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愛知学院大学
  小出有三と学院本館

 名古屋市内にある(学)愛知学院本部は、1928年に建設され、現在文化庁より「貴重な国民的財産」として登録有形文化財に指定されている。その中央にあるのは愛知学院大学創設者・初代愛知学院長小出有三の銅像である。
 戦前の旧制中学から戦後県内でもっとも早く短大、大学へと高等教育に進出し、以来中部の私大、短大の協会のリーダーとして活躍し、今日の愛知学院へ発展させた大功労者である。また、戦後に6年制医歯系大学のトップをきって、中部地区最初の歯学部を設置した功績も大きい。
 1963年に、小出有三が70歳を迎えた時、学院の父兄会、同窓会、教職員全体から古稀のお祝として寄贈された。作者は日展審査員藤鎮夫先生である。小出有三は当時、文部省の私大審議会委員、私大協会常務理事・中部支部長等、私学関係の役職を多く兼務しており、銅像除幕式で「70歳にしては古来稀にみる青年である」と豪語した逸話が残っている。
 学院本館と共に、愛知学院のシンボルとなっている。

北星学園大学
  サラ・スミスとライラック

 毎年、そのやさしい色彩と甘い香りで北国に初夏の訪れを告げるライラックは、北星学園の創設者であるサラ・C・スミスが1890年に故郷アメリカのエルマイラから札幌に持ち込んだのが最初であると言われている。その後、市内に広がり、1960年には市民の投票によって「札幌の木」に選ばれた。
 スミスが持ち込んだライラックは一時、学園から失われてしまったが、母樹は北海道大学付属植物園に受け継がれており、1994年にはその一部が札幌市中央区南四条校地(北星学園女子中学・高等学校)に分譲移植され、現在では「校花」となっている。また、大学・短期大学部の所在する大谷地校地にもライラックが植えられている。
 今年はライラックが札幌に持ち込まれて120年目を迎える。

北陸学院大学
  メリー・ヘッセルと鐘

【メリー・ヘッセル】
 (学)北陸学院は1885年、金沢女学校としてスタートした。
 当時は、女子の学校は小学校教員養成の師範学校しかなく、女性の地位向上は考えられていない。そんな時代に、石川県中学師範学校の英語教師だったトマス・ウィン宣教師は、日本での女子教育の重要性を強く意識し、アメリカから女性宣教師を招聘。
 こうして来日したのが、創設者であるメリー・K・ヘッセル女史である。彼女を中心に、金沢でキリスト教の精神に基づく女子教育が始まった。それ以来、同学では120年以上にわたってキリスト教教育に基づく教育方針を掲げ実践している。

 【鐘】
 1885年9月9日午後3時過ぎ。開校式で鳴らされた鐘は、現在も北陸学院大学ヘッセル記念図書館に健在で、学院創立125周年に向けた新時代を見つめ続けている。
 同大は、「人をつくる大学」として人間教育を守り続けている。

大東文化大学
  平沼騏一郎と大東文化学院

 (学)大東文化学園の源流は、1923年の大東文化協会の設立にさかのぼる。同年、協会の主目的であった漢学を主とする東洋文化復興を振興するため、私立専門学校として大東文化学院が設置された。
 大東文化学院設立における一つの特徴をあげれば、非常に個性的な人物が沢山集まって創った学校であった、という点である。私学の場合、特定のカリスマ性のある人物のもとで学校が創られることが多いが、大東文化学院は著名な政治家のほか帝国大学や早稲田大学などに所属していた、多くの知識人が官私を越えて何年にもわたり、何度も話し合った末に出来た学校であった。
 後に内閣総理大臣となった初代総長平沼騏一郎は開院にあたって、教育にあたる教授陣は「孰れも各学派の泰斗にして当代の碩学大儒」であると述べ、錚々たる学者による、漢学及び儒学に関する最高の専門教育機関であることを自負している。

