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研究成果等の刊行

No.6(2001.07)

「世界の私学化の潮流と日本の私立大学」

問題提起者:森 利枝、喜多村和之

はじめに

私学高等教育研究所 主幹 喜多村 和之

 最近数年間に国立大学においては「法人化」や「民営化」、さらには経営原理や本場原理の導入などが議論され、他方、公・私学部門では、「公設民営」や「公私協力」方式、営利教育機関の台頭、私立学校設立の奨励策等々、いわゆる「私学化」(プライバタイゼーション)の潮流が世界的規模で進行しています。この動きは何故起き、いかなる意味をもち、どのような影響を日本の私学に及ぼすのか。圧倒的に規模が大きく、歴史も古く、多様性に満ちた日本の私学高等教育は、こうした世界の情勢の中で今後どのように発展していったらよいのか。今回の公開研究会では、こうした問題をめぐって私立大学の現状と将来をテーマとして取り上げました。講演はまず2人の講師から、世界の高等教育における私学化の動向を展望し、こうした「私学化」の潮流に日本の私立大学はどう立ち向かうかについて問題提起をしていただきました。そして、講師の報告後の共同討論では、参加者を交えて活発な質疑や意見交換が行われました。この報告書は、第5回公開研究会で行われた発表、討論、問題点、コメント等を記録としてまとめたものです。私学関係者のみならず高等教育に関心を持たれる方々が、この問題をお考えいただくうえで参考にしていただければ幸いに存じます

I . 問題提起(1) 森 利枝
   "私"へ重心移す大学―世界の高等教育「私学化」の展望(問題提起要旨)


