春座談会での諸先生方の議論を踏まえて、学校法人制度の根幹にかかわる「公共性」の危機について考えてみたい。

 ■信頼性の時代
 ブランドとか偏差値といった意味・内容の曖昧な尺度に、受験生も大学も振り回されていた時代が終わり、教育サービスの内容の如何が学校選択を左右するようになってきたのは、まだここ十数年来のことであろうか。この変化には、大学審議会の累次の答申による教育重視への誘導の影響も大きかったと思うが、基本のところでは、高等教育への需給の変化による影響が大きかったことも間違いない。このため教育重視が、とかく学生満足度の重視と重なりがちであるが、公教育である以上は、受けたい教育だけでなく与えるべき教育が大事である。私学の「建学の精神」は、そのような公教育としての各私学の独自の教育理念を表明したものであり、それが私学の「公共性」を支えるものでもある。
 今、変化が激しく将来への不透明感の強い時代を反映して、公的機関か企業等の民間組織かを問わず、組織としての誠実性、倫理性が問われ、組織の行動に対する信頼性の維持が経営の重要な課題になってきているが、この点では私学も同様であるだけでなく、それ以上である。特に、大学の多様化が著しく、グローバル化も進展しつつある中で、私学が教育研究の運営にあたって、社会の重要なインフラとして「公共性」の理念を維持し、それによって社会からの信頼を確立することはますます重要になってきている。組織倫理、コンプライアンス、インテグリティー、USR(大学の社会的責任)等のキーワードが、大学経営に関連して盛んに取り上げられるようになったことがそれを示している。私学をめぐる環境の困難性が増せば増すほど、「信頼性」は私学経営戦略上の重要テーマとして浮上してくるに違いない。

 ■「公共性」と建学の精神
 学校を設立しようとするとき、設立者は、学校設置に必要な私的財産を寄附して公的な財産とするとともに、その財産の使い方として教育研究事業の大枠を定め社会に表明する。そこには、設立者が寄附財産によって実現しようとする独自の教育理念が示されていなければならない。これが「建学の精神」である。したがって「建学の精神」は、財産の寄附行為と一体のものであり、学校法人及び学校の設立行為の重要な要素であるとともに、私学の「公共性」を実質化するための私学独自の仕組みである。このように考えた場合、「建学の精神」のあり方については、次の二つの点に留意する必要があろう。
 一つは、各大学の定めている「建学の精神」は概してワンフレーズ的であり、抽象的であり、深い含意を感じさせる名言が多い反面、内外の理解を得るには具体性に欠け、説明不足でもあるものが多い。もう一つは、「建学の精神」は教育をする側の教育理念に基づいたものであり、教育サービスを商品と同視し、消費者満足を第一とする思想とは相容れないことである。学生の個性と興味・関心を生かすことは大事であるが、教育は教育する側の主体性と責任において行われるべきである。したがって、市場原理主義、消費者主権一辺倒の考え方は教育の責任放棄であり、私学の公共性への信頼喪失に繋がるものであろう。

 ■「公共性」の危機
 戦後、私学は、教育基本法によって国公立学校と同様に公教育を担うものとされ、更に、私立学校法では私学の公共性の理念が謳われた。私学教育は、単に個人的なメリットのためではなく、社会公共の利益のために行われるのだということが明確にされたわけであり、これによって私学が公共的性格を持つということが、広く国民の間に定着してきたと言えよう。しかし、「公共性」自体は理解されたとしても、その理念としての濃度においては、次第に希薄化する傾向があったように感じられる。60年代以降、大学の拡大が急激に進み、大学教育が大衆のものとなって学生の能力・資質の幅が大きくなるとともに大学も多様化し、一部には大学のレジャーランド化といった揶揄も聞かれるようになる。大学の役割として、国家・社会の必要とする人材養成よりも、個人のための資格・能力の開発という面が、言い換えれば、大学教育の公共性よりも私事性が表面に出るようになった。こうして私学の公共性への国民の理解と支持が揺らいでくる恐れがある。
 このような私学の公共性の揺らぎを一歩踏み越え、公共性の空洞化と私学の危機を招きかねない動きが存在する。90年代に入ってからの大学政策への市場原理主義の導入である。「小さな政府」を目標として公的部門の仕事を民間に移し、事前規制等の政府の関与を排して市場における自由な競争原理に委ねる。このような思想が私学政策に及ぼされると、私立大学の学校法人独占を排して大学への参入を自由化し、消費者の選択の自由を広げ、平等な条件の下でフェアな競争が行われるようにすることが大事で、政府規制による質の保証や設置の調整は不要・有害である。競争の結果、破綻する大学が生じたとしても利用者に選択されなかった大学は存在する必要がない云々とされることになる。既にこのような改革は実施に移されつつあり、この方向に進んで行けば私学の存在理由は「利用者の選択」だけとなり、「公共性」の制度化はまったく意味を失うだろう。私学教育が公共財としての意味を失い、私的な消費財と見なされるようになれば、これに国民の税金をつぎ込む根拠も薄弱になる。私学の公共性の危機は、私学の危機である。

 ■「私学の公共性」の確立を
 今の構造改革・規制改革の流れは、いったいどこまで行くのだろうか。一つの原理が一本調子でいつまでも続くほど、人間社会は単純ではないから、いずれは調整の段階がくるものと思うが、最近の郊外大型店の出店規制の復活などは、その兆しであろうか。大学政策に関しても、規制改革・民間開放推進会議の答申で、設置審査の重要性を指摘していたことも、これまでの同会議の動向からしてオヤ?と思わせることであった。私学としては、市場原理・競争原理の活用すべきところは活用しても、行き過ぎた活用については正面から是正を主張すべきだろう。一方で私学の公共性について、社会の理解を得るためにするべきことは多い。情報公開、説明責任、社会貢献、社会的責任の遂行などであるが、ここでは「建学の精神」について、ひとこと触れておきたい。
 「建学の精神」が私学の公共性を示すものとして理解されるためには、一般に短文である建学の精神と併せて、これを敷衍し補充するものとして「使命・目標」を別に定めるべきだろう。ここには、大学がどのようにして社会の要請に応えようとしているのか、養成しようとする人材像、そのための教育内容・方法の特色などを明確に示すとともに、これをマネジメント・サイクルに組み込み、着実な実現が図られるようにする必要があろう。私学の公共性への国民の理解と支持を高めるために努力すべきことは多い。これを第三者評価においてどのように扱うか、今後の重要な課題であろう。

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