東京電機大学
  丹羽保次郎とファクシミリ

 ファクシミリ開発者が、東京電機大学の初代学長の丹羽保次郎である。
 1928年、新聞各社は、京都で行われる昭和天皇の即位式である大儀礼をいかに早く東京に伝えられるか、特に天皇の写真の伝送方法で悩んでいた。
 その中で朝日新聞社はドイツのコルン式を採用。一方、大阪毎日新聞社はフランスのベラン式を採用したが、テストで思うような画像が送れない。そこで大阪毎日新聞社はベラン式をあきらめ、日本電気に在職していた丹羽保次郎が開発したNE式写真電送機を採用することを決定。
 欧米からの技術導入が中心だった当時、日本の技術を採用するのは大きな賭けでもあった。
 11月6日、天皇を乗せた馬車が京都で行われる大儀礼に向け皇居を出発。丹羽保次郎はこの写真の大阪伝送に成功。そして翌日行われた京都での大儀礼の写真も見事、東京伝送を成功させた。
 これをきっかけに、日本の写真電送機は世界で認められるようになり、現在世界中で使われているファクシミリとなった。

関西外国語大学
  谷本多加子と万代池

 関西外国語大学には、二つの万代池がある。
 1945年、大阪市東住吉区に創設された「谷本英学院」が1947年に関西外国語学校となり、1953年には同市住吉区に関西外国語短期大学が開設された。校舎は万代池のほとりにあり、「万代学舎」と呼ばれた。当時制定された学歌の二番には「万代池に陽は映えて」と歌われている。
 万代学舎は1984年に枚方市穂谷に移転し「穂谷学舎」となった。そのとき、問題になったのは学歌。「学歌を変えるより池をつくろう」という創設者らの発想によって穂谷学舎の万代池が生まれた。
 一方、1966年に同大が枚方市の「片鉾学舎」でスタート、2002年に同市中宮東之町に移転し「中宮学舎」となったとき、こちらにも万代池がつくられた。大学の創設者・谷本多加子の銅像がその池を見下ろして立っている。

プール学院大学
  プール主教と女子教育

 プール学院大学は、イギリスの聖公会系の大学で、1879年に前身の「永生学校」が大阪の川口居留地に設立され、今年は創立130周年の年に当たる。今は共学だが、設立当初は女子教育が主体だった。
 学院の名前は明治時代のアーサー・ウィリアムス・プール主教(監督)に由来する。プールは故郷で、ダーウィンと同じ名門シュルーズベリー・スクールに学び、カンタベリー大主教からイギリス人として初めて日本に派遣された主教。北は函館から南は長崎まで、聖公会の教会や伝道所を回り精力的に宣教に努めた。
 わずかながら男子も預かっていた永生学校から、男子のための学校(桃山学院の前身)の設立に関係したのもプールだった。しかし、病により日本を後にし、33歳の若さで、故郷で亡くなった。

鎌倉女子大学
  松本生太と思い出の品

 鎌倉女子大学の創設65周年を記念し、同大大船キャンパス図書館棟一階展示サロンにおいて「学祖・松本生太先生と鎌倉女子大学の歩み」展が催されている。同展は、学祖・松本生太と千枝子夫妻、また二代学長・松本 尚と紀子夫妻所縁の品々の展示、また今日までの同大の歴史、学部体制、各施設の紹介パネル、その他学園の歴史に関する展示品などで構成されている。
 学園の歴史に関するコーナーには、京濱女子家政理学専門学校時代の1946年3月21日に行われた第一回卒業式に臨む松本生太の式辞の草稿、卒業生総代の答辞・在校生代表の送辞の原文が展示されており、戦災による学園の焼失や祖国と母校への篤い想いを読みとることができる。

京都光華女子大学
  大谷智子と「真実心」

 京都光華女子大学を擁する(学)光華女子学園は、1939年、東本願寺の故大谷智子(昭和天皇妃香淳皇后の妹君)の「仏教精神に基づく女子教育の場」をとの発願により設立された。
 爾来、同大は、み仏の心である校訓「真実心」のもと、慈愛の心、思いやりの心を教育の根幹として、豊かな人間性と広い視野をもってその時代の要請に応える女子の育成に努めてきた。
 総裁・大谷智子は、かつて「思はずも となへし御名にすくはるる 身の幸いをおもふ このごろ」という歌を詠み、学園に贈った。
 1990年の学園創立50周年に際し、女子専門学校に始まる同大の同窓会が、高校・中学校の同窓会とともに、母校の発展と総裁の建学の想いを次代に伝えたいと願い、翌1991年、総裁の筆によるこの歌を歌碑に刻み、記念講堂の南面の庭園に寄贈した。
 以来20年、同大の在学生は、行事の度にこの歌を見つめ、真実心の教えを胸に、学んでいる。