 世界の高等教育の「私学化」とはどのような現象であろうか。2000年のOECDの統計によれば、高等教育機関のうち、私立機関に属する学生の比率は、韓国、フィリピン、日本、インドネシアで70%を越え、オランダ、ブラジルなどで60%以上となっている(このうちインドネシア、ポルトガルの私立機関は政府依存型)。この統計では、ついでアメリカ、メキシコ、ポーランドの順に私立大学の学生数比率が高くなっている(OECD, Education at a Glance, 2000 Edition)。
 高等教育の私学化あるいはプライバタイゼーションをいうとき、まず前提とすべきなのは、「私学」あるいは「privateであること」とは何かという問いであろう。
 高等教育機関の公立(public)と私立(private)の区別に関して、レヴィは高等教育機関の財源、管理、使命の三点に注目してそれが曖昧なものであることを指摘している(Private Education: Studies in Choice and Public Policy, Oxford University Press, 1986)。すなわち財源の面では、たとえば政府から私立機関に研究費が投入されることや私立機関の学生に政府から奨学金が与えられること、公立機関の学生が授業料を負担すること、あるいは私人や私法人が公立機関に寄付を行うことが公私の区別を単純ならざるものにしている。
 また高等教育機関の管理の面では、ラテンアメリカの国立大学は財政的には大いに政府に依存しながら高い自律性を保つ強い傾向があるいっぽう、ベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国では、高等教育機関はすべて公立機関に分類され、かつ政府の強い管理下におかれている。また、冒頭に述べたように全学生数の70%以上を収容する韓国において、政府が主導して行う大学評価プログラムに国公立大学とならんで私立高等教育機関が一校の例外もなく参加して評価を受けていることからも、学生数シェアという量的な測定だけでは見えてこない質的な面での公私の影響力のバランスがあることが推察できる。我が国における国立大学の独立法人化の議論も、この管理の面における公私の別を複雑にする要素の一つであろう。
 さらに高等教育の使命という要素についてみると、たとえばアメリカでは、カトリック教会が設立した大学において、キリスト教教育という、現代的な文脈における「私」の要素の強い機能の重要性が低下しており、むしろ個々の機関のなかで「公」の要素が拡大している経緯が観察される。またそれとは別に、たとえ私立の機関であっても大学が「公共性」を高く維持すべき存在であることは、我が国における私立学校法にも定められているとおりであり、反対に公立機関における教育の成果が私人である学生やその周囲の人々、将来の雇用者である私企業を益しないということはない。ことほどさように、高等教育機関の公共性と非公共性は入り乱れて明確な区分を困難にしている。世界の大学は、公私に分けられるというよりもむしろ全き公立から全き私立までのグラデーションの中に、その「私立度」ないし「公立度」によって段階的に分布していると考えた方がよいのかも知れない。
 しかし、この財政、管理、使命の三点に関して、高等教育システム全体の特性が、一般に私立機関が顕著に持つ特性へと傾斜している形跡を跡づけることすらも不可能なのかといえば、実はそうではないように思われる。
 まず、財源の問題に関しては、この10年間の大きな変化としてヨーロッパ各国の大学で、授業料無償の方針を廃し、学生から授業料を徴収するように政策が転換されてきたことに注目される。先に引用したOECDの同じ統計によれば、1997年の段階での調査の限りにおいて、授業料を徴収する機関に通う学生がいないのは、福祉国家政策で知られる北欧フィンランドとスウェーデンのわずか二国であるとされている。また同統計では、1990年から1996年までの6年間の、高等教育に対する私的財源からの資源投資と公的財源からの直接の資源投資の伸び率を各国別に提示している。これによると、たとえばオーストラリアでは私的財源が1.9倍になったのに対して公的財源の伸びは1.3倍にとどまっている。カナダでは公的財源の側には大きな変化はない一方で、私的財源は1.5倍に伸びている。翻ってヨーロッパに目を移すと、フランスやアイルランドなどで公的財源の伸びと私的財源の伸びが拮抗するいっぽう、たとえばハンガリーでは私的財源が2.4倍になったのに対して公的財源が0.6倍に減少していたり、あるいはイギリスにおいては公的財源の伸びが1.1倍であったのに対して私的財源が実に7.5倍にまでのびているという顕著な例がある。これらの私的財源の伸長は、財政面でのいわゆる私学化の傾向を示すものだと捉えてもよいのではないだろうか。
 あるいは管理の面では、地方公共団体が設備を用意して学校法人が運営するという、わが国のいわゆる「公設民営」型の大学の出現は、まずそれ自体が公から私への財の委譲というきわめて単純な「プライバタイゼーション=私事化」の過程である。かつこの公設民営大学の例からは、従来通り地方自治体が公立大学を設置して運営するよりも、わざわざ法人を別に立てて私立大学として運営する方が有利であるということを示すことによって、社会的文脈の側が私立大学を受容しやすくなっているという、いわば環境のプライバタイゼーションを暗に示唆するものであるとも考えられる。これと似た例で、従来は州立大学であった機関が私立大学として州の管理から独立した例、あるいはより大きな自律性を求めて独立を希望している例は、ほかに少なくともアメリカにも見られる。
 最後に大学の使命の点について、これまでその法政上の設置形態を問わず近代の大学が先験的に持っていると考えられてきた公共性という性格に、営利大学の成功によって疑問が投げかけられている。アルトバックはアメリカで成功している二つの営利大学を挙げて「その名になんと冠されていようとも、これらは実際には大学ではない。むしろある一定の市場に訴求するお仕着せのプログラムを用意した学位分配マシンである」と強い調子でその営為に対する疑念を呈しているが(Change: The magazine of Higher Education,November/ December 2000)、仮に、現にアクレディテーションを受けていることなどに着目してこれら営利大学を私立大学の最左翼の機関として位置づけてみると、先に述べた世界の大学の公と私のグラデーションは、大きく「私」の方向へ重心を移動させることになるだろう。大学に営利を期待することは大学の使命の私化というべきであろうし、またこれらの大学はオンラインで授業を供給するためその影響力は地理的な制約を受けないのである。これら営利大学の隆盛もまた、世界の高等教育のプライバタイゼーションを見る上での一つの、そして極めて大きな要素であろう。
 世界の高等教育機関を、その特性によって公と私に明確に分け、その比較的優勢を問うことは難しい。しかしこれら高等教育機関が、公立から私立に至るグラデーションのどこかに根を張りながら、全体としては屈光性をもつ植物のように私学の方向を指向しているということは指摘できるのではないのではないだろうか。

II . 問題提起(2) 喜多村和之
    迫られる私大の対応―強まる高等教育「私学化」の風(問題提起要旨)


