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研究成果等の刊行

No.2(2000.11)

「最近の高等教育政策と私学」 ―私学の立場からみた「独立行政法人化」と「第三者評価機関」

問題提起者:喜多村 和之、濱名 篤

I . はじめに 私学高等教育研究所 主幹 喜多村 和之

 最近数ヶ月の間に、文部省は矢継ぎ早に、今後の私学にも重大な影響を及ぼすと思われるような政策を具体化しています。文部省は平成12年5月に国立大学の独法化を推進する方針を確認し、本年4月から設置された第三者評価機関「大学評価・学位授与機構」は、当面国立大学の評価事業の準備に着手しています。これまでこの問題は国立大学固有の問題として、殆ど国立関係者の間だけで議論され、私学は蚊帳の外に置かれている観がありますが、果たして私学には無関係なものなのでしょうか。これらの動きが日本の高等教育全体に、ひいては私学にどのようなかかわりが出てくるのか、これに対して私学はどのように対応すべきなのでしょうか。
 このような趣旨のもと、平成12年8月2日にアルカディア市ヶ谷(私学会館)において開催された当研究所主催の第1回公開研究会には、私学関係者のみならず国立大学や大学評価関係者など90名を超える方々のご参加を得て、2時間30分にわたり、熱心に、また率直かつ闊達な議論が行われました。この報告書は、第1回公開研究会においての発表、討論、問題点等を記録としてまとめたものです。私学関係者がこの問題を考えるうえでの参考にしていただければ幸いに存じます。

II . 問題提起(1) 喜多村 和之

1.国立大学の独法化と私学


 このほど文部省は、国立大学の「独立行政法人」を推進する方向を確定するとともに、いち早く7月19日には法人化後の制度設計を図るための総勢60人余の委員から成る「調査検討会議」を設置した。同時にこの4月から発足した「大学評価・学位授与機構」は、法人化後必須となる大学評価を担当する、前者とペアとなる第三者評価機関である。これによって政府が推進する国立大学に対する二つの政策は骨格を整えたことになる。こうした動きは私学には関係のない、「国立大学」という「コップの中の嵐」にすぎないのか。それとも従来の文部省の「設置者行政」の基本的見直しや、国公私の大学の法的地位や設置形態の変革にまで及ぶ可能性のあるものなのか、あるいは実質的には国立大学の存在根拠を維持し保護するための行革対策にすぎないのか、その行方を見極める必要がある。
 文部省は平成12年9月に、「国立大学の独立行政法人化に関する調査検討会議」を設置したが、「調査検討会議」の目的は、「独立行政法人制度の下で、大学等の特性に配慮しつつ、国立大学等を独立行政法人化する場合の法令面や運営面での対応など制度の具体的な内容について、国立大学関係者のほか、公私立大学、経済界、言論界等の有識者の協力を得て、必要な調査検討を行う」とされている。ここに公立私立の関係者も含まれているところをみると、文部省はこの問題を国立大学だけでなく、高等教育全体に波及し得る性格のものとみなしているか、すくなくとも公・私立大学関係者からの合意を得たという形のもとで推進しようとしていることが推察される。
 去る平成12年5月26日に開催された国立大学学長等に対する文部大臣説明会では、国立大学が独立行政法人に移行した場合には、大学の自主性、自律性が大幅に拡大され、独立採算制ではなく、移行前の公費投入額を十分に踏まえて、「使途を特定されない運営交付金等を受ける」とされている。また国からの運営交付金の年度間の予算の繰り越し、教育研究組織の編成や教職員の配置等の柔軟化なども可能になるという。
 これだけみると国立大学は良いことづくめで、なぜ国立大学関係者が反対するのか理解しがたいくらいである。カネは国が保証し、自由度はひろまり、柔軟な運営も大学の力量次第でできるようになるという。はたしてその通りにいくかどうかという問題があるが、これとは別にして、ここではこれから調査検討会議で是非検討し、明らかにしてもらいたい点だけをとりあえず指摘しておきたい。
 まず第一に、文部省は国立大学関係者に向かってだけでなく、国民、とりわけ納税者や私学に子どもを送っている保護者に対してもわかりやすく説明をすべきではないか。国民の税金でまかなわれている国立大学は、独立行政法人化されることによって、例えば機能や資金がどれだけ有効利用できることになるのか、国立大学の従来の財産は誰に帰属するものとなり、財産を管理する主体はどこになるのか、国立大学の教職員の身分はかわるのか、それとも実質的には公務員のままなのか、そのことによって国全体の高等教育、とりわけ私学にどのような影響が及ぶことになるのか、もし影響が出るとすれば文部省はそれに対してどういう措置を考えているのか、そもそも政府はこれによって従来の高等教育政策や設置者行政を再検討するつもりがあるのか、といった基本問題を国民の前に明らかにすべきではないか。
 ところが以上のような肝心な基本問題について、これまでほとんどはっきりしないので、独法化の是非について国民としては判断のしようがないのではなかろうか。国立大学の関係者だけ集めて、独立行政法人化の利点を強調するだけでは、国民にこの問題への理解や協力を求めることはできまい。国立大学は文部省の専有物でもなければ国立大学関係者だけのものではない。税金を支払っている国民全体のものなのである。国立大学の法人化問題は、ある意味で国立の「私学化」という側面をもち、実質的には国立大学が私立大学の地位や設置形態に近くなるということでもあるので、私学にとって対岸の火事ではなく、学生確保や研究資金の獲得競争などの面で大きな影響を受けることは大いにあり得る。現に一部の報道によれば、或る地方国立大学の学長は、独法化されれば経営の安定のために学生定員の拡大を図る必要があり、そのためにはまず同一地域の私学の学生市場をターゲットにして生き残りを図るといった発言まで出ているという。したがって国立大学の法人化に対して私学がどう対応すべきかは、いまから検討しておかなければならない緊急の課題である。
 同時に国立大学が法人化されるならば、次には現行の学校法人の在り方も従来通りでよいのか、さらには、現行の私学経常費助成の方式の適否も再検討の対象になり得るのではないか。私学助成を含めた国の私学政策はどうあるべきか、さらには国・公・私という現行の制度区分や設置者の違いによる高等教育行政の在り方もこのままでよいのか、といった根本問題も、再検討の視野に入ってくることになり得るだろう。インターネットの普及、バーチャルユニバーシティの設置、公設民営などの新しい設置形態の高等教育機関の発生は、早晩こうした問題を顕在化させるかもしれない。
 繰り返して言うが、文部省は国立大学だけの行政機関ではなく、日本の教育全体の行政に責任を有するものである。そうならば国立大学の独法化が日本の公私立の高等教育全体にどのような影響をもつのか、日本の高等教育の全体的な発展と質的向上にとってどんな意味をもつのかについて、長期的かつ全体的な見識を示してくれることを、是非とも検討会議に期待したい。