東京理科大学
  創設者21名とキャンパス壁画

 東京理科大学の基礎工学部生が一年次を過ごす北海道・長万部キャンパスには、同大の創設者21名の肖像壁画が掲げられている。
 明治14年、東京帝国大学の卒業生19名の青年理学士とほか2名が、「理学の普及」の理念のもと、「東京物理学講習所」を創設。当時は自由民権運動が華やかで、政経法科が盛んな風潮の中、21名の青年達は「国の繁栄は科学技術が基礎」という信念を持っていた。
 今日、創設者達の「理学の普及」という理念は、優れた理数教員を養成することで具現化され、同大は教育界のみならず産業界にも多くの人材を輩出してきた。近年では、毎年およそ5000名の卒業生・修了生を社会に送り出し、わが国の科学・技術の発展に寄与している。
 長万部キャンパスは、北海道の豊かな自然に囲まれ、学問の基礎を築くには理想的な環境である。この長万部の地に掲げられている壁画は、次世代の科学を担う若者達の寮生活を見守っている。

玉川大学
  小原國芳と心の交流 

【学長との対話】
 玉川大学の学長でもあった小原國芳は、新入生をクラス単位で自宅に招き、懇談の機会を持つことを恒例としていた。初めて訪問する自宅、そして間近での学長との対面に、学生たちは緊張の色を隠せない。そこで、講演会などで日本各地を訪れていた小原國芳は学生の出身地を尋ね、その土地での思い出を語り始める。懐かしい故郷の話に学生も打ち解け、和やかな時間が流れていく。写真が撮影された昭和45年の同大の学生数は4653名(女子短期大学を含む)。大学の規模が大きくなり、さらに学長が多忙であってもなお、この大切なひと時は持ち続けられた。当時の卒業生にとって思い出深い小原國芳の自宅は「小原記念館」として愛用品などとともに保存され、創立者の足跡を今に伝えている。
【森の修身】
 今から80年前、昭和4年4月に開校した玉川学園。幼稚部、小学部、中学部の児童・生徒と塾生あわせて111名、そして教職員18人の小さな学校としてスタートした。「雄大な自然は、それ自体が偉大な教育をしてくれる」と、自然の尊重を教育信条の一つとした小原國芳。日々の学習は教室内だけに留まることなく、キャンパスの豊かな自然の中でも行われた。写真は小学生の修身の授業。知識を得るだけでなく徳育も重視した小原國芳は、修身の授業を自ら担当。児童との様々な語らいを通じて、心の教育が行われた。創立から80年を迎えた現在もキャンパスには豊かな自然が広がり、季節ごとに異なる表情を見せる。教室を飛び出し自然から学び取る学習スタイルは、今もなお受け継がれている。

東京家政大学
  渡辺辰五郎と裁縫技術

 学校法人渡辺学園(東京家政大学)校祖・渡辺辰五郎は裁縫に関して「雛形尺」「袖形」「褄形」を考案した。「雛形尺」は鯨尺一尺(約38センチ)を三寸五分(約13.2度センチ)に縮尺したもので、半紙1枚の長さが鯨尺二尺となる。これは半紙を縦2枚に切ってつなげ、その幅を反物幅と仮定して一つ身、3枚で三つ身、6枚で本裁大人物1枚を裁つ縮尺で、極めて経済的配慮により教育的効果を上げた。渡辺式裁縫の大きな特徴でもある。当時、辰五郎が自宅裏の藪から竹を切り出し、ヤスリで目を入れ、くに夫人がこれに墨を入れて無料で生徒に配り、授業に使用した。この雛形尺は、後の度量衡制定の際、私製品としてはただ一つ例外的に認められた。
 「袖形」は袖の振りの袖口側底の丸みを作る時、袖形の丸みに沿って小針で縫えば、容易に時間をかけずに出来上がるものである。袖の袂の丸みと褄の形の作り方に、誰もがあまり苦労せずに美的に仕上げるために考案された。「褄形」も同様である。