 最近数年間に大学の設置形態にさまざまな変化が起こってきている。
 国立大学では行政改革の一環として「独立行政法人」なるものへの移行が目指され、文部科学省の調査検討会議で制度設計の議論が行われており、秋には中間報告が出される見込みである。国立大学内部でも賛否両論あるが、はやくも移行後をにらんで統合・合併の動きや運営のための種々の革新を計画している大学も出てきている。その議論の核心はいかにして国立大学の既得権や利点を維持しながら行政改革や世間の効率化の要求にもこたえ、かつ法人化による自律性の利点を最大限に発揮できる制度にするかにあるようだ。言い換えれば民営化の可能性を阻止しながらも一種の政府のアウトソーシングと大学へのマネジメント原理の導入を図ろうとしているともみることが出来よう。
 国立大学の独法化がおよそ民営化とはかけ離れた改変であるとしても、私大にとっては決して対岸の火事ではなく、現状の国私格差を保持しつつ、国が基本的には従来とかわらぬ国立への支援体制を変えずに私学に「自由競争」を強いる構造のもとで、いわば国営が民営を圧迫する結果になり得ることは、つとにわれわれが警告してきたところだ(2000年7月26日号以後のアルカディア学報および研究所シリーズ2号[2000年11月発行]参照)。 ところでこうした設置形態の多様化は国立大学ばかりで起きているわけではない。公立大学は国立大学に追従して法人化することになるであろうし、文部科学省以外の省庁や地方自治体が資金ないしは土地を提供し私学が経営のノウハウを提供する、いわゆる第三セクター方式や「公設民営」という名の私立大学も現れつつあり、しかも今後も増設される可能性がある。法的には私立大学であっても、財政上ないし運営上はむしろ公立大学というほうが実態に近いというものもある。
 海外に眼を向ければ、欧州諸国では国公立大学が従来の授業料無償政策から学費徴収政策へと転換する国が出てきているし、ロシア、東欧、中国などの社会主義諸国でも私立高等教育機関が生まれている。ラテンアメリカ諸国は、アジア諸国とならんで私学高等教育の占める比率が国公立部門を遙かに凌駕しつつある。とくにアジアでは、日本をはじめとして、韓国、フィリピン、台湾、香港、インドネシア、インド等で私学部門が圧倒的シェアーを占め、他方、中国、タイ、マレーシアにおいて大学の法人化が進んでいる。つまり一般的に言って、国公立部門の公費負担は限界に達し、かわって「公立の私学化」ないし私学部門の台頭、さらにいえば「公私の曖昧化」といった現象が顕著にみられるのである。
 さらに海外の遠隔教育は情報通信技術の発展に伴って量質ともに目覚しい発展ぶりを示しているが、営利事業としての高等教育も生まれている。日本では正規の大学とは認められてはいないが、たとえばアメリカのフェニックス大学はインターネットによる遠隔授業で日本からも学生を集めている。マサチューセッツ工科大学(MIT)ではその授業の内容をインターネットで世界に無料で開放する計画という。学位を取得するためには正規の学生として在籍する必要はあるが、授業を受けるのは実質的にほとんど制度的障壁なしに誰にでも可能となるのである。世界的水準の大学がこうした形で、日本をも含めた国際高等教育市場に参入してくるようになるのも時間の問題であろう。
 こうした傾向に対して、国立大学の現状維持や私学に対する優位を主張する側は、大学制度は国が全面的に支えるべきものであり、世界の高等教育は欧州をはじめ国公立が主体であると主張する。しかし同じ公立といってもアメリカの州立大学は実態としてはその財政や経営において日本の私大ときわめて近く、イギリスの大学は財政的には国立だが、制度的には私立に近い。有限な資源のもとで日本の国立大学のように税金丸抱えの大学形態はいずれの国でも維持しがたくなっているのである。
 国立大学の法人化が経営や市場を無視できなくなった一種の「私学化」への接近であるとしたら、さらに公立とも私立とも区別のつきがたい「私立大学」が出現してきたり、インターネットを武器に世界に進出しつつある遠隔高等教育の発展といった傾向はいったい何を物語っているのだろうか。すくなくともこのことは大学というものの国公私といった設置形態の区分が次第に曖昧化ないしは重複化し、そうした設置形態そのものの在り方が問われるような時代が到来することの前触れかもしれないのである。
 このような方向への流れを「私学化」(プライバタイゼーション)と名付けることが出来るとしたら、それは日本の私学高等教育にどのような影響をもたらすことになるのだろうか。それは一面で「私学の時代」の到来を意味するが、そのことが私大にとって有利な条件になるばかりとはかぎらない。
国立大学が法人化によって従来とは異なる「経営」原理を導入し、学生や資金確保の市場に積極的に乗り出してくれば、私大にとって強力な競争相手となるだろう。従来のような同一処遇で同一の法規によって統一されている国立大学においては、統合・合併は給与体系も建学の精神も異なる私学よりもはるかに迅速かつ効率的に進行する可能性がある。 日本の私学は歴史的に旧くから学校経営における経験やノウハウの蓄積を営々と重ねてきており、その点においてはは従来「親方日の丸」といわれる経営意識の希薄な国公立大学よりは遙かに経営に敏感な体質をもっていることは明らかであろう。しかし私学の場合、数年毎に職場を異動する国立大学職員とは異なって、殆どの職員は同一大学内での勤務経験しかもたず、同一大学に長く勤めていたことだけでは他の経験を持たないという欠点を補えるか否か未知数である。国立大学は容易なことでは変わらないが、いざとなると一斉に変革へと走り出すというのが、国立大学の勤務経験をもつ筆者の見解である。
 国立大学の「法人化」や「公設民営」を大学の設置形態の在り方、とりわけ国立大学はなぜ「国立」なのかということが問われるものとするのならば、それは同時に私学とはなにか、国立との違いはどこにあるのか、学校法人の在り方は現状のままでよいのか、という問いにつながる。学生が千校をこえる大学短大のなかで、人生のなかでたった一校の私学を選んで、国公立よりも高額な学費を負担して入学して来てくれるゆえんはなにか。ましてや今日は無料でいくらでも放送大学やインターネット大学から授業を聴くことができる時代においてである。
 高等教育の「私学化」の風は、私学振興をますます必要不可欠とする私学部門への順風となるのか、それとも国公私が入り乱れて大学の質と個性をめぐっての国内・国際間の大学競争時代に導くことになるのだろうか。