2.第三者評価への私学対応

 平成12年4月には第三者大学評価機関として、「大学評価・学位授与機構」が設置された。国立大学が独法化されれば、その他の独法化に移行した機関と同様に、3~5年ごとに行政の評価を受けることが義務づけられている。これまで大学は自らが自律的に行う「自己点検・評価」を主体とした路線できたのだが、その実績に対する消極的評価と大学の自己改革能力への不信から、客観的で「透明」性の高い第三者評価機関が必要とされるようになったのではないか。
 この第三者評価機関は当面は国立大学を評価の対象とするが、設置者の判断によっては公私立大学もこの機関の評価を受けることができるとされている。そもそもこうした国の機関がつくられたのは、国・公・私の高等教育機関全体の評価を目的としていたからであろう。しかしすでに私大関係団体は、国の機関が評価に介入することには原則的に反対ないし警戒の意向を表明しているので、「当面の間」は国立大学を対象とするとされているわけである。
 ただし、私学が国の機関による評価を拒否したとしても、私学も年間約3,000億円程度の国庫助成を受けており、税金を負担している国民に対して説明責任の責務を免れることができないのは、学費を支払っている学生、保護者に対する教育責任の説明義務があるのと同様である。同時に病院や銀行等の場合もそうであるように、今日では評価の客観性、公正性を担保するためには、第三者評価が不可欠だという考えがしだいに広まってきている。学校や大学という、これまで客観的な評価になじまないとされてきた分野もその例外ではなくなってきている。
 まだ公式に表明されてはいないが、第三者評価機関が国の資源(人的・物的予算)の効果的配分や確保を目的として設置されたとすれば、その評価結果によって国立大学の予算額や私立大学への助成額が決定されるようになることは、十分考えられることである。
 したがって私学としてはこのような形の国の第三者機関の評価を受けるのか、あるいはこれにかわって社会に信頼されるに足る評価システムをみずから開発し実施するのか、いずれかの選択に迫られることになろう。
 これからはあらゆる政策や行政が評価の対象とされ、その結果に基づいて予算や資源の配分や優先順位が決定されることが多くなることは避けられないと考えられる。国立大学に限らず、国の補助金や助成を受けている私学も、その例外ではなくなると予想される。例えば私学経常費助成を受けることによってどんな効果があがったのかを評価分析し、今後の私学助成の指針とするための「政策評価」も導入される可能性があろう。こうした状況のもとで私学はどう評価の問題に立ち向かうべきなのか。すなわち大学の質の評価を行い、これによって資源配分を行うという、ふたつの権力を備えた強力な国の機関の評価に、私立大学も組み込まれてよいのだろうか。私学関係者の見識がいま、問われている。