東京工科大学
  片柳 鴻とロマンあるキャンパス

 学校法人片柳学園(東京工科大学)の理事長、片柳 鴻が大学設立計画を開始したのは昭和47年のこと。キャンパス設計にあたっては、高度化する情報化社会における技術革新や国際化が叫ばれる中、学園創立以来掲げてきた「理想的教育は理想的環境にあり」という理念に基づき、時代に応える教育にふさわしい環境を整えるべく様々な工夫を凝らした。たとえば、都市ガスを利用した発電装置による省エネルギーシステムや高度な情報通信機能、自動制御システムなどを導入。また、建築面においてもアメリカやヨーロッパ諸国の近代的キャンパスを数多く視察するなど、理想的な環境を整えるために奔走した。加えて、緑豊かなキャンパス内の随所に彫刻などの芸術作品を設置し、学生たちが卒業後も、誇りと愛着を持って想い起こせるロマンあるキャンパスを念頭に建設に全力を傾けた。そして、14年の長期にわたる準備期間を経て、昭和61年に東京工科大学を開学させた。

中村学園大学
  中村ハルと“努力”

 「努力の上に花が咲く」―学校法人中村学園(中村学園大学)の創立者、初代理事長である中村ハルが、晩年若い世代の学生達へ贈り続けた言葉である。
 明治35年に17歳で教壇に立ち、料理研究50年を含めた教師生活70年、努力に努力を重ね続けたその生涯であったればこそ、この言葉は国の内外を問わず、現代に生きる老若男女、どのような人々へも伝えられる熱いメッセージである。学園の学生・生徒・卒業生や教職員など、それぞれが持つ夢を実現するための原点が、この言葉に集約されている。「努力の上に花が咲く」という言葉を在学中に聞いても、「なんだそんなこと」とその言葉の深い意味は正直なところわからない。卒業して人の親となり、あるいは様々な困難を克服しながら人生を生き抜くなかで、この言葉の重みをひしひしと感じるようになる。卒業後数十年経過して初めて、母校を卒業したことを誇りに思い、創立者・中村ハルへの尊敬や敬愛の念を抱いたと多くの卒業生は語る。

京都外国語大学
  森田一郎夫妻とおもてなしの心

 京都外国語大学の創立者・森田一郎は、人と人との出会いを大切にし、生涯ひとり師のみでなく、他の人々に対してもこの姿勢は変わることがなかった。
 元ユーゴスラビア大使や初代国連大使を務めた加瀬俊一を教授として迎えいれる際、森田一郎と倭文子夫人は鄭重にもてなし、その奥ゆかしい態度に心動かされたというエピソードがある。
 一郎・倭文子はともに慧眼の人であり、人を得るためには千里の道も遠しともしない行動の人であった。三顧の礼を尽くし「奥ゆかしく鄭重に」人を迎え、遇し、さらにはその家族や客人までも手厚くもてなす。人はそのような誠意に対し、信頼をより厚くする。そうした人を思いやる心の深さ、細やかさが一郎・倭文子の人間的魅力であった。