III . まとめ 沖 清豪
    私学化と私立大学 ―第5回公開研究会の議論から


 去る5月9日、当研究所主催の第5回公開研究会が、「世界の私学化の潮流と日本の私立大学」と題して開催され、森 利枝研究員(大学評価・学位授与機構助教授)と喜多村和之主幹(早稲田大学客員教授)による報告と、それを踏まえての多様な質疑応答が行われた。本稿では両報告の要約とその後の質疑について概略を紹介し、若干のコメントを述べさせていただきたい。
 森研究員の報告は「世界の高等教育の私学化の展望」と題して、高等教育機関における公立機関と私立機関の違いが実は明確ではないこと、機関の財源、機関の管理経営形態、機関の有する使命といった基準によって公立と私立とを区別しようとしても実際には多様な条件が問題になって峻別不可能なこと、最終的には「私立と呼ばれる機関」「自らを私立機関と同定した機関」が私立であることなどが紹介された。
 一方、喜多村主幹は「私学化」(プライバタイゼーション)の世界的な傾向について説明し、第一に国立・公立教育機関において多くの場合保持されてきた公費負担の原則が、各国で受益者負担の原則やその他の新たな原理へと転換される傾向がみられること、第二に国立・公立教育機関における経営の改善を図るために市場原理の導入や新たな制度改革、公教育制度の変革が迫られていること、第三に例えば公設民営方式などの導入によって、従来の設置者別の設置形態の類型が不明確になってきていること、第四に公的教育機能の代替物としての私立学校が勃興しつつあること、そして第五にIT化の進展によって学習機会が多様化するに伴い、従来の非営利型機関だけでなく、営利型とも言いうる機関が高等教育に参入する構えを見せていること、などが指摘された。
 以上のような報告を踏まえて質疑応答が行われた。ここでは私が特に注目した質疑について紹介したい。
 まず報告の内容と直接関係する質問として、プライバタイゼーションを私学化とみなすことに関しての質疑応答がいくつか行われた。例えば、報告された内容をすべてプライバタイゼーションとしてまとめることは違和感があって、現在進行しているのは行政機構としての大学の崩壊とみなすべきではないのかという質問に対して、喜多村主幹からはプライバタイゼーションという用語は一般的に市場主義やコンシューマリズムの導入を意味するものであり、私学化に限定することに対して違和感があることも確かであるが、私立化という発想を導入することで、国立大学こそ高等教育の主体であるという国立大学や文部科学省の主張が実質的に崩れていることを指摘できるのではないかとの説明がなされた。 またIT化との関連では、競争的な国際社会の中での公共性(パブリック)をどのように保持していくべきなのか、高等教育におけるIT化を進めるにあたってはアメリカ以外の諸国では経済的な面からみて国による保護が必要なのではないか、といった疑義が出されたが、喜多村主幹は、従来のメディア活用型の高等教育と比較して、IT化は必要とされる費用が格段に少ない点を挙げ、さらにIT化が高等教育の内実を変革してしまい、公でも私でもない形態の教育機会・機関が増加するのではないかと予測した。
 その他、私学化が進行するなかで国立・私立といった区別がもはや有効ではなく、設置形態別の分類そのものが現状に即しておらず、教育法制の面で公私の区別を中心に再検討が必要であること、そして変わるべき大学の分類の研究が必要不可欠であることが指摘された。喜多村主幹からは、設置形態の多様化が進行するにつれて、設置基準が現状に合わなくなっていること、私学が果たしてきた役割が正当に認められていないことへの異議申し立てが必要であること、現在の変革状況において、教育基本法や設置者負担主義について教育法学者を中心に研究が深められるべきであるとの指摘がなされた。