3.病院評価と大学評価-本格的な評価の時代の幕開け

 教育と医療は互いに似た機能をもつ。医療は患者の病気を癒し、健康を取り戻すことを、教育はひとの学習を助け、獲得した知識や技術を活用することを目的とするサービスを提供する。
 ところで、医療と教育の共通点のひとつは、サービスの供給側が需要側よりもはるかに多くの情報をもっているということである。いいかえれば患者は病院や医師の医療サービスの内容や質について、十分な情報を持ち合わせないことが普通だし、学生も入学以前に学校の内容や教師の質について、よくわかった上で入学しているとは限らない(こうした状況を「情報の非対称性」という)。そこで患者や学生は病院や学校選びに評判とかブランドだとかランキングといったものに頼ることになりがちだ。しかしそうした漠然とした尺度だけで、自分の一生や生命にかかわる選択を全面的に預けてしまうことは危険かつ不利益を被る恐れがあろう。
 というのは、病院も学校も、一定期間通院なり通学なりしてみないと、サービスの内容はわからず、仮にわかったときにはもう取り返しがつかなくなっているという厄介な性格をもっている。最近よく起こる医療過誤で命を落としてからでは間に合わないし、卒業しても就職口がないような大学だったからといって怒っても、4年間もの貴重な時間はもはや戻ってはこない。アメリカには入学時に契約した教育責任を果たさなかったことが証明された場合には、徴収した学費を払い戻したり、無料で教育をやり直す大学があるそうだ。日本のようにいったん入学した学校からヨコに転校しにくい社会では、病院を転院する場合も同じだが、最初の選択がきわめて重要になってくる。
 最近、医療ミスや病院の質の管理の杜撰さが、しばしば問題にされている。ただ有名病院だから、名医がいるからといった尺度だけでは、本当に信頼できる病院かどうかわからない。そこで厚生省では頻発する医療事故防止のため、事故事例の情報収集や分析にあたる第三者機関をつくって、医療機関からの報告を求め、事故対策に乗り出そうとしているという(『日本経済新聞』2000年4月26日付)。アメリカでは、こうした病院の質を評価するという慣行や制度は既に50年余の歴史をもち、医療機能の改善やミスの防止に大いに役立っているという。

4.医療分野の第三者評価

 元オクラホマ大学教授の中野次郎氏によれば、米国のすべての総合病院は、民間財団の米国医療機関認定合同委員会から3年ごとに全機能の厳格な審査を受け、欠陥を是正しないと認定されず、経営破綻に陥るという。さらに連邦医療財政庁は毎年州衛生局に委託して抜き打ち的にすべての総合病院を検閲する権限が与えられており、この2つの医療評価機構から認定されなかった病院は、政府および民間の保険機構からの支払いを停止されるそうである。しかもこうした評価や報告は情報公開され、病院や医師のデータはインターネットでアクセスできるので、患者の病院選定に大きく貢献しているということである(『朝日新聞』2000年7月12日付)。
 日本でもこれにならって日本医療機能評価機構という第三者評価機関が、厚生省や日本医師会が出資して、すでに約15年も前から企画され、1995年に設立された。ところが、すでに5年を経たが、全国9,400余の病院のうちで、認定作業を終えたのは4%弱の349病院にとどまり、評価を受けようとする病院も思うようには増えないという。しかも認定の報告を受け取っている病院ですらその「病院通信簿」を公表しているところは少なく、7割が非公開だと報道されている(『朝日新聞』2000年7月26日付)。認定を受けようとする「奇特」な病院でも評価結果の公開には消極的だとすれば、患者の病院選びのための情報公開はまだ道遠しの感は否めない。