国士舘大学
  柴田徳次郎と大講堂・創設期

【歴史伝える大講堂】
 学校法人国士舘(国士舘大学)は、大正6年11月4日、青年大民団本部事務所(現港区南青山)内に夜学の私塾として誕生した。青年大民団とは、当時の世相を憂えた早稲田大学の筑前学生会などが中心となって発足した青年学生社会改良団体ともいうべきもの。国士舘創立者・柴田徳次郎もその一員だった。大正8年11月、国士舘は、青年大民団本部事務所内より、世田谷松陰神社畔に移転するとともに財団法人を設立し、高等部を開設することとなる。写真は、その上棟式が行われた際の大講堂を写したもの。青年大民団の機関誌『大民』四巻八号に掲載された「國士館上棟式記事」によれば、「講堂は(中略)鎌倉時代の講学所に観る如く、或は僧院の堂宇に似て、堂々百有八畳敷。廻廊附、礎石を高くして(中略)純乎たる日本式を発揮せる」と記されている。この大講堂は先の大戦の戦火もくぐり抜け、現在も同地にあり、在りし日の国士舘を伝える貴重な文化財ともなっている。
【緒方竹虎と柴田徳次郎】
 国士舘創立当時、柴田徳次郎の知友には、その後も国士舘を支え続けた人々がいた。
 中でも最大の理解者であり、庇護者であったのが緒方竹虎だった。緒方竹虎は、福岡で育ち、早稲田大学卒業後、朝日新聞の主筆として活躍した後、衆議院議員に転身し、内閣官房長官・副総裁を歴任した政治家。柴田徳次郎とは、大学の同窓・同郷の縁から親交を持ち、青年大民団でも活動をともにした。写真は、緒方竹虎が昭和31年に68歳で逝去した折り、学生を前に、偉大な功労者を讃える訓話を行っている柴田徳次郎の姿。そして、翌年に完成した体育館には緒方竹虎の肖像画が掲げられた。

梅光学院大学
  ヘンリースタウト夫妻が遺したもの

 明治2年、すべてが東京へと集中する時代、同学院の創立者・ヘンリースタウト博士夫妻は、アメリカから長崎の地に降り立った。はるか東京から離れ、いまだキリシタン弾圧が残るこの土地で私塾を開き、神学教育と女子教育を志したのだ。スタウトは、約40年間にわたって苦難の中で神学校設立に奮闘した。しかし、この運動は南日本伝道会社などの賛同を得ることができず、その志は叶わなかった。傷心のまま帰国するスタウトを見送ったのは、たった二人の日本人と一人の外国人だけであった。
 しかし、何をなしとげたかではなく、何を遺したかという問いに、スタウトはその生涯をもって答えたと言うことができる。「多くの人々を教える教師たちの教師になりたい」と語った彼の育てた弟子たちは、その後、西南地区の伝道の大きな礎となっていった。そして長崎の地で開いた彼の私塾は発展して、山口県の下関市に移り、梅光学院として138年後の今も続いている。

京都ノートルダム女子大学
  シスター・ユージニアと日本での教育

 シスター・メリー・ユージニア・レイカーが京都に是非カトリック校を設立してほしいという日本からの熱望に応えて、当時のアメリカ・セントルイス管区の管区長マザー・エヴァンジェラおよび3名の同僚のシスター達と日本に到着したのは昭和23年11月28日であった。今日と異なり、アメリカから日本への空の旅もそのころはプロペラの飛行機で、ウエーキ島などで給油しながら30時間ほどかかった。
 写真は、初代理事長、初代小学校校長、初代中・高校長、そして初代大学学長を務めたシスター・ユージニアが、日本へ赴いた時に使用した「トランク」である。
 【整理箱】
 第一陣の荷物箱として運ばれた約70個あまりの木箱の板を利用して、押し入れ用の整理箱や戸棚に加工して使用した。第一陣のシスターが来日時、日本は極度の貧困と荒廃の中から立ち上がろうとしていた時期で、食料品、物資は入手することが難しかった。木箱は、日本人に迷惑をかけないようにと約2年間分の食料その他の生活物資を、厚さ2センチの頑丈な木箱約70個に詰めてアメリカから船便で送られてきたものだった。
 食糧にはドライエッグなどの乾燥食品や小麦粉などがあり、皿やスプーンから簡易浴槽まで予想されるすべての生活用品が送られていた。すべての箱には「SSND」の刻印と手書きの整理番号が書かれている。
 【チョーク】
 教育活動に必要であろうと、アメリカより持参したものの一つがチョークだった。近所の方々を集めた英語のレッスンや日曜学校でも使用された。当時、カラーチョークは貴重品の一つだった。