 最後に研究会での議論を踏まえて、今後「私学化」に関して問題となると思われる点を紹介したい。
 第一に、私立大学の内部での「私学化」がどこまで進展するかについて考えなければならない。私立大学内の民営化、すなわち事務の民間委託については、すでに一部で検討がはじめられたと報道されている。おそらくこうしたアウトソーシングも今後本格的に検討されることになる。これは単に大学事務に関する課題だけではなく、将来的には教育・授業面においても多様な形態でのアウトソーシングの可能性がある。事実遠隔教育を全国の大学で共同実施する事例や、全国的な規模で単位互換制度を導入する事例など、すでに従来の授業形態からは想定しえない事例が常態化してきている。こうした動向は基本的に大学財務の緊縮化との関連で検討されることが多くなっており、全国的な財政緊縮化の中で大学のサービス機能をどのように維持していくかが、様々な側面から検討されなければならないだろう。
 第二に、公と私との関係に関する理論の再構築が緊急に必要であろう。国立大学の独立行政法人化に関する議論は、研究会においても喜多村主幹から指摘があったとおり、現時点では国立機関の枠を超えるものにはなっていない。しかし将来的には国立大学の民営化もないとはいえない。こうした状況の中で、現在の国立大学がどのように改革されたとしても、私立大学が不利な条件を課されることのないよう、常に国立大学の改革状況を把握しておく必要があるだろう。場合によっては、国立大学が民営化された場合に旧国立大学と従来から私立であった大学とが平等な環境のもとで学生募集や研究活動の競争を実施できるような制度・条件について、具体的に検討しておく必要がある。
 第三に、日本における私立化を検討するためには、実は国立大学に関して更なる検討が必要なのではないかと思われる。研究会での森研究員の報告の背後にはナショナル(国立)ユニバーシティとは何か、パブリック(公立)ユニバーシティと何が異なるのか、という問題が意識され、その対概念としてプライベートを位置付けるという試みがあるように感じられた。例えば英国の諸大学をOECDの分類のように私立大学とみるべきか、あるいは大学運営資金の多くが公的資金に依存していることをもって「公立大学」と位置付けるかという問題も、実際には「公立大学」と「国立大学」なるものの区別を無視することはできない。ナショナルという概念とパブリックという概念の区別について、さらに丁寧な検討が必要であるように感じられた。ちなみに英国で「唯一」の私立大学とされているバッキンガム大学は、自らを大学運営に関して直接的に公的資金を受け取っていないという意味で「独立(インディペンデント)」大学と呼んでいる。こうした事例をみると、プライベートとは何かという確認も改めて必要なのかもしれない。
 最後の論点として、大学のアカウンタビリティ観の変化を指摘しておきたい。私学化が進行した場合、大学は誰に対して何についてアカウンタビリティを負うことになるのであろうか。ここでアカウンタビリティとは求められた成果を出し、その成果について説明する責任を意味する。この考え方は単純化すれば、大学は資金の提供元(通常中央政府あるいは学生)に対して、その提供された資金に応じて何らかの成果を出す責任を果たさなければならないという発想である。私学化がさらに進行していくなかで、個々の大学は誰に対して責任を負っているのか、その責任はどのように果たすことが可能であるのか、改めて検証する必要を強く意識させられた研究会であった

*** 「公開研究会講演録及び関連資料」部分は割愛しました。 ***