5.教育分野の第三者評価

 教育の場合はどうだろう。アメリカでは、医療と同じように、とくに生徒、学生、保護者に対して学校や大学の質を保証するために、教育機関、とくに高校と大学は自分たちで基準協会をつくり、セルフスタディと呼ぶ自己点検と外部者だけで構成する外部評価との組み合わせ方式で一定の質を保証しようとしてきた。これはアクレディテーションと呼ばれ、この認定を得られなかった学校は公的資金援助や社会的信用を失って、経営破綻に陥ることは病院の場合と同じである。
 日本では当初このアクレディテイション方式を取り入れて、大学の自律的な「自己点検・評価」による自己改革と質の保証への努力に期待されたのだが、今日ではこうした大学の自己努力路線に対する不信が高まり、客観的な評価基準による第三者評価と、資源配分の合理化を意図する「大学評価・学位授与機構」設置に至ったことはすでに指摘したところである。
 ところで、医療機能評価機構がせっかく5年前につくられたのに、認定を受けようとする病院もなかなか増えず、医療過誤や事故はいっこうに後を絶たない。それは認定を受けるのは希望制で、認定されてもされなくても病院の収益に関係ないので、ほとんどの病院が評価を受けないからだという。前出の中野次郎氏は、日本の審査評価査定があまりにも甘く、医師・看護婦の質の評価制度を強化し、認定病院と医師のデータベースを早急に作成公表しなければ、医療ミスは頻発し患者が安心して病院選びすることはできないと訴えている。
 大学評価の第三者機関は、医療機能評価機構のように財団法人ではなく国の機関であり、認定を受けるのも希望制ではなく、少なくとも現在は99校の全国立大学は「強制的に」評価の対象にされているから、大学側の都合で受けないというわけにはいかないことになっているようだ。したがって医療の場合のように、「奇特」な病院だけしか参加しないという生やさしいものではなさそうである。
  筆者の知る限りでは、国立大学側からはこの第三者評価に対する強力な反対運動はおきていないようだから、近く全国一律的に「透明性」のある「多元的」評価の基準や方法が打ち出され(既にその骨子は公表されている)、これによって全国99校の全国立大学の教育研究や社会的サービス等が客観的に評価の対象にされることになる。そしてその評価結果ないし評価情報は国民に「公開」されることになり、その評価の実績に基づいて予算額も決まることになると思われる。法律は大学すべてに適用されることになっているから公立大学も私立大学も「設置者の判断によって」当然評価の対象となり得ることも、すでに指摘したとおりである。
 政府の意図は公・私立大学にも当然第三者評価に参加させることであろう。国立大学の独立行政法人化のための制度設計に公私立大学関係者の参加を求めているように、第三者評価機関の運営にも公私立大学関係者の参加を求めてくる公算が高い。いよいよ全高等教育機関の質を国が基準を示し、国が評定しその「質」を公開する、本格的な大学評価の時代の幕開けである。