桜美林大学
  清水安三夫妻と二つの学園

 学校法人桜美林学園(桜美林大学)の創立者である清水安三は、中国・北京の朝陽門外に大正10年、地域の貧しい子女教育のために「崇貞学園」を設立した。しかし、この学園は、日本の敗戦によって中国政府に接収されることとなり、清水安三・郁子夫妻は、日本への引き揚げを余儀なくされた。
 敗戦翌年の昭和21年、清水夫妻はトランクとリュックに入る荷物だけを持って、東京・町田(当時の忠生村)の地へたどり着き、新たに「桜美林学園」を立ち上げた。当初は、高等女学校としてスタートし、後に中学・高校・短大、そして大学と設置が進んだ。
 写真の後ろに見えるのが当時の校舎で、戦時中、戦車・砲弾製造工場として造られた相模陸軍造兵廠の寄宿舎を改装したものであった。当時の周辺は、桑畑などの畑が広がっていたことがわかる。初代の学園長には、清水郁子が就任した。

福岡歯科大学
  ヒポクラテスの木と校歌によせる想い

【ヒポクラテスの木によせて】
 ヒポクラテスの木の名前の由来は、医学関係者ならご存知のことだろう。古代ギリシャの医聖ヒポクラテスが、プラタナスの大樹の陰で弟子たちに医学を教えたことに由来している。ヒポクラテスは、医師の倫理性と科学的な医学を発展させたことで有名で、特に「ヒポクラテスの誓い」は医療人の倫理模範となる誓いである。そして、同大にある木が、まさにその「鈴かけの木(プラタナス)」である。当事の池尻 茂九州歯科大学学長の好意により一部を譲っていただいたもので、また、それは日本赤十字社が昭和52年創立100周年記念にギリシャ赤十字社から贈られた由緒正しい系統の苗木の挿し木であるとのこと。虫や台風の被害等で現在は、親木から子どもの木になったが、これからも系統が絶えることがないよう見守っていく。



【校歌作詞者が自筆歌詞を寄贈】
 福岡歯科大学には、校歌作詞者である片岡繁男(歯科医師・作家)寄贈の自筆の歌詞がある。片岡は、小説、随筆、詩集、句集の著作や作詩、校歌の作詞などを手がけ、日本歯科医師会会歌の作詞者でもある。校歌は本学開学(昭和48年4月)に合わせて作られ、歌詞には新しい歯科大学として、ユニークで自由な学風を皆が努力して樹立し、全人的医学で新しい世界を拓いてほしいという願いが込められている。

福井工業大学
  金井兼造と技術者養成

 学校法人金井学園(福井工業大学)の創立者・金井兼造(前総長・学園長)は、27歳当時、戦後の復興と繁栄には技術者の養成が急務であると考えていた。そして、当時の北陸三県には電気技術者を養成する学校がなかったこともあり、昭和24年に無線やラジオの知識を教える夜間学校、北陸電気学校を創立。これが今日の学園の礎になっている。
 当時の校舎は事務所と一つの教室だけで、倉庫を改造したものだった。その後、昭和25年に認可を得て、学校教育法に認定された北陸電気学校が誕生した。夜間学校から全日学校に、そして高等教育機関に発展し、ついに昭和34年、学校法人金井学園を設立し、理事長として本格的な私学経営に乗り出した。

聖徳大学(聖徳学園)
  川並香順と愛犬リキ

 (学)聖徳学園の創立者川並香順は、日本私立幼稚園連合会理事、東京都私立幼稚園協会理事、全国幼稚園教員養成機関連合会副会長、東京都保育学校協会副会長等に就任し、多忙な日々を送っていた。
 こうした時期に、白いスピッツの「リキ」が香順のもとに来て、学園の仲間として加わった。学園の校舎と川並家の住居は、同じ建物の中にあったので、リキは毎日事務室にある香順の机の下を居場所にしていた。帰宅時には、外に迎えにかけ寄り、恋人に出会ったように全身で喜びを表した。食事中も香順に寄り添い、おこぼれをもらうのが大好き。夜は必ず一緒の布団で寝て、夫人以外はまったく近づけさせなかった。学園の卒業写真でも、必ず前列中央の香順の隣に座って写っていた。香順は、そんなリキのノミ取りをして、自分の時間を楽しんでいた。
 ちなみに、学園マスコットの仔犬のぬいぐるみには、「リッキー」という名前がついている。

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