III . 問題提起(2) 濱名 篤

1.私立大学の立場からみた国立大の独法化問題


 いわゆる"独立行政法人化"問題を、国立大学だけの問題だけでなく高等教育全体の問題としてとらえ、特に私立大学の視点を交えて考えると、大きく分けて3つの観点から違和感を感じざるを得ない。
 第1に、高等教育に対する"公的資源貧困"問題と"独立行政法人化"議論との混同の危険性である。
 我が国における高等教育に対する公的投資の貧困さは、国立・私立共通の根本問題であり、市場原理の適用が資源の貧困さをカバーするかの風潮(多少の活性化効果は期待できるとしても)には疑問を感じざるを得ない。民間からの寄付金促進も含め、国立・私立の利害は原則的には対立しないともいえる。
 従って、この"独立行政法人"の議論によって主要先進国の中で最低水準の高等教育投資の問題性が、"効率化"や"市場原理"の主張によって隠蔽されるのが最悪の事態である。
 第2に、資金管理と定員管理の観点からみた国立―私立格差を無視した"市場原理"の競争相手として比較されることの妥当性についての疑問である。
 国が設置者として設置者行政によるコントロールを行おうとする国立大学に対し、私立大学も政府によるコントロールを大きく2つの側面で受けている。ひとつは『資金管理』である。私学助成の補助金によるコントロールであり、より多くの補助金を受給しようとすれば文部省の方針に即した運営が不可避となる。もうひとつは『定員管理』である。定員についての許認可(主に大学・学部・学科等の新増設)に関わるコントロールである。従って、私立大学は『資金管理』と『定員管理』によって文部省のコントロールを受けている。
 国立大学が仮に独立行政法人になったとしても、"市場原理"によって私立大学と公正な競争が成立するかのような錯覚があるのではないだろうか。
 しかし現実には、『資金管理』における「学納金格差(採算主義と非採算主義)」や『定員管理』に関する「計画性と自立型財務体質の有無」において国立―私立の懸隔は大きく、到底公正な競争が成立する構造にはない。
 国立と私立の学納金の格差は、保護者・学生の費用負担の公平性から考えても問題である。さらに私学の立場からすれば、"市場原理"が"教育の質"に基づいて公正に機能するとは無条件には考えられないであろう。現状では、国立―私立の専任教員1人当たりの学生数や授業規模(1クラスの受講者数)も全く異なり国立の方が条件が良好であるが、学納金では逆に国立の方が低廉である。国立大学関係者の一部には「国立の方が『優れた教育』『優れた研究』を提供できる」とある意味で傲慢な主張もみられる。私学と同じ教育・研究条件ならばそう言われても仕方がないが、国立では必ずしも要求されない(文部省が予算を認めるか否かより重要)という違いは決定的である。こうした教育・研究環境条件の違いをコントロールしてなお"優れた"などといえるのかということに疑問が残る。
 計画性と自立型財務体質の有無についての違いはより大きな違和感の源泉となる。私立大学では、学部増以上の新増設を行うために「標準設置経費」に基づく「設置経費」を申請前に無借金で準備することが必要条件となる。収益事業収入や寄付金収入を除けば、既設大学・学部の学納金収入の15%を上限に設置経費の積み立てをしなければ(学科改組などを除き)リストラクチャリングさえできない。従って、校地・校舎の再取得準備や新増設のための基本金積立を計画的に行わざるを得ない。国立という設置形態ではもとより、"独立行政法人"になったとしても、こうした計画性や自立型財務体質は要求されないようである。しかし、こうした差異が解消されない限り、私学との公正な競争とはなり得ない。"減価償却"や"施設設備の再取得"という観点のない国公立大学や公設民営大学が、私立大学と同次元で「公正な競争をしている」と思うとすれば"錯覚"であろう。
 私立大学自体の"減価償却"だけでは"再取得"は不可能であり、2号基本金組入れによる補完が不可欠(これが定員制により今まで通りに行うことが困難になっていく)であるが、"予算がつけば"あるいは"設置者である国の政策に適合すれば"「解決できる」と信じている"独立行政法人"では、"公正な競争相手"になるわけではなく、むしろ"公的資源配分"や"民間資源による研究・教育資金"の獲得上、私学の強力な"利害対立者"となる可能性が大である。
 第3に、この一連の議論が教育問題というよりも、当事者の関心が"既得権保持"をめぐるものに集中しがちであることである。
 人事(学長の学内選抜を含む)や予算(支出使途の自由度:「渡しきり交付金」型)を国立大学内の自己責任で決定したいというオートノミーについての主張は十分理解できる。しかし、財政的自立を別問題にしての自律性とは可能なのか。収支均衡を不問にするならば、国立大学を学術研究中心の大学院大学化すれば良いという方向性も出てこようが、現実には国立大学の統合・合併の計画話は出てくるが、定員削減を伴うであろう大学院大学化の主張はほとんどみられない。
 結局、一連の動きは政府、政党、国立大学の既得権・ヘゲモニーの保持・剥奪をめぐる政治問題・労働問題になっているのかもしれない。
 最後に、"国立大学の独立行政法人化問題"を端緒として、ユニバーサル段階における私立大学の設置形態について再考すべき問題点が明らかになってきた。項目を挙げると、(1)高等教育への公的投資の配分の見直し(大学改革のインセンティブとしての配分、定量的尺度一辺倒から定性的尺度導入の必要性)、(2)民間(企業・個人)からの資金提供を容易にする制度的工夫の必要性、(3)資金管理と定員管理が連動した「設置経費」制度の再検討、(4)重い経営責任にふさわしい経営者の選任・処遇の再検討、(5)公的資源の配分を左右する第三者評価の在り方である。こうした問題点の解決が今後の私学にとってより重要になってこよう。

IV. 第1回公開研究会の討論から  喜多村 和之

最近の高等教育政策と私学


 この数カ月の間に高等教育関係の報告、審議会等の答申、法令の成立と新機関や制度の発足など、めまぐるしい動きがある。私学高等教育研究所では第1回の公開研究会のテーマとして、国立大学の法人化問題と第三者評価機関の創設を取り上げた。
  国立大学の法人化問題に関しては、すでに国立大学や高等教育関係団体で研究会がしばしば行われている。しかし、この問題は国立大学だけの問題と理解されているためか、私学関係者の関心はかならずしも高くないようである。第三者評価機関については、法人化問題以上に関心が低いようで、評価の対象とされている国立大学関係者からも賛否の議論が活発でないようである。
 研究所がこの問題をテ-マに選んだのは、(1)国立大学の独法化は、国立だけのコップのなかの嵐にとどまらず、今後の高等教育政策や私学経営にも重大な影響を及ぼすものではないか?(2)独法化問題と第三者評価機関の創設はペアの関係にあり、現在は「当面の間」国立大学のみを評価の対象としているが、将来的には公・私立大学をも評価の対象とすることを意図しているものであり、私学にとっても重要な影響を及ぼすのではないか、という2つの疑問からである。
 次いで濱名 篤関西国際大学教授(当研究所研究員)が、「私立大学の立場からみた"国立大学の独立行政法人"問題」と題して、この問題がさまざまな形をとって私学の経営や教学に及ぼす問題点について指摘した。
 このテーマをめぐっては、第三者評価の受け取り方、国の機関が評価による資源配分を行うことの是非、大学評価・学位授与機構の性格の理解の仕方等をめぐって、さらには独立行政法人化後の私学経営の在り方や高等教育全体への影響の有無等々について、活発かつ激しい議論の応酬があった。

国立大学の「独法化」は私立に何をもたらすか

 問題提起者の側は、国立大学の法人化問題は、決して国立大学だけのコップのなかの嵐にとどまるのではなく、私学にも大きな影響を及ぼすこと、それにもかかわらず、そのことについては多くが不明確なままに制度化が進められていること、このままでいけば高等教育に対する公的資源の貧困さを、あたかも効率化や市場原理の適用によって隠蔽されることになりかねないこと、現在のスタートラインからの国公私格差を前提としたままでの競争原理の導入は公正な競争に成り得ないなどの問題点を強調した。
 とくに、国立大学とはそもそも誰のものなのか、決して文部省や国立大学関係者だけのものではなく、税金を払っている国民のものであることを主張した。したがって国立大学の財産等は独法化後誰に所属することになるのか、独法化が或る意味で「私学化」であるとすれば、種教職員の身分はどう変わるのか、文部省の従来の設置者行政にどのような変化をもたらすのか、さらには私立大学の経営や学校法人の在り方にどのような影響を及ぼすのか、といった問題も提起された。
 独法化の問題に対しては参加者の側の関心は必ずしも高くはなかったように思われる。
 おそらく独法化ということの意味やそれによってどんな変化がおこるかについて、必ずしもはっきりしたイメージや理解がまだ得られていないからではないか。それはこれまでこの問題では文部省は国立大学関係者にのみ語りかけ、議論も国立大関係者の間だけで議論され、私学関係者は蚊帳の外におかれてきたこともひとつの原因であろう。ようやく最近になって文部省が独立行政法人化の問題を検討する会議を設置して、私学関係者も委員に加えた形で審議をはじめている。せっかく審議するのならば、国立大学の独法化は私学に対して、ひいては日本の高等教育の在り方に、とりわけ制度や財政にどのような意味をもつのかという、基本的な問いにかかわるような本格的な審議の場にしてもらいたいものである。
 ただ独法化された場合にこれまで経営というセンスも経験もない、違ったカルチャーの国立大学に経営者がいったい出てくるのか、またこれまで右肩あがりで来て経営センスなしでもやって来られた私立大学でも、これからは本当の意味での経営責任が問われるが、それに耐えうる経営者をえられるのか、という問いかけがあった。まさにこれこそ国立とともに私立が当面するもっとも緊急な課題であろう。いずれにしても国立であれ私立であれ、これからは専門知識や経験、何よりも高等教育に見識をもった経営者や管理者の人材を焦眉の急としていることにかわりはない。
 また法人化後の教職員の身分が公務員型になるのか否か、大学間の給与格差の問題はどうなるのか、といった人事の問題も提起された。独法化後給与水準や学生定員、さらには学生納付金等も各大学で決められるようになるとしたら、教職員のスカウトや人事交流の面でも、学生募集や研究費の確保の面でも国公立私立間の競争が激化する可能性があろう。しかし独法化によって国立大学には自主性が強化されるという議論がさかんに行われているが、その自主性の中身は十分に議論されていないという指摘もあり、この点は現在も不明確なままである。独法化は国立だけの問題と対岸の火事とみている私学関係者が少なくないとは、この問題を取材しているベテラン新聞記者の言である。

第三者評価機関の発足と私学

 「独法化」の問題に対してよりは、むしろ第三者評価の問題の方が、参加者の活発な議論を引き起こした。問題提起者の側としては、「第三者評価機関」の成立は「独法化」に不可欠なペアの機関であること、大学の質の評価を国の機関に委ねることは、これまで大学が行ってきた自己点検評価路線の否定ないし敗北を意味するものであり、国立大学はともかくとしても、すべての私立大学にまで国の評価を及ぼすのは私学の自律性を否定し、高等教育の多様性を損なう危険もあり、私学としては慎重に対応すべきだという指摘を行った。
 こうした見解に対して、第三者機関が大学を評価することは必ずしも大学の自律性の敗北ではなく、とりあえず国立大学の評価のやり方を見てからこれを改善し、私学にも適用してみたらよいのではないかという意見が私学関係者からも出た。
 また、公的資金をもらう以上は国の第三者評価を受けるのは当然であり、なぜ反対するのかわからないという意見も出された。さらに、国の評価機関にかわって私学が同じような評価を行うのはコストからいっても大変だから、むしろ私学の評価方式を第三者評価機関に反映させる方が得策ではないか、という意見もあった。
 私立大学といえども、公的補助を受けている以上は評価を受けるのは当然である。しかし、評価機関が国の機関であることには必然性はない。多様な高等教育機関から成る日本の高等教育が、国の唯一の評価機関によって一律的に評価の対象にされるとき、果たして「個性輝く大学」ではなく「画一化された大学」にされてしまう危険はないのか、そのことを問題提起しているのである。しかしながら、参加者には、必ずしもそうした意味での受け取り方や危機意識は強くないように見受けられた。
 ただ、もし独法化した場合の国立大学の自主性を学校法人と同じように考えるのであれば、学校法人になればいいのであって、国立である意味はなく、独法化しても私学と国立大学とはまったく違うのであり、違うのであれば評価の仕方も違うはずであり、私学が国の第三者評価の対象になることはおかしい、という意見も表明された。
 いずれにしても独法化と評価とは相互に切り離せない問題であり、今後も引き続き賛否両論が戦わされる争点であろう。
 独法化も評価も大学と国家との基本的な関係にかかわる、すぐれて古くて新しい課題である。
 現状維持を主張してきた国立大学はようやく政府の意向を受け入れて、しぶしぶ独法化を受け入れ、第三者評価機関の成立には強い反対もなく、関心も薄いようだ。
 私学の方も独法化は私学には関係がないとし、国が私学の質の評価にまで関与してくる可能性にも、ほとんど危機意識も持たないようだ。諸外国の大学と比べると、日本の大学は国立も私立もいかに国や政府に対する警戒心が弱いかに、いまさらのごとく考えさせられた。

*** 「公開研究会関連資料」部分は割愛しました。 ***